49話 追撃戦③
二十九階は破壊の轟音で満たされていた。
それは男が激突するたびに床や天井が粉砕されていく音だった。
クード隊長の増強された超人的な腕力の前に、体重百キロ近い男の身体がまるで紙人形のように軽々と翻弄されていた。電撃を帯びたチタン-ミスリル合金製の強靭な鎖で幾重にもがんじがらめに縛りあげられたまま振り回され、幾度となく叩きつけられ、ついに男はいかなる抵抗も示さなくなった。
失神したか、それとも既に絶命しているのか。
仕上げとばかりに隊長は渾身の力を込めて男を床に叩きつけた。男はぐしゃっと湿った音を立てて床に深々とめり込んだ。その周囲に血が飛び散った。
籠手内部の巻取り機構を始動させ鎖を手繰り寄せる。ジャラジャラと音を立てて鎖が巻き取られると共に、男は床の上を引きずられ、隊長の足元に横たわった。
隊長は男の状態を観察した。男は完全に意識を失っていた。激しい激突を繰り返したせいで男の顔の形は歪み、おまけに頭蓋がぱっくりと割れて脳が覗いている。血塗れの顔は蒼白だった。手足の骨も折れているようだ。
王都を震撼させた悪魔も、もはやこれまでか。
ここで一思いにとどめを刺してしまいたい所であったが、この男の犯した罪はあまりにも重かった。やはり公に裁きの場に引き出し、真相を解明した上で断罪するべきだ。間違いなく、この外道には死刑よりも過酷な「地獄刑」が適用される事だろう。死ぬことさえ許されず、極限の苦痛と恐怖を主観的には永遠に味わい続けるのだ。
隊長は当局に男の身柄を引き渡すに先立ち、もっとも強い「第七式拘束の呪法」を四重にかけて男を封印しようとした。
その時だった。背後で病室のガラスが砕け散った。
反射的に振り返った隊長は信じがたい光景を目にした。
部下の遊撃隊員たちが同士討ちをしていた。隊一番の巨漢のドルムズに対し、三人の戦士が襲いかかっていた。それは消息を絶った突入二班の戦士たちだった。ドルムズは三人の槌鉾の打撃をなんとか戦斧で受け止めると、まとめて跳ね除けた。三人は壁に叩きつけられたが、すぐさま体勢を立て直し再びドルムズに肉薄してきた。
「た、隊長!これはいったい!」ドルムズが叫んだ。
しかし、背後に気を取られたのが失敗だった。
さきほどまで瀕死状態だった男が突然、目をカッと見開いた。
次の瞬間、男の全身を固く縛り上げていた鎖がバラバラになって弾け飛んだ。男はゆらりと立ち上がった。その身体から鎖の残骸が滑り落ちる。
「貴様!!」
隊長は斧槍で男を突いた。しかし男は体を反らして紙一重でそれを回避すると、ゆらゆらと力なく揺れながら後方へと漂っていった。
「痛つつ、頭が痛ぇ……。あんたと戦うのはもう勘弁だ……やっぱり弱い相手を一方的に殺す方が俺の性に合ってるな……」
男は漂いながら、廊下の曲がり角の向こうに消えようとしていた。
「待て!!」隊長は男を追った。
「……後ろを気にした方がいいぜ」
姿を消す直前、男がつぶやいた時だった。
身長二メートルを超えるドルムズの巨体が背後から吹っ飛んできて、隊長の背中に激突した。その衝撃に隊長の肺の中の空気がすべて叩き出された。目の前に星が踊り、一瞬意識が遠のきかけた。しかし隊長は何とか踏み止まって体勢を立て直した。しかし、その隙に男は姿を消していた。
「くそっ!」
「た、隊長……」
その声に隊長は視線を下に向けた。ドルムズが重症を負い廊下に横たわっていた。
片腕をついて何とか上体を起こそうとしていたが、それがやっとだった。頭部装甲は失われ、むき出しになった顔面を幾筋もの血が流れ下っていた。胸部のプレートには大きな陥没が出来ていた。至近距離から撃たれたようだ。口から血を吐いている事から判断して折れた肋骨が肺や内臓に刺さっているに違いない。今すぐ治療しなければ命に危険がある。隊長は治癒魔法を発動させ、応急処置を行った。
「ごふっ……申し訳……ございません、隊長」
「今はこの程度の処置しかできん。もう少し待て。死ぬんじゃないぞ」
隊長は操られた三人の戦士に対峙した。
三人とも槌鉾の先端をこちらに向けている。その先端は赤く赤熱していた。フルチャージで銃撃した直後の状態だ。あれではすぐに次弾を撃つことはできない。それを瞬時に見て取った隊長は走った。そして斧槍を一閃して三人の手から槌鉾を叩き落とした。そして三人のうち中央に立つ一人に体当たりすると、廊下に引きずり倒して組み敷いた。頭部装甲の取っ手に手をかけると、強引に引きはがして投げ捨てた。そして、その下から現れた顔に拳を叩きこんだ。精神支配の術ならこれで解けるはずだ。
しかし、その時ようやく隊長は気付いた。
その戦士、リンドス一等兵はまったく呼吸をしていなかった。瞬きもしていない。その蒼白い顔には生気というものが完全に欠落していた。右眼を深々と貫かれており、そこから流れ出た血は早くも腐りかけていた。
明らかに、リンドス一等兵は死んでいた。
「まさか、屍霊術か」
リンドスの手が毒蛇のような素早さで繰り出され、隊長の頭部装甲前面に張り付いた。凄まじい握力でそのまま握り潰そうとでもいうのか。
「リンドス、済まない。必ず敵は討つ」
隊長の拳が金色の炎に燃え上がった。それは不浄なるものを滅する浄化の炎だった。「聖光拳」。隊長は黄金に燃え立つ拳を再び元部下の顔面に叩きこんだ。不浄な魔術に支配されていたリンドス一等兵の体は金色の輝きを発すると、白い灰となって崩れ落ちた。後には空っぽになった赤い装甲だけが残された。
「さあ来い。お前たちも楽にしてやろう」
隊長は残る二人に向き直った。
残る二人を葬った直後、隊長は一班と合流した。うち一名のみドルムズの手当のためその場に残し、それ以外の全員で男が逃走したと思われる上の階に向かった。
「……なぜだ。なぜ防壁が消えている」
隊長は愕然とした。安全確認済みの上階との間を隔てていた「不可侵の呪法」の光の壁が跡形もなく消失していた。
付近を捜索すると、防壁を張っていた三名の戦士が遺体となって見つかった。少し離れた場所には、その場にあるはずのない遺体がもう一つ見つかった。突入一班所属のリーグ一等兵の遺体だった。エレベーターシャフト内で男と交戦し、死んだ彼の遺体はシャフトの底で眠っているはずだった。しかも彼の遺体は右半身が激しく損傷していた。残された周囲の状況から判断し、屍霊術で操られたリーグの遺体が防壁を張っていた三人を襲ったようだった。
「子供たちが危ない……先を急ごう」
絶望的な予感に苛まれながら、一行は上へと向かった。
そこに広がっていたのは地獄絵図だった。
患者の子供たちや医術師たちが隠れていた病室は、ことごとく殺戮の場と化していた。ある部屋は焼き尽くされ、炎の中におびただしい数の焼死体が転がっていた。別の部屋ではマイロン街事件の再現が演じられていた。犠牲者たちは肉片と化して床一面に飛び散っていた。
男を見失った後の短時間で、これだけの虐殺を成し遂げたとは信じられない程だった。
救出すべき生存者を探し、隊員たちは病院内をさまよった。かろうじて殺戮を逃れた子供が数名、病室の隅でショック状態に陥っているのを発見し保護した。しかし、それ以外は行けども行けども死体の山が築かれているのみだった。
最上階、院長室に辿り着いた一行を出迎えたのは、院長の机の上に山積みにされた子供たちの頭部だった。子供たちの虚ろな目は、隊員たちを責めるように恨めし気に見つめていた。院長の姿は影も形もなかった。
明らかに、男は人質を取るつもりなどなかった。
多少とも合理的な思考を持ち合わせている相手なら、人質を取り、その解放と引き換えに逃走経路を確保するよう交渉を持ちかけてくるはずだった。しかし、遊撃部隊員たちの読みは甘かった。男は合理性など微塵もない完全な狂人だった。
隊員たちは打ちひしがれた思いで、院長室の真ん中に立ちつくしていた。