45話 狂乱の夜
ズズズズズ……
地上58階建ての高層アパートは地面に沈み込むようにして倒壊していった。建物の崩壊で舞い上がった粉塵の雲が周辺一帯を押し包んでいく。
「こりゃまぁ……たまげたな」
倒壊するアパートから離れた高層建築の屋上。コジルは望遠鏡を下ろした。彼はエルフ族だった。
二十日ほど前の深夜、コジルの住む王都のエルフ居住区に、ある少年が現れた。驚いたことに彼は自らが導師レオドであり、居住区のエルフたちの助力を求めてると語った。コジルを含め、みんな最初は半信半疑だった。しかし少年は「導師の印」を空中に顕現させてみせた。あれを見せられては信じる他なかった。導師が居住区のエルフたちに命じたのはある男の監視だった……。
それ以来、コジルは男を監視していた。
彼が受け持っていたのは在宅中の男の監視だった。彼はこの古ぼけた高層アパート屋上に潜み、男の部屋を見張った。ある時はハトの眼を借りて男の部屋を窓辺から覗きこみ、またある時は天井の隅に巣を張るクモの眼を借りて室内の男を見下ろし、またある時は今のように彼自身の眼と望遠鏡で男を観察した。
つまらねぇ男だな、とコジルは思った。食事や買い物に出かける以外は毎日部屋にこもりきりで、働きもせず、誰とも会わず、女も連れ込まない。部屋では特に何をするでもなく、魔道書などを読んでいるだけだ。これが本当に王都を震撼させたマイロン街事件の犯人なのだろうか。ただの無気力で人嫌いな男にしか見えない。
コジルはあくびを噛み殺し、あごひげをなでさすりながら、来る日も来る日も監視を続けた。
しかし今夜、事態は急展開を迎えた。
八時三十二分、五機の武装浮揚艇に守られて、二機の兵員輸送船と一機の装甲浮揚艇がアパートの上空に飛来した。地上五十階付近の係留バルコニーに横付けした兵員輸送船から降り立った五十数名の武装兵たちがアパート内部へとなだれ込んでいった。
非武装の民衆約五百名を殺害した魔道犯罪者に対するものとしては十分すぎる戦力配分だ。王都警備隊の判断は適切だったと思う。しかし、彼らには決定的な情報が欠けていた。それは男が殺せば殺すほど魂を喰って強くなる魂食獣であるという事実。マイロン街事件当時の男なら、今回の襲撃で男は倒されていただろう。しかしあの事件でおびただしい量の魂を吸収して、男は桁違いに強くなっていた。そして今夜、突撃部隊の魂を吸収しさらに手が付けられないほど強くなったことだろう。
兵士の突入からわずか十分足らずで全てが終わった。コジルは男の恐ろしさをまざまざとその眼に焼き付けた。
まぁ何にしろ男の自宅が消滅した以上、彼の任務はこれでお終いだ。居住区に戻って長老たちに今回の顛末を報告しなければ。それ以外に、あんな化物相手にできる事など何もない。後はハイチャフ・ギルフの森から派遣されたという最上級戦士たちの到着を待つしかない。
その時、コジルが潜む高層アパート屋上にも粉塵の雲が押し寄せてきた。塵を吸い込まないよう慌てて口元をスカーフで覆う。辺りは真っ暗闇になり何も見えなくなった。
王都警備隊本部は大混乱に陥っていた。
兵員輸送船パイロットからの悲鳴混じりの念話を最後に、突入部隊からの通信は完全に途絶していた。それ以来、再三の呼びかけにも関わらず兵員輸送船も装甲浮揚艇も、兵士の誰一人といえども一切応答しなかった。男の反撃で突入チームが全滅するなど完全に想定の範囲外だった。
さらに混乱に拍車をかけるような事態が発生しつつあった。
約三十分ほど前からだった。王都の各地から、複数の高層建築の倒壊、火災、それに魔術による無差別大量殺人の通報が多数寄せられはじめたのだ。警備隊の隊員たちは直感した。突入チームを返り討ちにした男が、ついに本性をむき出しにして暴れはじめたのだ。
至急、突入チームの救援部隊が組織されようとしていた、その時だった。
本部に向かって、一機の武装浮揚艇が接近しつつあった。
警備隊所属の浮揚艇だ。しかし何かがおかしかった。
誰何に答えない上、飛行速度が速すぎた。制限速度をはるかに超過している。しかし、管制員がその事に気付いた時にはもう遅かった。
男の屍霊術で操られた死体の操縦する武装浮揚艇は猛スピードで警備隊本部の城塞のような建物に激突した。
「仲間を殺せ」。男の与えた指令に忠実に従い、僚機を撃墜するのに武器弾薬を使い果たした浮揚艇は、最後に限界を超えて加速し、強力な運動エネルギーでもって自らを巨大な砲弾と化して本部に帰還したのだ。浮揚艇は警備隊本部の分厚い外壁を突き破り、将兵たちが今まさに救援作戦を練っていた作戦室を蹂躙し、最後に司令室を破壊してようやく停止した。
この突入で本部長を含め幹部八名と部隊長十一名、一般兵員四十三名が死亡した。王都警備隊設立以来はじめての本部への直接攻撃だった。
男は王都上空を飛び続けていた。
眼下には無数の街灯がきらめく街路が広がっている。低層の街路の上には高層建築群が光の塔となって厳かにそびえ立っている。これぞまさに、その美しさ値千金の王都デリオンの夜景。
男は美しい夜の町に向けて灼熱の火球を放ち、またはすれ違う飛行車を圧縮の呪法で鉄塊に変えてパチンコ玉のように撃ち出し、無造作に破壊を振りまきながらある場所へと向かっていた。
デリオン王立魔術学アカデミー。
この都市の優秀な頭脳の集まる最高学府。ここでは日夜様々な魔術の研究が行われているという。男は新たなる魔術、新たなる能力を求めていた。より多くの人間を殺傷できる、さらに凶悪な力を。