40話 獣人
ピチャン……ピチャン……
どこかで水が滴る音がする。
グレンは暗闇の中で意識を取り戻した。辺りの空気はひんやりと冷たく、体が横たわる床は石の固さを伝えてくる。気を失っている間に、店からどこか別の場所に運び出されたようだ。両手は後ろに回され、手首を縄で縛られていた。店員に殴られた鼻とねじられた腕はまだ痛むが、それ以外に大きな怪我は無さそうだった。
「うぅ……」
すぐそばの闇の中からうめき声が聞こえる。店員だった。彼らも一緒に拉致されたのだ。どうやら意識を失っているか、ひどく負傷しているようだ。
一筋の光も射さない真っ暗闇の中で、グレンは横になったまま考えた。店を襲ったのは一体何者なのか。なぜ自分や店員が拉致されたのか。そして、フーシェたち媚獣はどうなったのか。皆目見当がつかなかった。
意識を取り戻してから二時間ほどが経過した時だった。グレンの目は光を捉えた。光はどんどん強くなっていく。それとともにこれまで闇に覆い隠されていた光景が浮かび上がった。グレンがいるのは牢獄だった。鉄格子がはまった部屋に、店員の男たちと一緒にずた袋のように放り込まれて監禁されていた。
鉄格子の前の通路にランタンを手にした何者かが姿を現した。長時間暗闇に居続けたグレンの目はその眩しさに耐えられなかった。目を固く閉じ、顔を背ける。その間に、何者かが鉄格子の鍵を開け、何人かが牢獄内に入ってきた。
「立て」
房内に入ってきた何者かが言った。そしてグレンの体をつかみ上げ、荒々しく立たせた。グレンの背後では別の数名が店員の男たちを引っ立てようとしていた。
「立つんだ、オラ。早くしろ!」
グレンの背後から急き立てる声が聞こえた。それに対し、店長が反抗して暴れ出した。
「……放せこの野郎っ!俺に触れるんじゃねぇ!てめぇ!」
「大人しくしろ!」
監禁者は短く言うと店長を殴打しはじめた。棒のような物で打つ音と呻き声が続き、それっきり店長は沈黙した。
「うぅ……助けてくれ……殺さないでくれ」もう一人の店員、レギスが泣き言を言った。
「来い」
謎の人物は短く言うと、縄を引いてグレンたちを房から連れ出した。
ようやく目が光に順応してきたので、グレンは目を薄く開き、監禁者たちの姿を観察した。全員黒い服を着、頭にも黒い頭巾を被っている。その素顔は伺い知れなかった。グレンの前をレギスが連行されていく。彼は肩を落とし震えながら歩いていた。グレンの後ろからは、気を失った店長の体が床の上を引きずられる音が聞こえた。一行は一列になり、ランタンの照らす狭い範囲以外は闇に包まれた通路を黙々と歩いていった。
通路を三分ほど歩かされた後、一行は大きな鉄扉の前で立ち止まった。黒装束の監禁者の一人が歩み出て、頑丈な扉を押し開けた。グレンは後ろから小突かれながら、扉をくぐった。
扉の先は広大な部屋だった。おそらく放棄された劇場の跡地だ。グレンたちが出たのは舞台の袖だった。舞台上にはランタンが灯されているが、それ以外の部屋の大部分は闇に沈んでいた。
闇に包まれた客席に目を向けたグレンは驚愕した。そこには無言の群衆がひしめき合っていたのだ。彼らは身じろぎもせず、舞台上のグレンたちを凝視していた。暗くてよく見えないが、彼らの姿にはどこか奇妙なところがあった。
いったいこれは何だ。カルト宗教の集会か。
ドーン……ドーン……
その時、どこかで銅鑼が打ち鳴らされた。そして、ステージの反対側から一人の人物が姿を現した。
大きい。身長は二メートルを軽く超えている。長身なだけでなく、その全身が分厚い筋肉の鎧で覆われている。筋肉の盛り上がるその腕は女の胴体ほどの太さがあった。ランタンの光がうねる筋肉に深い陰影を刻んでいる。身に着けているのはごわごわした獣の毛皮と、肩からたすきに掛けた極太の鉄鎖のみだ。
全身から力強いオーラを放射するその人物は、群衆に肉体を誇示するかのように悠然と歩み、ステージ中央の演壇に立った。
その顔は、醜悪だった。
それは獣の部分と人の部分がモザイク状に入り混じるグロテスクな顔だった。顔面の右半分は褐色の毛に覆われ獣そのものだ。オレンジの右眼は獰猛にぎらついている。しかし左半分は皮膚がむき出しで人間だった。黒い左眼は知性と意志を宿して光っている。その真ん中で、猪のように潰れた鼻が貪欲に濡れ光り、整った唇からは鋭い牙が覗いている。その顔を黄金のたてがみが取り囲んでいる。
首から下についても、人間と獣が入り混じっていた。右腕、両足の膝から下など、先ほど毛皮をまとっているように見えた部分も、よく見ると彼の肉体そのものだった。
醜い獣人は演壇から群衆に語りかけはじめた。
「皆の衆よ、喜べ!今宵の襲撃は大成功であったぞ!」
「ウオオオオオオ!」客席に詰めかけた群衆が歓声を上げた。
「卑劣なる人間どもの隙を突き、囚われの身にあった仲間たち総勢三十八名を救出することができたのだ!」
「ウオオオオオオオオオ!」
「これはかつてない成果である!四か所の娼館を同時襲撃し、いずれの場所でも当方はひとりも犠牲者を出さずに最大の戦果を挙げることができたのだ!」
室内は割れんばかりの拍手喝さいに包まれた。
「これより、救い出したる三十八名を我らの仲間に迎え入れる。新たな仲間たちよ、前へ」
それまで控えていた三十八匹の媚獣たちが階段を登り、舞台上に姿を現した。娼館で着せられていた扇情的な衣装に代わり、ボロ布を体に巻き付けている。全員がこの場の状況に戸惑い、不安そうに互いに身を寄せ合っている。その中に、フーシェの姿もあった。
(…フーシェ!…)グレンは思念を送った。
フーシェは振り向いてグレンの姿を目にとめると、パッと表情を輝かせた。
その間も、舞台上では何らかの儀式の準備が進められていた。大きな鉄の盃が三つ運ばれてきて並べられた。舞台両脇に篝火が設置され、そこに炎が灯された。燃えあがる炎がこれまで闇に包まれていた場内を赤々と照らし出した。
客席の群衆は、人間ではなかった。
全員が媚獣だった。ただし、その姿は娼館の少女たちのように愛らしくはなかった。その身体は老い、傷つき、垢にまみれ、いびつにねじ曲がっていた。そしてその瞳は紛れもなく怒りと憎悪にギラギラと燃え盛っていた。
まさか、これが年老いて捨てられた媚獣たちの成れの果てなのか。
ドドドドド……。太鼓が低く打ち鳴らされ始めた。
三十八匹の媚獣たちを前にして、醜い獣人が語り始めた。
「これより、儀式を行う」
「お前たちは今日より、人間どものくびきを離れ自由の身となる」
「そして盃を受け、我が民となるのだ……」
「我らは媚獣にあらず……」
「我らは媚獣にあらず!!」場内の群衆が唱和した。
「それは人間どもが与えた偽りの名……我らの存在を不当に貶める屈辱の名……」
「いにしえの時代、我らが祖先は鋭い牙と爪をもって人間どもを脅かし、略奪をほしいままにした」
「偉大なる祖先たちの血は、今も我らの中に脈々と受け継がれている……」
「長き雌伏の時を経て、今ここに我ら再び立ち上がらん!」
「我らは決して媚獣にあらず!我らが真の名を思い出せ!我らの名は獣人族!」
「ライカンスロープ!ライカンスロープ!ライカンスロープ!」群衆が絶叫した。