4話 邪悪の侵入
闇。
一筋の光さえ存在しない、完全な暗闇。そして速度。
はじめに男が認識したのはそれだけだった。それ以外は何も見えず、何も聞こえない。何処とも知れぬ無音の闇の中を、男は弾丸のようなスピードで果てしなく落ち続けていく。あるいは、飛び続けているのか。
やがて、わずかずつではあったが、闇と速度以外の物が意識に上りはじめた。自分の記憶。かつて多くの人を殺め、絞首刑を受けたこと。そして死の瞬間の凄まじい激痛の記憶。それらが闇の奥から手繰り寄せられるように現れ、男に繋がっていく。粉々に砕け散っていた男の自我が再構築されていく。
ざわめきが、世界を走り抜けた。
南海の小舟の鮮やかな帆を、都の尖塔を舞う鳩の群れを、西の霊樹の森の梢を、北の凍てつく草原の狩人の焚き火を、東の聖堂に集う賢者たちのローブの裾を、得体の知れない戦慄がかき乱した。
かつてないほど邪悪な存在が、この世界にやって来ようとしている。その時、多くの人々が同時に不吉な予感を抱いた。
光。
男のまぶたを温かい光が照らしていた。目を開く。枝葉の隙間から澄んだ光がまっすぐに眼を射た。まばゆさに男は再び目を閉じる。
林床を覆う柔らかい草の上に、男は横たわっていた。
ここは死後の世界なのか?しかし、それにしてはこの場所はあまりに美しく、静謐だった。生前の男の所業を思うと、もっと過酷で荒涼とした光景の場所、即ち地獄こそが似つかわしいのだから。死神の手違いか。あるいは魂の選別基準は善悪を超越しているのか。それとも、ここは死後の世界とは似て非なるどこかなのか。
男が着ているのは死刑執行時の服装ではなかった。ワイシャツに黒のスラックス、ミリタリーブーツ…。梅田無差別殺傷事件の犯行当時のものだった。
仰臥した男の周囲では朝露に濡れた草が木漏れ日にきらめいている。それを少し離れた所から、臆病なげっ歯類が黒い瞳でじっと凝視していた。
すると、男の手がゆっくりと動き始めた。様子を窺っていたげっ歯類が慌てて逃げ出す。男の手が草の中に埋もれている何か硬い物体に触れた。握りしめる。手になじんだその感触は忘れようもなかった。ククリナイフ。犯行時に使用した凶器だった。
男は草の上から起き上がる。体が再び自由に動くようになっていた。繊細な野草を踏みにじり、男は何処かへと去っていった。その瞳には凶暴な光が宿っていた。