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38話 媚獣

 数日後。

「今日から営業再開らしいぜ。飲みに行くか」

「いや、俺はいいや。やめとく」

「何でよ」

「だってさ、まだ犯人捕まってないんだぜ。また起きるかも……」

「大丈夫だって。ビビりすぎだぜお前」


 レイントロン浮揚機社第一工場の作業員用ロッカー室。汗臭い室内に窓から夕日が差し込んでいる。

 グレンは一人黙々と着替えながら、同僚たちの会話に耳を傾けていた。彼らはマイロン街にほど近い酒場について話していた。


 王都警備隊の捜査が一通り終了し、被害者の遺体、遺留品の回収も昨日で完了したことを受け、商店や飲食店の多くが今日から営業を再開していた。それまでの数日間、大量殺人の現場となった中央通りだけでなく、マイロン街の周辺一帯が捜査のため封鎖され、全店舗が営業を停止していたのだ。

 

 デリオンでも最もにぎやかで華やかな街で起きた惨事。その想像を絶する被害の全貌が判明したのは数日後のことだった。

 遺体の損壊が激しいため、当初は犠牲者の人数さえ判然としなかった。その後の数日間で、事件の夜にマイロン街に出かけて行方不明になっている人物の捜索願が相次いで出された。その数、538名。捜索願が出されていない人間のことも考慮すると実際の被害者の数はさらに一回り以上多いだろう。現場に残された遺骨と照合した結果、これまでに何名かの身元が特定され死亡が確認された。しかし、全ての被害者の身元が特定されるまでには、まだまだ長い時間がかかるだろう。



 グレンは以上の事を新聞で読んで知った。

 あの夜、グレンもマイロン街にいたのだ。ある店に行こうとしている途中で街の異変に気付き、野次馬根性で現場を見に行こうとした。しかしそこで押し寄せてきた群衆に飲み込まれ、もみくちゃにされているうちに気が遠くなった。そこから先の記憶は全くなかった。

 気が付けば朝で、清潔な寝間着を着て自室のベッドで横になっていた。体中のだるさがひどく、ベッドから起き上がることさえできなかった。どうやら群衆の中で気を失って倒れたようだった。それを誰かが介抱し、部屋まで送り届けてくれたのだろうか。あまりに体調が悪かったので、その日の仕事は欠勤した。



 そして今日。

 グレンはあの夜行けなかったあの店に、今夜こそ行こうと決意していた。

 マイロン街にほど近い、妖しげな店の立ち並ぶ裏通り。通称、娼館通り。その片隅にある小さな店にグレンのお気に入りの娘がいた。


 グレンがその店に初めて行ったのは三か月前だった。グレンはそれまでこの手の店に入ったことがなかった。それどころか、彼は童貞だった。聖地の森での修行中は誰ともカップルにならなかったし、その後、この都市に来てからは女性と話す機会さえなかった。彼は明らかにモテなかった。むろん、女には興味があった。かと言っていかがわしい店に入る勇気はなく、悶々とした日々を送っていた。


 だが、三か月前のある日、グレンは仕事でミスをしでかして、監督や同僚からひどく罵られた。自棄になったグレンは大酒を飲み、酔った勢いを借りてその店に突入したのだ。

 そこで出会った娘に、グレンは一目惚れをしてしまった。まさに運命的な出会いだった……。


 グレンは飛ぶような速さで工場を出て、街を横切り、まっしぐらに進んでいった。そしてあっという間に娼館通りに着いた。夕闇迫る空を背景に、ピンク色や紫色の蠱惑的な明かりが店の軒先に灯っている。通りのあちこちで流し目をくれる人間やエルフの娼婦には目もくれず、グレンは足早に通りの奥へと向かう。三か月前のあの日以来、もう何度となく通った道筋だった。店が近づくにつれ、グレンの胸が高鳴り始めた。


 その店は、まるで世間から隠れ潜むようにしてひっそりと建っていた。グレンは赤い扉を押し開けて入店した。扉に記された店名はウールト・ミッチェ。訳すと「おしゃまな子猫」。

 照明が落とされた店内では、フロアランプだけが桃色の扇情的な光を投げかけていた。甘ったるい芳香が鼻をくすぐる。何度通っても、この雰囲気には馴染めないなとグレンは思った。自分が場違いに感じられて仕方がない。グレンは静かに近寄ってきた店員に希望の娘の名前を告げた後、待合室のソファに座り、娘の支度が整うのをそわそわと落ち着かなげに待った。永遠とも思える五分間の後、ついにその時が来た。


 娘の待つ部屋の前に立ち、静かにノックした。中から、かろうじて聞き取れるくらいのかすかな声が応じた。グレンは個室の扉を開けて中に入った。

 ピンク色の部屋の真ん中に、ひとりの少女がうつむき加減に座っていた。

 シースルーのキャミソールだけをまとった少女の体はすらりと痩せ、オレンジ色の癖のある髪が肩にかかっている。少女は顔を上げ、グレンを見つめた。大きな金色の瞳の中で縦長の瞳孔が収縮した。彼女はにっこりと微笑んだ。その頭の上には二つの猫耳がひょっこりと飛び出していた。


 彼女は人間ではなかった。もちろんエルフでもない。媚獣(びじゅう)。魔術で動物から作り出された愛玩用の人造生物。ベースが動物なので、知能は低く、ほとんど会話すらできない。


「こんばんわ。フーシェ。会いたかったよ」

「……みゃうぅ」

「さあ、おいで」

 フーシェと呼ばれた少女は立ち上がり、グレンにすり寄った。キャミソールの裾からのぞくオレンジ色の尻尾をピンと上に伸ばし、背伸びしてグレンの腕や胸にしきりにほおずりする。グレンは少女を抱き寄せた。両手の中の身体はひどく柔らかく、少しでも力を入れたら壊れてしまいそうだ。グレンの鼻腔を少女の甘い体臭が満たした。それは発情した雌の匂いだった。グレンは少女の身体を荒々しく抱き上げ、ベッドへと運んだ……。


 傍らで丸くなり、快楽の余韻に浸っている少女の横で、グレンはぼんやりと天井を見上げていた。あちこちピンク色の塗装が剥げ、染みが浮き出ている。

 猫娘の肉体にあらかた欲望を吐き出しつくしたグレンは複雑な感情にとらわれていた。

 人間が己が欲望を満たすためだけに自然を捻じ曲げて作り出した存在、媚獣。まったく許しがたい唾棄すべき行為だ。エルフ族としてのグレンはこの生命への冒涜に憤りを覚えていた。しかし、同時に男としてのグレンはフーシェという娘に魅了されていた。人間やエルフの女性にはない純真無垢さ。開けっぴろげで相手を疑うことのない態度。こんな娘にグレンは今まで出会ったことがなかった。

 グレンは手を伸ばし、少女の柔らかい髪の毛に触れた。

 少女が寝返りを打ち、グレンの方を向いた。目と目が合う。


(…起きてたのか…)グレンは念話で問いかけた。

(…うん。さっきのこと思い出してた。気持ちよかった…)

 フーシェからの思念が返ってきた。たしかに彼女は言葉を使って会話するのは苦手だが、思念ならばこうやって十分に心を通じ合える。フーシェからの思念はグレンの胸に温もりを伴って広がった。続けて思念が送られてきた。

(…グレン優しい、好き…)

(…ありがとう…また来るよ。必ず来る…)グレンは少女の身体を抱きしめた。



 風の吹き抜ける夜の通りを歩きながら、グレンは考えていた。

 媚獣は寿命が短い。特にフーシェのような用途に使われている者はなおさらだ。人間の娼婦と違い文句も言わず、客の様々な要望に応じる。さらに店側も、容姿が衰える前にできるだけ投資を回収しようと一日何人も客を取らせて酷使する。もって数年。使い物にならなくなった媚獣の末路は悲惨だという。

 フーシェをそんな目に遭わせたくない。しかし、どうすればいいのか。店から買い取るには大金が必要だが、グレンには金などなかった。ならば、取るべき手段は一つしかなかった。


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