35話 マイロン街の殺戮③
あまりにも濃厚な血の臭いに、男はむせ返った。
マイロン街中心部。つい十分ほど前まで買い物客で賑わっていた繁華街。そこを真っ赤に埋め尽くしているのは、泥濘のようになった人体の残骸だった。あたりの空気中には血飛沫が赤い霧となって立ち込めている。地獄のような光景の上空では、まるで何も起きなかったかのように魔法光の広告が明滅し続けていた。
「旋風の呪法」。それが男が行使した魔術だった。
文字通り、旋風を作り出す魔術。男はそれを極度に圧縮し、回転速度を極大にして放った。通りの前後に向けて送り出した旋風の数は合わせて二十。二十個の旋風はいずれも通りのはるか先へと進み、男の視界の外へと消えていた。しかし殺戮の中心から今も上がり続ける悲鳴ははっきりと耳に届いていた。
男は通りを進んでいく。一歩踏み出すごとに、ぐじゅり……と湿った音を立てて靴が肉の海に沈み込む。パウディーナ百貨店前を通り過ぎる。この辺りがもっとも死者の数が多いようだった。おびただしい量の人肉の堆積に足を取られ、歩くのも困難な有様だ。足首を埋める血肉はまだ温かかった。歩道沿いの街灯からは血が滴り落ちていた。
男が進むにつれ、周囲の肉塊から幾筋もの細長い蒸気の柱が立ち上った。
魂の蒸気。犠牲者の魂が「結晶化の呪法」により微粒子状の結晶として実体化したものだ。蒸気は男にまとわりつくように漂い、やがて鼻や口からその体内に吸い込まれていった。
術を行使する直前、男の半径五メートル以内に少なくとも十人の通行人がいた。血糊で染まった通りの長さからざっと単純計算して、殺害した人数は三百名は下るまい。呼吸器から男の体内に入った数百名の魂は、血流に乗って男の身体を駆け巡った。ジンジンと痺れるような感触を伴って、男の全身に圧倒的な力と快感がみなぎっていく。男の飢えは急速に満たされていった。
しかし、男の計画はまだ終わってはいなかった。
男は次の段階へと進むことにした。
男は身をかがめると、左手を路上を満たす血肉の海に浸した。そして、小声で低く呪文を唱えながら、まるで粘土のように肉片をこね上げ始めた。
通りを満たす人肉の海に、さざ波が走り抜けた。
すると、ひときわ大量の肉塊が堆積したパウディーナ百貨店前で、肉の海が脈打ち始めた。そこへ周辺からずるずると血肉が寄り集まり、どんどん大きく盛り上がっていく。肉塊は形を変えながら上へ上へと伸びあがり、やがてそれはおおむね人型の物体になった。その背の高さは商店の二階をにゆうにしのぐほどだ。
さらに一つ、二つ、同じような肉塊の巨人が、通りに散乱した肉片が寄り集まるようにして形成されていく。
「肉人形の呪法」。屍霊術の一種で、死肉から肉人形を作り出し、術者の意のままに使役することができる。これだけ豊富に素材があれば、さぞかし強大な肉人形が作れるだろう。
あらかた魂を入手した後で、これら肉人形を使って破壊の第二段階を開始するとともに、混乱に乗じて離脱する。それが男の計画だった。
男が肉人形どもに与えた指令は単純明快だった。「皆殺しにしろ」
それだけ命じると男は背を向けてマイロン街から歩み去った。
「ヴボェエエエエエ…」
三体のうち最も大きい肉の巨人が湿った声で咆哮した。その巨大な頭部には犠牲者の眼球がニ十個あまり乱雑に散らばる。瞳の色も様々なそれらの眼が、てんでバラバラにキョロキョロ動き、周囲を探った。その眼の一つが何かを捉えた。
百貨店の二階。窓ガラスから外の惨状を呆然と眺めている人々の姿だった。そこだけではない。通りのあちこちで、店内にいたため難を逃れた人々が、外の通りを襲った惨事に凍りついていた。
肉の巨人は片腕を振り上げた。そしてパウディーナ百貨店の二階の外壁に力任せに叩きつけた。ひとたまりもなく外壁とガラス窓が砕け散った。巨人と店内にいる人々を隔てる物はなくなった。
人々は悲鳴をあげて店の奥へと逃げ出した。人々を追い、巨人は手を伸ばす。壁の穴から侵入した赤黒い死肉の腕はまるで大蛇のようにのたくって店内を荒らしながら、逃げまどう人々を追いかけた。やがて、その忌わしい手がついに餌食を捕まえた。少女だった。少女の両親は娘の体から巨大な手を引きはがそうとした。しかし抵抗むなしく、手は少女を掴んだまま、壁の穴からずるりと外へと引き出されていった。
巨人に捕まった少女は、ショック状態による奇妙な冷静さの中で、至近距離からそのおぞましい頭部をまじまじと観察した。乱雑に肉塊をこね上げたような不格好な頭部の真ん中に、横一文字に裂け目が生じ、ばっくりと口を開いた。巨人の口の中には鋭く尖った牙がずらりと並んでいた。ただしその歯列を構成するのは、犠牲者たちの折れた大腿骨、上腕骨、肋骨だ。巨人の口はどんどん近づき、少女の視野をいっぱいに満たしていく……
その時だった。
少女の眼前に迫った巨人の頭部が燃え上がった。続けて、少女を握りしめていた巨人の手が火を噴いた。しかし奇妙なことに、燃え盛るオレンジ色の炎は肉人形だけを焼き、少女には火傷一つ負わせなかった。巨大な肉人形は一瞬で焼き尽くされ、真っ白な灰となって崩れ落ちた。
支えを失い、少女は二階の高さから落下した。あわや地面に衝突する寸前、その体がふわりと浮かんだ。
その後ろから、一人の人影がやってきた。
長身の痩せた青年だった。ひょろ長い手足をぎくしゃくと動かして歩いてくる。その彫りの深い顔立ちと帽子からはみ出た長い耳は見間違えようがなかった。エルフ族。
エルフ族の青年、グレン/レオドはゆっくりと降下してきた少女の身体を両腕で受け止めた。
グレン/レオドの足元の血肉の海がうごめいた。その中から数本の臓物がまるで毒蛇のように跳び出し、足に絡みついた。さらに、背後の肉塊が急激に隆起して巨大な腕となり、グレンめがけて拳を振り下ろした。
グレン/レオドは身動き一つせず、魔術を放った。
「火葬の呪法」
襲いかかる腕が、絡みつく臓物が一瞬にして炎に包まれた。それだけではない。マイロン街の通りを満たす血肉の海そのものが炎上した。オレンジ色に輝く炎は犠牲者たちの無残な亡骸だけを焼き払い、生存者や街の建物には一切燃え移らなかった。浄化の炎は急速に通り全体に広がっていく。炎が通り過ぎた後には、真っ白に焼き尽くされた遺灰だけが残った。
グレンは腕に抱えていた少女を地面に横たえると、その場を後にした。百貨店の入り口から少女の両親が駆け出してきて、両側から少女を抱き締めた。
生き延びた人々は、何が起きたか理解できず、街のあちこちでただ茫然としていた。
グレン/レオドは空気中に残った魂食獣の思念の痕跡を辿っていた。猟犬が獲物の通った跡を安々と嗅ぎ分けるように、男の邪悪な精神が放つ腐臭を追跡するのは訳もなかった。追っ手を警戒してか、男は幾度も角を曲がり、急な方向転換を繰り返してはいるが、これほど明白な足跡を残しているようでは何の意味もない。男との距離は徐々に縮まっていく。
奴は近い。すぐそこだ。あと百メートル……五十メートル……次の交差点を右に折れたすぐ先、十メートル。