34話 マイロン街の殺戮②
男の前方、三メートルほどの空間に、ゆらぎが出現した。
それは高速旋回する圧縮された気流の渦だった。ゆらぎはゆっくりと空中を漂いはじめた。その先には男の周囲を過ぎ行く人波があった。
そして、通行人の一人に接触した。
それは一瞬の出来事だった。接触した瞬間、通行人の男はゆらぎの内部に吸い込まれた。気流の渦の中で通行人が高速回転を始めた。あまりに回転速度が速すぎるため、通行人の姿は灰色のにじみにしか見えない。と、灰色のにじみが突然真紅に染まった。遠心力に耐えられず、肉体が破裂したのだ。通行人がゆらぎに接触してから破裂するまで、その間、約四秒。
飛び散った大量の血液と肉片が周囲の人々の群れに降りかかった。
はじめ、血を浴びた人々はそれを雨だと勘違いしたのだろう。みんな空を見上げた。だが次の瞬間、真っ赤に染まったお互いの姿を見て、それが間違いであることに気付いた。
「きゃああああああああ」
人々の口から悲鳴がほとばしった。
悲鳴をあげる人々に向かって、血に染まったゆらぎがゆっくりと近づいていく。そしてまた一人が気流の渦に取り込まれ、そして炸裂した。今度は女だった。つい四秒前まで女が立っていた路面には、ずたずたになった内臓の塊だけが残された。ほんの少し前まで女だった残骸を後に、ゆらぎは次なる獲物を求めて路上をさまよった。
人々は次々に吸い込まれては爆裂していった。何が起きているかもわからず、人々は混乱してでたらめに逃げまどった。中には自分からゆらぎに突っ込んで自滅する者もいた。折しも夕食時、マイロン街が一日で最も混雑する時間帯であった。それが事態に拍車をかけた。情報が錯綜し、根拠のない情報とデマが飛び交い、正しい情報が行き渡るのを妨害した。そのため事情を知らぬ買い物客たちの流入はなかなか止まらなかった。それが殺戮の場から逃れようとする人々の行く手を阻むことになった。通りから逃れようとする人間と入ろうとする人間がぶつかり合い、もみ合いになった。その背後から、血飛沫に赤く染まった気流の渦が幽霊のように忍び寄っていく……そうして、群衆はいたずらに屍の山を築いていった。
その頃、グレンはマイロン街にほど近いある通りにいた。
あまり評判のよろしくない場所だった。通称「娼館通り」。表通りのマイロン街から少し裏側に入り込んだその一角には、客の多様なニーズに応えるべく、様々な娼館が密集して建ち並んでいた。
その日の作業で失敗して作業監督にこっぴどく叱られたグレンには憂さ晴らしをする必要があった。
グレンは娼館通りでも奥に入り込んだ、薄暗く狭苦しい路地へと進んでいく。その先の店には彼のお気に入りの娘がいた。
店に近づくにつれ、グレンの中で昼間の嫌な記憶は消えていき、入れ替わるように娘と会うことへの期待と喜びが大きく膨らんできた。ほっそりと痩せた体、きらきら輝く大きな瞳……。
その時だった。グレンは悲鳴を聞いた。それも一人ではない。大勢の人間が絶叫していた。つい先ほど通り過ぎてきたマイロン街の方向だった。何か事故でも起きたのか。飛行艇の墜落だろうか。あの悲鳴のコーラスから察するにきっと大惨事だったに違いない。
今すぐ娘の待つ娼館に向かいたい気分ではあったが、気になった。グレンは踵を返し、今来た方向へと戻って行った。
グレンが娼館通りを出てマイロン街に近づくにつれて、街の雰囲気はどんどん異様になっていった。マイロン街の方向から、血相を変えた人々の群れが次々に走り出てくる。全身に血を浴びた人たちが道端に座り込んでいる。親からはぐれた子供が泣きわめいている。
グレンは心がざわめくのを感じた。この先に待ち受ける光景の予感に、体が震え出す。彼は魅せられたように、群衆の流れに逆らって混乱の中心へと向かっていった。進むにつれて人の密度はどんどん高くなっていく。
その時突然、群衆の密度が急激に高まった。グレンは身動きすら取れなくなった。通りから逃れようとする者、何も知らず通りに入ろうとする者、誤った情報に騙された者、勘違いした者、野次馬、それら無数の人間の流れが狭い空間に集中し、ぶつかり合った結果、群衆にカオス的な力学が働いた。そして、群衆の流れは予想だにしない方向へと向かって決壊した。無数の肉体に押し潰されそうになりながら、グレンは否応なく押し流されていった。転ばないように耐えるのが精いっぱいだった。地面に倒れれば無数の足で踏みにじられ、まず命がないだろう。流れから逃れようと必死にもがくが、思っていたのとはまるで逆の方向へと押し出される。圧迫感と、たちこめる熱と、人々が発散する恐怖の臭いに、グレンは気が遠くなりかけた……
気が付くと、圧迫感がなくなっていた。どうやら、群衆の流れからはじき出されたようだ。
しかし、ここはどこだろう。さっきまであれほど大勢いた人間の姿はどこにもない。
いや、一人いた。商店の壁際に一人座り込んでいる。
若い女だった。それにしてもひどい格好だ。頭からミートソースでもぶっかけられたみたいじゃないか。それが可笑しいのか、女はケタケタ笑っていた。グレンも釣られて少し笑った。
その時、笑う女に向かって、何かが近づいていった。かすかな空気のゆらぎのようなものだ。女の笑いはどんどん大きくなり、それが悲鳴に変わった。女はゆらぎに吸い込まれ、ほどなく真っ赤な地面の上に血飛沫となって飛び散った。
真っ赤な地面。そう、通りの地面は真紅に染まっていた。地面だけではない。至る所が赤かった。商店の壁、ガラス、窓。マイロン街中心部の広い目抜き通りに面した商店の二階辺りまでが、まるで真っ赤なペンキをぶちまけたかのような有様だった。
グレンにはとっくに気付いていた。それがペンキなどではないことに。人間の血と肉だ。そして、ドロドロした血肉の海には、まだそれと判別できる器官の数々が散乱していた。腎臓、脊椎骨の一部、頭皮、眼球、下あご……。
「あ、ああ、あぁぁぁ」
さすがにこの光景は、グレンの精神の許容範囲を超えていた。
そのショックはグレンの精神を揺さぶり、記憶の奥底に封印されたある光景を呼び覚ましそうになった。
かつて自分は、同じような大量殺戮の場に居合わせた。
そう、あれは深い森の中だった。エルフの若者たちがいて、そして……そして……。
そして、その記憶がトリガーだった。
グレンの脳髄奥深くに不活性状態で仕込まれていた魔術が起動した。高密度に圧縮されていた複雑な魔術は次々に展開し、グレンの精神内部にあるものを構築していった。
それは裏口だった。
グレンの精神に侵入するための裏口。
裏口を通り、膨大な魔力と精神が空間を超えてグレンの中に送り込まれてきた。魔力の源は、マイロン街からはるか千キロ以上彼方だった。ハイチャフ・ギルフの聖なる森。その奥深くにそびえるひときわ巨大な大樹。大樹と一体化したような樹上の館の中。その館の一室に立ちつくす、異様なまでに長身な人物。
導師レオド。
一年前、グレンの記憶を読み取った時、導師はグレンの脳内にこの魔術を埋め込んでおいた。いつしかグレンが再びあの男、邪悪なる魂食獣と接触した時に発動するように。グレンは必ず男と接触するという導師の読みはやはり正確だった。
導師はグレンの肉体を完全掌握した。
グレン/レオドに向かって、先ほど女を破裂させた気流の渦がゆっくりと近づいてきた。グレン/レオドは慌てるまでもなく、平然と右手を差し出し、下に向けて振った。その先にもう一つの気流の渦が生じた。回転速度は同じ。しかし回転方向は正反対だった。二つの気流は互いに吸い寄せ合うように接触すると、シャボン玉が割れるように音もなく消滅した。
「やれやれ、まったくひどい有様じゃ……さて、奴はどこにおるかの」
グレン/レオドは周囲を見渡して言った。その顔つきは老獪なものへと変貌していた。グレン/レオドはくるぶしまで沈み込む血肉の海へと平然と踏み込んでいった。