31話 魔術
男は窓辺から離れて、居間のソファに腰かけた。
男の足元には幾何学的な模様のカーペットが敷かれていた。カーペットは広範囲が赤黒く変色し、一部が黒く焦げていた。それはこの部屋の元住人の痕跡だった。
男が住んでいるこの部屋は、都市に林立する高層建築の一棟、地上三十二階にあった。
ここには多くの労働者が単身で住んでいた。入居者の入れ替わりが激しく、おまけに住人間にほとんど交流がなかった。男が殺したこの部屋の元住人も一人孤独に暮らしていた。
王都デリオンに辿り着いた男は、街をさまよって身を落ち着けられる場所を探した。
王都は周辺地域からアリ地獄のように人間を引き寄せていた。毎日、多くの貧しい地方出身者が莫大な富の匂いに釣られて都市に流れ込んでくる。行く当てもない彼らはしばらくの間、安宿を転々とし、その多くはやがて持ち金を使い果たしホームレスへと転落していく。男は彼らと同じ経過をたどった。しばらく男はホームレスたちに混ざって廃屋や橋の下で夜露をしのいだ。
ある日、男は都市最下層の安酒場に入った。
騒然とした店内には紫煙と男たちの汗の臭いが充満していた。カウンター席でちびちびと酒を飲んでいた男に、隣席の男が話しかけてきた。赤ら顔をした小太りの男だった。名は確かリオと言った。黙って飲み続ける男に、リオは一方的に自らの身の上を滔々と語った。リオは地方出身の労働者だった。十七歳で身一つで王都にやってきて以来二十年間、苦労しながら必死に働き続けてきた。その甲斐あってある程度の地位と金を手に入れることができた。
しかし自分は孤独だ。リオは言った。働きに働き続けて、気が付けば自分の周りには誰もいなかった。友人も恋人もいない。寂しくて仕方がなかった。それで酒場に繰り出しては、孤独感を癒してくれる話し相手を求めてきた。しかし、こんなに人に話を聞いてもらえたのは初めてだと、リオは感激していた。
そして、リオは男を部屋に誘った。俺の部屋で飲みなおそう。いい酒があるんだ。リオの視線はやけに熱を帯びているような気がした。もしかしたらこいつは酒場で獲物を探してるホモなのかもしれないな。そう思ったが男はリオに付いていった。
部屋に入ってさっそくリオはソファに腰かけ、グラスに酒を注ぎはじめた。傍らの壁には写真が何枚か貼られていた。それはリオと若い男性が裸で絡み合う光景を写したものだった。相手は不特定多数だった。やはりな、と男は思った。男は彼の趣味に付き合うつもりなど毛頭なかった。
男は背後からリオの首を手刀で叩き切った。噴き出す鮮血がカーペットを汚した。生命を失ったリオの肉体は発火の呪法で灰にした。体内から吹き上がる魔法の炎は死体だけを完全に焼き尽くし、部屋には燃え移らなかった。わずかにカーペットにのみ黒い焦げ跡が残った。
以来、男はこの部屋に暮らしている。
リオの死後、この部屋を訪れる者は誰もいなかった。あいつは酒場で地方出身の若者を漁るホモだったが、孤独な生活を送っていたのは本当だったようだ。魔法があろうがなかろうが、孤独な男というのはどの世界でも変わらないものなのだと思った。
ソファに座った男は、傍らから重厚な書物を取り出して机の上に広げた。先ほどまで読んでいた「近代魔術の基礎」とはまた別の本だ。「魔術百科」。既知の魔術の大半を網羅した、魔術の百科事典だった。広げられたページにはいくつもチェックが付けられ、所々にはアンダーラインが引かれている。
いったい自分はどんな魔術を使えるのか。男はそれを知ろうとしていた。
この世界に来てから、エルフたちの魂を喰らい、サハギンの墓所で太古の種族の魂を吸収したおかげで、男は複数の魔術を操れるようになっていた。念話の呪法、精霊の声への感応、縫合の呪法、発火の呪法、飛翔の呪法……
しかし、これまで魔術の発動はいつも場当たり的だった。必要に迫られた時に、自分が適した魔術を知っていることをふと「思い出し」、やってみたら成功したという感じで心許なかった。うろ覚えの知識を披露したてみたら、幸運にも正解だったときの感覚に近い。これでは何かと不便だった。
男は「魔術百科」を使い、自分の中に眠っている魔術の知識の棚卸をはじめた。
百科に記載された各魔術の記述を一つずつ丹念に読み込んでいく。
使える魔術は、読んでいてすぐにピンときた。
さらに、部屋の中で発動しても問題がなさそうなものは確認のため実際に使ってみた。
今までのところ、五十七種の魔術を使えることを確認し、二十二種は未確認だが使えそうだった。魂を吸収した相手がエルフ等であったため、エルフ魔術がほとんどで、人間が使う主流派の魔術とは系統が異なっていた。
かつて男を苦しめた麻痺の魔術「束縛の呪法」は「戒めの杖」というアイテムが必要なため使えなかった。また、サハギンの沼地での戦いで女エルフのイスコスが使用した「雷吼の呪法」も使えなかった。
はっきりしたのは、魂を吸収した相手が持っていた魔術すべてを使える訳ではないことだ。魂を喰っても能力や知識を百パーセント吸収できるわけではないらしい。男の魔術師としての未熟さによるものなのか、それとも「結晶化の呪法」の欠陥によるものなのか、そこは判然としなかった。
魔術について学ぶ過程で生じたひとつの大きな疑問があった。
それは他ならぬ「結晶化の呪法」についてだった。男にとって最重要とも言えるこの魔術については最も詳しく知りたかった。しかし男が入手した書籍、文献で「結晶化の呪法」について触れているものは皆無だったのだ。
当然のことながら、公開されず一部の人間に秘匿されている魔術は存在する。
たとえば企業が秘密にしている魔法だ。
産業社会を支える魔術である「回転体の呪法」も、オリジナルの呪法は回転力が弱く、速度も遅い。手でつかめば容易に回転を止められる程度の弱い魔術だ。しかし各企業は術の改良にしのぎを削り、回転力、速度、持続性を大幅に強化した独自の呪法を作り出している。それらは魔術特許で保護されているか、企業秘密として門外不出となっている。
また、大企業は莫大な資金を投じてお抱えの民俗学者を世界各地の辺境に送り込み、将来利益を生み出しそうな魔術の収集を続けている。発見された魔術は、これもまた外部に公開されることはない。
それとは別に、あまりに危険であるか、または有害なため社会全体で使用が禁じられている魔術も存在する。しかし、それについては長大なリストが公開されている。第一種特別禁術の「滅核の呪法」、「混沌回帰の呪法」にはじまりリストは延々と続く。しかしそこに「結晶化の呪法」は含まれていなかった。
さらに不審な点としては、異世界に来た当初から男がこの術を使いこなせた事だ。誰かから学んだわけでも吸収したわけでもない。エルフの聖地の森の闇の中で、この世界で最初の犠牲者である教導者ロレムを殺害した時から自然と行使していた。
ひょっとしてこれは魔術とはまったく別物なのか。異世界転生にともなって彼個人に発現した特殊能力なのだろうか。
そもそも、なぜ自分はこの世界へ転生したのだ。
この裏には何者かの意図が働いているのか……
考えれば考えるほど、疑問は尽きなかった。