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28話 転落の軌跡②

「なぁ藤田、ちょっと頼みがあるねんけど…」

 大野はそう切り出した。ふだんまったく会話しない大野から突然話しかけられた事を不審に思いながらも、藤田はいちおう立ち止まって話を聞くことにした。

「あんな…ちょっと、金貸してほしいねん」

 そう来たか。

「今日金もってくるの忘れてもうてな、今ポケットの中に十円しかないねん。これやと昼飯のパン買われへん…。ちょっと悪いけど、五百円貸してくれへんか?ほんま頼むわぁ」


 大野は下卑た顔に卑屈な作り笑いを浮かべながら言った。

 大野が寸借詐欺をするのはクラスでも有名だった。不良グループの下っ端に属する彼は、同級生から千円以下のはした金を借りては踏み倒す事を繰り返していた。標的となるのはいつも、断ったり返済を催促できない気の弱い生徒ばかりだった。


 自分も、大野から弱い人間だと認識されていたとは。藤田は侮辱されたと感じた。こんな頭も洗わないパシリ野郎に見くびられた事が許せなかった。藤田の頭に血が昇った。


「臭ぇんだよお前。頭くらい洗えクズ」思わず、口を突いて出た言葉だった。

「あぁ?んだとコラ…」大野の目つきが一転して険しくなった。

「おい藤田、お前誰に向かって口きいてるかわかってるんか?この猫殺しの変態野郎が!」

「なんだと?」

 大野の口から出た意外な言葉に意表を突かれた。別の中学出身の大野にまであの噂は伝わっていたのか。

 大野は席を立って藤田に詰め寄ると、胸倉をつかんだ。怒りで赤黒く染まった顔が近づく。大野の口臭が鼻を突いた。

「猫殺しの変態ネクラ野郎が、生意気な口きいてっと殺すぞ?お友達とあの世で会わせてやろうか?電車にひかれてグチャグチャになったお友達となあ」


 大野の口から、言ってはならない言葉が飛び出してしまった。

 藤田は激怒した。怒りは瞬時に沸点に達し、そのあまりの激しさに一瞬、意識が遠のいた。目の前がかぁっと赤くなった。

 藤田の手はペンケースに伸びた。意識せぬまま、その手はコンパスを握り締めていた。中学の技術家庭の授業以来、ペンケースの中で眠っていたそれを。取り出されたコンパスの針先が、蛍光灯の光を反射してギラリと輝いた。大野の表情の上を、さざ波のように怯えが走り抜けた。

 次の瞬間、藤田の腕が突き出された。


「ぎゃああああっ!」

 騒然としていた休み時間の教室に、悲鳴が響き渡った。

 ぱた、たたた…。

 机の上に開いたままのノートの上に、真っ赤な血が滴り落ちた。

 コンパスの針は大野のまぶたを貫き、右眼に深々と突き刺さった。閉じたまぶたの間からたちまち鮮血があふれだした。流血は大野の制服の胸元を染め上げ、机の上や床の上にも飛び散った。

 教室は、水を打ったように静まり返った。その中で、大野の悲鳴だけが続いていた。

「びいぃっ!…ひぎぃいいいっ!目があぁぁぁ!」


 まるで豚の鳴き声だな。まったく騒々しい。藤田はどこか他人事のように感じながらそう思った。悲鳴は止むことなく続いていた。藤田はだんだんイライラしてきた。もう一度突けば、この耳障りな騒音を止められるだろうか。

 そう思った時にはもう手が動いていた。今度は左眼を突いた。手首をひねって針先を動かす。眼球内で何かがブツブツとちぎれる感触が伝わってきた。コンパスを引き抜くと、大野は気絶し、両目から血を噴き出しながら床に崩れ落ちた。これでやっと静かになったか。


 同級生たちは顔面蒼白になって、無言でこの光景を眺めていた。

 藤田は自分の手を見つめた。コンパスを握りしめたままの手は袖口までべっとりと血で汚れていた。そしてコンパスの針先には、血塗れのゼリー状の塊が突き刺さっていた。大野の眼球だった。

 隣りの席の太った女子が激しく嘔吐した。



 はじめの右眼への一突きは水晶体と硝子体を傷つけたが、奇跡的に網膜にはほとんど損傷を与えなかったため、右眼は失明を免れた。しかし左眼に関しては、視神経を切断されて眼窩から抉り出されてしまったため視力を取り戻すのは不可能であった。以降、大野の左眼は義眼となった。

 そして、藤田辰夫は少年院へと送致された。



 さらに不運は重なる。

 少年院に収監中、藤田の両親は交通事故に遭い死亡する。

 藤田の祖父が入所している島根県の特別養護老人ホームを訪問した帰り道だった。片側一車線の道路を走行中、父親の運転する車は突然センターラインを乗り越えてきた対向車と正面衝突した。両親も対向車の運転手もほぼ即死だった。後の調査で、対向車の運転手の男は糖尿病を患っており、運転中に急激な低血糖を起こし意識を失っていたことが判明した。


 これまで、我が子に冷酷で無関心な両親ではあったが、それでも藤田の養育までは放棄していなかった。それに事件後はさすがに反省し、自分たちの息子への態度を改めて、両親とも頻繁に面会に訪れていた。出所後は息子を温かく迎え入れてやろうと、そう思っていた矢先の不幸であった。


 一年後、出所した藤田辰夫を出迎える者は誰もいなかった。

 両親の生命保険金は、大半が父親の借金返済に充てられて消えていた。出所した藤田の手元に残っていたのは二束三文だった。

 天涯孤独の身となり、財産もない状態で、藤田は社会へと放り出された。

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