26話 平成十年 姫路市④
月曜日。先週と変わらぬ一日が始まった。
藤田への嫌がらせは相変わらず続いた。朝から教室の至る所で、藤田への中傷や根拠のない噂話が聞えよがしに囁かれた。しかし、もはや藤田の耳にそれらの言葉は届いていなかった。
その時、藤田の脳裏を占めていたもの。それは土曜日に手柄山公園で目撃した信じがたい光景だった。
友人の柳田健太が野良猫を殺していた。
茂みの中にいた猫を餌で釣っておびき寄せ、餌に夢中になっている隙を狙い、頭をダガーナイフで一突きして殺した。その一連の流れは実にスムーズで、手慣れた感じが漂っていた。おそらく何度も同じことを繰り返してきたに違いない。
ほぼ間違いなく、ここ数か月頻発している小動物虐待事件の犯人は、柳田だ。
藤田は教室の前方に座る柳田の背中を見つめた。柳田は先週と何も変わらぬ様子で授業を受けていた。
放課後。
「なあ、たまには一緒に帰ろうぜ」
藤田は一人でさっさと帰ろうとしていた柳田の席に急いで歩み寄り、声をかけた。少し困った表情を浮かべつつも柳田は断らなかった。
「……」
「……」
いつもの帰り道をしばらく無言で歩く。お互いに言うべき言葉を探り合う、気まずい沈黙が二人の間に漂っていた。
藤田は迷っていた。一昨日見たことについて、いかに柳田に伝えるべきか。事が事であるだけに、藤田は中々切り出せずにいた。しかし、先に沈黙を破ったのは柳田だった。
「…ごめん?」
「は?」意外な言葉に藤田は返答に窮した。
「…俺も最近、クラスの奴らと一緒になって藤田のこと無視してただろ。本当にごめん」
「あぁ……いいよ別に」
「俺、いじめられるのが怖くて。藤田と一緒にいたら、俺も一緒にいじめられそうで。それで…」
「ああ、わかるよ」違う、そんな話はどうでもいい。俺が話したいのは……
「やっぱ怒ってるよな。ごめん…」柳田は立ち止まり、頭を下げた。
「……」言うべきか、言わざるべきか。藤田は無言で葛藤した。
「藤田……」
「なぁ健太、話があるんだ」藤田は意を決した。
二人は自販機で買った缶コーヒーを手に、河川敷に並んで腰かけた。
この日はどんよりとした曇り空だった。太陽は終日、雲の向こうに隠れたままで午後四時を迎えていた。空も川もその向こうの家並みもすべてが色彩を失い、灰色に塗りつぶされていた。いつもは練習に励んでいる運動部員たちの姿もなく、荒涼とした夕方の河川敷にはただ風の音だけが鳴り響いていた。
「話って何だよ、藤田」
「…土曜日のことなんだけどな。俺、公園に行ってたんだよ。…手柄山公園に」
「……」隣に座る柳田が身を固くするのがわかった。
「それでな、俺……見ちゃったんだよ」
「……」
「お前が、猫を殺してるところをさ」
「……」
藤田は勇気を振り絞り、柳田のほうに視線を向けた。
柳田は顔面蒼白になり、震えていた。冷たい風が吹いているにも関わらず、その顔は冷汗に覆われて濡れていた。視線は一か所に定まらず、絶えず泳ぎ続けている。紫色に変色した唇を震わせて、柳田は言葉を吐き出した。
「……はは、は…あれ、見てた?見られたか…うふふ…」
こんな言葉は聞きたくなかった。柳田の言葉を聞いて初めて、藤田は柳田がはっきりと否定してくれることを無意識に期待していた事に気付いた。いつも明るく、ぶっきらぼうな藤田にも気遣ってくれていた心優しい柳田があんな闇を抱えているなんて信じたくなかった。
しかしその希望も、今の返事で微塵に打ち砕かれた。
「柳田……何であんなことしたんだ」
「何で?何でって…前に藤田が言ってた通りだよ。気持ちいいからさ。ふふ…」
顔に壊れた笑みを貼り付けながら柳田が言った。
「猫を殺して興奮してる気色悪い変態、それがボクさ」
「…今までのは、全部お前が?」
「そうだよ。全部ボク。バラバラに切ったり、内臓を引きずり出したり、頭を金槌で潰したり、色々やった。わざと人目に付くところに晒して、みんなの反応を見て喜んでた。楽しかったなぁ」
「やめろ…もういい…止めてくれ」
「え?藤田もこういうの好きなんだと思ってたけど。違うの?一緒によく猟奇殺人鬼の本読んだじゃん。お前が好きな殺人鬼はアンドレイ・チカチーロで、ボクはジェフリー・ダーマーが好きだって話したりしたよね。僕の家のパソコンでグロ画像を一緒に見たり。あの時、あんなに楽しそうだったのに。理解してくれないなんて残念だなぁ」
柳田は一気にまくし立てた。その異様な様子に藤田は気圧され、ただ呆然と見つめるだけだった。柳田は続けた。
「この話は前にしたことあったっけ?
小学四年生の時の話なんだけど。姫路に引っ越してくる前、ボクは埼玉に住んでたんだ。その日、ボクは家族と一緒に東京の動物園に出かける予定だったんだ。父さんはいつも仕事が忙しくて、休みにどこかに連れて行ってくれるなんて珍しくて、前からその日が待ち遠しくて仕方がなかったんだ。
だけどその朝、駅で電車を待ってる時、目の前に立っていた若い女の人が突然、通過列車の前に飛び込んだんだ。バシって音がしてあたりに血飛沫が飛び散って、続けてバキバキバキって車輪に骨が砕かれる音がした。
父さんと母さんは必死にボクの目から隠そうとしたけど、ボクは全部見たんだ。列車が通り過ぎた後、バラバラになって線路の上に転がってた女の人の体を。…きれいだった。並んで転がった白い太股と赤い肝臓が特にきれいだったなぁ。結局動物園は中止になっちゃったけどね。ひひひ。
その時からずっとボクはその日の光景を思い出しながらオナニーしてたんだけど、最近、記憶だけじゃ物足りなくなってきた。だから猫を殺し始めたんだ!」
藤田の手の中の缶コーヒーは冷え切っていた。
「…もう、止めにしてくれ、猫を殺すのなんて。このままじゃお前…」
「人を殺しそう?そうかもしれない。ボクも自分で自分が怖くなってきてた所なんだ。だんだん歯止めがかからなくなってきて、動物を殺すのもどんどん頻繁になってきてた。君に見つけてもらって良かったのかもしれない…いい機会だ、もう止めるよ」
「本当に、本当に止めるんだな?」
「ああ、もう止める。…ところで藤田、この事、警察か学校に通報する?」
今、河川敷には二人しかおらず、周囲にも人影が一切見えない。もし柳田が今もダガーナイフを所持していたとしたら…嫌な汗がにじんだ。
「…いや、学校や警察にはチクらないよ。俺はお前を信じることにする」
「…ありがとう、藤田」
「じゃあ、帰るか」「うん」
藤田は立ち上がり、柳田と別れて帰宅した。別れ際、柳田はまだ目の焦点が合わず、顔に不気味な笑みを貼り付かせていた。
翌朝、柳田は登校しなかった。
昼休みに、担任の森本先生が血相を変えて教室に飛び込んできた。
「みんな、落ち着いて聞いてほしい。今日の午前中、柳田君が亡くなった。ついさっき警察から連絡が入った。高砂市の踏切で列車に飛び込んだらしい。先生は今から確認に向かいます。午後からは尾田先生の指示に従ってください」
藤田の目の前が暗くなった。
その日を境に、これまで危うい均衡を保っていた藤田辰夫の人生が音を立てて崩壊し始めた。