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25話 平成十年 姫路市③

「おい、猫殺しが来たぞ」

 教室の中で誰かが声をひそめて言った。たぶん山田だろう。

 朝、登校した藤田が三年二組の教室に入ろうとドアに手をかけた時だった。彼が一連の小動物惨殺の犯人だとする噂は、ここ数日で急速に教室中、いや学校中に広まっていた。

 一瞬ためらったものの、藤田はドアを引き開けて入室した。その時教室内にいた者、ほぼ全員の視線が藤田に集中した。それは、まるで糞便や生ゴミでも見ているかのような嫌悪と侮蔑に満ちた視線だった。教室の至る所から注がれる視線を感じつつ、藤田は机の間の通路を自分の席へと向かった。


 机の惨状が目に入った時、藤田は絶句した。

「……」

 藤田の机の天板は、サインペンの落書きで真っ黒に埋め尽くされていた。

「猫殺し」「死ね」「キモイ」「変態」「自首しろ」「殺人鬼」などという言葉とともに、首を切断された猫のイラストが落書きされていた。

 一体誰がやったんだ。怒りを含んだ険しい眼つきで教室中を見渡した。教室の反対側、廊下側の席でひそひそ話をしていた四人の女子集団の一人、高橋と一瞬目が合った。高橋は急いで視線を反らした。四人の女子集団は額を寄せ合い、全員で露骨に顔をしかめて口々にささやき合った。

「きっしょー…」「うわぁ」「キモすぎ」「最悪ぅ」



「なぁ藤田、猫殺しの犯人ってお前なんやってな」

 教室の後ろで、五分刈り頭の野球部員、岩本が言った。

「ち、違う…俺そんな事してへんわ!」藤田はうろたえながら反論した。

「見た奴がおるんやって。お前が猫殺してるの」ニヤニヤしながら岩本が続けた。

「……嘘や。俺は違う。やってへん!」

「ちゃんと目撃者がおるんや。今更しらばっくれんなよ」

「嘘や、そんなん嘘や…」

 勿論、すべて根も葉もない誹謗中傷だった。しかし彼らにとって、それが真実であるか否かなどどうでもよかったのかもしれない。普段から目障りに感じていたクラスの中の異物、藤田を攻撃し排除するきっかけさえ与えられれば良かったのだ。


「それやし、お前いっつも教室でエグい本ばっかり読んでるやんけ。なんか殺人鬼の本とか…」

 岩本の横、ポケットに手を突っ込んで突っ立っていた高岡が言った。

「キモ過ぎんねんお前」重ねて内野が言った。

「犯罪者、変質者」あざけりも露わな口調で山田が続けた。


「違う、俺じゃない…違う」

 藤田は元々無口な性質だった。次々に浴びせられる罵詈雑言にまともに言い返すこともできず、うつむいて口ごもってしまった。そんな藤田に向けて誰が言った。

「…猫殺し」

「猫殺し」

「猫殺し!」「猫殺し!」

 同じ言葉を他の同級生たちも繰り返し始めた。自然発生的に生じたそれは急速に教室全体に拡大し、ついにはほとんど全員が声をそろえて大合唱するに至った。

「猫殺し!猫殺し!猫殺し!猫殺しっ!猫殺しっ!猫殺しっ!……」

「……」

 教室中から降り注ぐ悪意の合唱に耐えながら、藤田は押し黙っていた。やがて、その肩が震えだした。拳をあまりにも固く握り締めたため、掌に爪が食い込み、皮が割け、血がにじんだ。

 藤田は突然、弾かれたように大股で歩き出した。向かう先は教室の後ろで壁にもたれて合唱に加わっていた岩本だ。岩本が一瞬恐怖の表情を浮かべた。このままでは殴られる!その時、内野が横から藤田の進路に足を突き出し、引っかけた。藤田はそれにまともにつまづき、教室の床の上に音を立てて転倒した。

「ぎゃははははは!!!!」

「いひひひひひ!!!!」

 教室中がひっくり返したような大爆笑に包まれた。人間の喉からこれほど悪意に満ちた醜悪な声が出るとは信じられない程だった。

「あぁ怖かったぁ…ボクも殺されるかと思ったわぁ」

 岩本が冷汗を拭きつつ、内心の怯えをごまかすために茶化して言った。


「おい!何騒いでる!早く席に着け!」

 担任の森本先生だった。担任の声を合図に、生徒たちは何事もなかったかのように自分たちの席へと戻って行った。床の上に這いつくばっていた藤田も立ち上がり、制服に付いたほこりを払って自分の席に着いた。

 藤田は前方の席についた柳田の背中を見た。彼はうつむいて座っていた。まるで自分も騒動に巻き込まれる事を恐れるかのように、小さく縮こまっていた。



 それからも連日、同級生たちからの嫌がらせは続いた。

 はじめの数日間で、反論、反撃しようという気は失われていった。ただ教室中から浴びせられる敵意に耐えるだけの毎日が続いた。

 自分のいじめに巻き込まれる事を恐れ、数少ない友人である柳田も、明らかに藤田から距離を置き始め、ついには一人で帰宅するようになった。

 これほどのいじめに遭っていながら、藤田はこの事を両親または教師に相談しなかった。温もりに欠ける家庭に育ったせいか、彼には基本的に他人に対する信頼感が欠如していた。この件を大人に話して助けてもらおうという発想さえなかった。もしこの時、藤田が誰かに助けを求めていれば、あるいは後にこの世界を襲うことになる惨劇、そしてもう一つの世界を襲うことになる災厄も回避されたのかもしれない。



 ようやく週末が訪れた。

 朝、藤田は一人で家を出た。自転車にまたがり、市中心部の南に位置する小高い丘に向かった。

 手柄山公園。数十年前に万博が開催されたこの公園の敷地内には、ひなびた遊園地、こじんまりとした水族館、玉ねぎ型のガラスドームの温室、未来的なデザインの展望台などが木々の中に点在している。

 休日によく、藤田はここを訪れた。リュックに菓子パンとコーヒー牛乳のペットボトル、それに本数冊とCD数枚だけを詰め込み、そこでぼんやりと一日を過ごすのが藤田は好きだった。特に藤田が気に入っている場所は、丘の頂上に作られた中世ヨーロッパの城を模したロックガーデンだった。階段と展望台が迷路のように入り組んだそこは、訪れる人もほとんどなく、藤田はそこで好きなだけ自分一人の時間を過ごすことができた。


 その日も藤田はロックガーデンに向かい、自分だけの特等席の展望台から、丘の北に広がる姫路市中心部の市街地とその向こうに輝く白い天守閣を眺めていた。姫路駅を出発したばかりの新幹線が、家々の間を西に向けてのろのろと走り出すのが見えた。その手前、古びた埃っぽい下町の屋根の上に、奇妙な物体がいくつも突き出している。かつて姫路駅とこの手柄山公園を結んでいた姫路モノレールの高架の残骸だった。歳月を経て黒ずんだコンクリート製のそれは、どこか古代ローマ帝国の遺跡を思わせた。



 藤田はそれらの光景を眺めながら、この街が核の炎に焼かれる様を妄想していた。

 妄想の中で、北朝鮮から核弾頭を搭載したミサイルがこの街に飛来し、姫路城直上で爆発した。閃光と熱線が市街地を焼き払い、そこに住む人々を瞬時に蒸発させた。続けて発生した衝撃波が高度成長期に絶頂期を迎え、今や老朽化したこの醜い都市を粉々に打ち砕き、吹き飛ばしていく。そして爆心地からは太陽のように輝く火球が膨れ上がり、すべてを飲み込み消滅させていく……。


 不健全な白昼夢に耽っていた藤田はふと、眼下に動きを捉えた。

 展望台の真下、木々の間に隠れた遊歩道を、一人の人影が歩いている。黒いリュックサックを背負い、ネズミ色のパーカーを羽織った小柄な後姿にはどこか見覚えがあるような気がした。

 人影はリュックから何かを取り出すと、地面の上に放り投げた。

「ニャア…」

 藤田の耳に猫の声が小さく聞こえた。遊歩道の脇の茂みの中から、野良猫が現れた。猫は人物が地面に投げた物に近づくと、座り込んで食べ始めた。どうやら餌だったらしい。その時、藤田は人物の手に陽光を反射して銀色に輝くものがあるのに気付いた。ダガーナイフだ。

 あっと思う間もなく、その人物は餌を頬張る猫の頭頂部にナイフを振り下ろした。ギャっと叫んで猫は一度だけ後ろ向きに跳ね飛んだが、それっきり動かなくなった。人物は死んだ猫に屈み込むと、おぞましい解体行為を開始した…

 藤田はそれ以上見ていられなかった。その顔を滝のように冷汗が流れ下った。何故なら、その時パーカーのフードの影からチラリと見えた横顔は、よく見知った人物のものだったから。

 柳田健太。藤田の数少ない友人だった。

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