24話 平成十年 姫路市②
六時限目の英語の授業がようやく終わった。
放課後を迎えた三年二組の教室はにわかに騒がしくなった。これから部活に向かう者もいれば、教室に留まり仲間同士でおしゃべりに花を咲かせる者もいる。あるいは一人、足早に教室を去る者も。
「おつかれー」
カバンに英語の教科書とノートを詰めていた藤田辰夫のもとに、一人の男子生徒がやってきた。藤田の級友の柳田健太だった。藤田の数少ない友人だった。長身の藤田とは対照的に、柳田は背が低く、色白な肌と眼鏡のせいもあって、初めて見る者に気弱そうな印象を与えた。
「帰るか、健太」
カバンを肩から提げると、二人は教室を後にした。
金色の西日が降り注ぐ午後四時の川べりを、二人は歩いていた。
河川敷のグラウンドで練習に励む運動部員たちのかけ声と、金属バットがボールを打つ音が響いてくる。
「なあ藤田、あいつらマジでムカつくよな」
柳田が切り出した。柳田は東京生まれで、転勤族の父親について姫路にやってきた。だから話す言葉に播州なまり、関西弁はまったくなかった。藤田も生まれは姫路だが両親が他県出身者のため、なまりがほとんどなかった。代々の地元出身者が大半を占めるクラスにおいて、彼らは浮いた存在、アウトサイダーであり、そのためか不思議と馬が合った。
「あいつらって、誰がよ?」
「高岡たちだよ。お前のこと猫殺しの犯人扱いしやがって」
「…まあ別に、どうでもええけどな」
「なんでだよ?もっと怒れよ。お前がキレないからあいつらが調子乗るんだよ」
「勝手に言わせとけ。それに実際、俺が犯人だしな」
「……え?」
柳田はたっぷり三秒間、無言になった。
「冗談だよ。何マジで受け取ってんだよ」
「な、なんだよ。びっくりしただろ。お前が言うと全然冗談に聞こえないんだよ!」
「はぁ?けっきょくお前も高岡たちと同じで俺を疑ってたんだな」
「違うって、そういう訳じゃなくて」
「じゃあ何なんだよ」
「……お前ってさ、何考えてるか分かりにくいところあるから。
何か人に言えない秘密とか持ってても不思議じゃないというか…ごめん」
「お前もけっこう言うね」
「ごめん。怒るなよ」
「…ところでさ、何で殺すんだろうな。猫」唐突に、柳田が言った。
「さぁ」
「殺すのが楽しいのかな。それとも猫が嫌いなのか…」
「…たぶん、殺すのが気持ちいいんじゃないのか?
快楽殺人ならぬ快楽殺猫だな。猫を殺して興奮してる気色悪い変態がいるんだよ」
「理解できないね」
「ああ、本当に」
「…殺すなら、人間を殺すべきだよね。猫なんかじゃなく」柳田がぼそりとつぶやいた。
藤田は驚いて柳田の顔を見た。眼鏡が西日を照り返して光っているせいで、その目の表情は読み取れない。しかし口元は苦々しげに歪んでいた。
「……何かあったのか?」
柳田は口元を震わせていた。思っていることを言おうか言うまいか葛藤しているようだったが、やがて
「…いや、何でもない。何でもないよ」そう言って無理やり笑みを浮かべてみせた。
「そうか…」藤田もそれ以上追及しなかった。
会話はそれで途切れた。その後少し歩いたところで二人は別れ、それぞれの家に帰った。
藤田の家は築20年ほどの賃貸住宅だった。そこに彼は両親と三人で暮らしていた。両親は共働きのため、帰宅した藤田を出迎える者は誰もいない。夕暮れ時の薄暗く静まりかえった部屋の中にはすえた臭いの空気が淀んでいた。排水口の臭いだ。藤田は空気を入れ替えるため窓を全開にした。
換気と手洗いと着替えを済ませた藤田は自室のベッドに寝そべり、学校で読んでいた本の続きに没頭した。そして、いつの間にか寝入ってしまった。
「ご飯よー」
母親の声で目覚めた藤田はダイニングへと向かった。
母親が流しに向かっていそいそと夕飯の配膳をしていた。ダイニングには父親の姿もあった。帰宅後すでに入浴を済ませ、ビールを飲みながらテレビの野球中継に見入っている。身長こそ今では藤田の方が高かったが、建設作業員だけあって筋肉質のがっしりとした体つきをしていて、まるで熊のようだ。
「父さん、母さん、おかえりなさい」
「……」父親はテレビを凝視したまま藤田の方を振り向きもしなかった。
「いつまで昼寝しているの。夕飯の時間よ…」母親が冷たく言った。
母親は昼間、パートで保険外交員をしていた。熊のような父親とは対照的に、ほっそりと痩せ細っている。対照的なのは体型だけでなく、性格もまるで違っていた。無口で他人に無関心な父に対し、母は早口でヒステリックで他人に厳しかった。
三人は食卓に着いた。今晩の夕食は肉じゃがと味噌汁だった。
「いただきます」
「……」
「……」
父も、母も、藤田も、何も言わず黙々と箸を動かして食べ続けた。テレビの野球中継の音声と、食器が鳴る音以外、何も聞こえない。彼らの視線が合う事もない。父は酒を飲みながらテレビを眺めているし、母は眉間にしわを寄せ深刻な顔で一人で何かを考え込みながら食べている。藤田もただ食べ物を口に運ぶことに専念していた。まるで一家団欒の醜悪なカリカチュアだった。そこには家族の間に当然あるべき、温もりや会話といったものは微塵もなかった。
「…この肉じゃが、甘すぎて食えたもんじゃねぇ」
長い沈黙の後、ようやく父から出てきた言葉がそれだった。それだけ言うと父は食卓を後にし、居間のソファに寝そべると缶ビールを飲み続けた。母が作った料理にはほとんど手がつけられていなかった。
「……」
母は無言で立ちあがると、父が食べ残した料理を集めて台所に運び、叩きつけるように食器ごと流しにぶち込んだ。ガシャーン!食器がぶつかり合って割れる音がダイニングに響き渡った。
「うるせぇぞコラァ!」
テレビを見ていた父が怒鳴った。
「チッ…ったくこの……」台所の流しに向かいながら、母は聞き取れないような声で毒づきながら何かを呟いていた。
藤田は黙々と食べながら二人のやり取りを眺めていたが、自分の分の食事をすべて食べ終わると箸を置いて自室に引きこもった。
これが、藤田家のいつもの夕餉の光景だった。相互に無関心、いや憎しみ合ってさえいる他人同然の人間がただ同じ家で寝起きしている、そんな寒々とした家庭であった。