18話 沼地の戦い
「ほんとにこっちで合ってるんだろうな」
ずぶずぶと沈み込む軟泥に足を取られながら、オークのザイイラール一家の当主、ザイイラ・コルドバヴ・イは言った。
ザイイラール一家が沼地に踏み込んでからもうすでに数時間が経過していた。行けども行けども迷路のように入り組んだ水路と、背高く生い茂った葦ばかりで、目的地のサハギンの集落に近づいているかも定かではなかった。おまけに先ほどから潮が満ちてきたらしく、足元に波がひたひたと打ち寄せはじめていた。
「大丈夫だ。間違いない。もうすぐ着く」
ザイイラール一家の食客、謎の男カシェラが答えた。全身をすっぽりと派手な模様の布で包み込み、眼だけを覗かせている。種族さえ定かではないこの不気味な男を、一家は三年前から受け入れていた。理由は単純、この男が強かったから。他のオーク一家との戦闘において、これまでカシェラは目覚ましい働きをしてきた。
「おいカシェラ、それ一時間前にも言ったよな?」
ザイイラール一家当主の右腕、ガゼイル・ザイラ・バが言った。背に巨大な斧を担いで二人に続く。オーク族でも特にいかつい顔つきのこの男、延々と蚊だらけの沼地を歩かされて相当に不機嫌になっていた。
「いったいいつ着くんだよ?てか、さっきっから同じとこグルグル回ってないか?」
「そんな事はない。ちゃんと道はわかっている。心配するな」
「本当だろうな?迷ってたらただじゃおかねぇぞ、てめぇ」
ガゼイルはカシェラに詰め寄り、凄んでみせた。
「おいおいガゼイル、よせよ。こんなとこでケンカなんかすんじゃねぇ」
思わずザイイラが割って入る。
「ちっ」当主に取り成され、渋々といった感じでガゼイルは身を引いた。
先行する三人に続くのはザイイラール一家の眷属である四人の下級戦士たちだ。水を嫌がり逃げ出そうとするハイエナイヌどもの手綱を握り、ときおり鞭で殴りつけながら何とか付いてこさせている。彼らも相当うんざりした様子だ。
「……」
無言で一行の最後尾を歩くのは、大柄なオークの女だった。左頬から喉にかけてギザギザの大きな傷跡が走っている。バゾイル・ザイイラ・グミ。十年以上前に他のオーク一家との抗争で負ったこの傷のせいで、彼女は口がきけなかった。しかしその戦闘力は随一だ。左手に大鎌を掲げ、周囲の葦原に油断のない視線を走らせている。
その時だった。密生した葦の奥で、何かが動いた。
バゾイルの鋭い視線はそれを見逃さなかった。
小さな緑色の人影が手にした筒を口に当てた。吹き矢だ!
バゾイルは手にした大鎌を目にも留まらぬ速さで横なぎに振るった。数百本の葦が地上一メートルの高さで水平に裁断された。ばらばらと水面に落下する刈られた葦の向こうに、何か緑色のものが逃げていくのがチラリと見えた。手ごたえがあった。周囲の葦には鮮血が飛び散っていた。仕留め損なったが、かなりの深手を負わせたはずだ。
先行していた七人は驚いて振り返った。
「どうした、何かいたのか?」
バゾイルは目顔で血痕の付いた葦の奥を示した。
「犬どもに追わせろ!」ガゼイルが指示を出した。
戦士たちが茂みの奥にハイエナイヌをけしかけた。血の臭いに興奮した犬もどきの獣どもが突進していく。葦の奥からは獣の唸り声と、犬どもが何者かと争う物音と、奇妙なしわがれ声が聞こえてきた。やがて物音が静まった茂みの奥から、大柄なハイエナイヌが何かを口にくわえて運び出してきた。それは子供ほどの背丈で、ぬめぬめした緑色の皮膚のカエルの化物のようなものだった。
「こりゃサハギンじゃねぇか。おいおい、いきなり殺っちまったのかよ仕方ねぇな…」
ザイイラが困ったような表情を浮かべた。
「本当はもうちっと平和的に友好的にやるつもりだったのによう」
「……」
バゾイルは弁解がましい顔をして、ジェスチャーで吹き矢の真似をしてみせた。
「奴らの方から仕掛けてきたってのか?
奴らは好戦的な種族なのか?おいカシェラ、どうなんだ?」
「いや、俺が前に会った時は大人しい連中だったが…」
「こんなもんが落ちてましたぜ」
下級戦士の一人、顎ひげの男が細い竹筒のようなものを茂みの奥から拾ってきた。吹き矢だった。
「これで間違いない。…どうやら俺らは歓迎されていないようだ。やれやれ」
ザイイラは言った。
その後、一行は五回サハギンからの襲撃を受けた。
二回目の襲撃は先頭を行くザイイラを狙ったものだった。頭を狙った吹き矢の一撃は金ぴかの兜に跳ね返され、矢を放ったサハギンはザイイラの双剣で切り刻まれた。
三度目の襲撃は細い通路を通っている時だった。通路の両側から射られた矢を受けて、ハイエナイヌの二頭と下級戦士一人が犠牲となった。矢には猛毒が塗られており、矢を受けた男はたちまち口から泡を噴いて昏倒し動かなくなった。通路の両側の葦の中に潜んでいた敵をガゼイルとバゾイルが斧と大鎌で真っ二つにした。
三度目の襲撃に懲りたザイイラール一家は、姿勢を低くし、一段と警戒の度を強めて進んでいった。おかげで四度目と五度目の襲撃ではこちらが先手を打つことができ、犠牲者を出さずに済んだ。それぞれの襲撃では計七匹のサハギンを仕留めた。進むにつれて攻撃の頻度と参加人数が増していることは、目的地が近い事を示していた。
そして六度目の襲撃。一行を取り囲むように葦の中から無数の矢が一斉に飛来した。
「走れ!」
七人は必死に走り、包囲網を突破しようとした。しかし下級戦士二人が矢を受けて倒れ、そしてあろうことか当主であるザイイラまでもが毒矢の犠牲となってしまった。しかし、それが当主の従兄弟にして腹心たるガゼイラの怒りに火をつけた。単身で茂みの中に躍り込んだガゼイルは片腕で巨大な斧を操り、片っ端からサハギンたちを両断していった。まるで小さな竜巻が荒れ狂っているかのような光景だった。
数分後、そこにはバラバラになったサハギンの肉片と内臓が散らばっているのみとなった。
ガゼイルは目を閉じて横たわる当主のもとに歩み寄った。
「お頭……」
「うぅ、痛ぇ…下手打っちまったな…」
ザイイラは生きていた。幾多の死線を乗り越えてきただけに、そのしぶとさは相当なものだった。
「よかった…生きてたのか。
お頭はそこで休んでてくれ。この腐れガエルどもを皆殺しにしてくるからよ!」
その時、すぐ傍で奇妙な呻き声がした。
「グェェェエ…」
胴体を真っ二つにされ、切断面から内臓をこぼれさせたサハギンの泣き声だった。そいつは内臓を引きずりながら両腕で這って逃げようとしていた。とどめを刺そうとガゼイルが近寄った時だった。
(…この先に進ませるわけにはいかぬ…絶対に…いかぬ…)
襲撃を生き延びた四人の脳内に思念が送り込まれてきた。念話だった。
(…そうだ……ここで止めなければならぬ…)
別の方角からも思念が伝わってきた。そこにも瀕死のサハギンが横たわり、残った片腕で吹き矢を構えようとしていた。
(…我らが主が帰還なさったのだ…)
(…主を守るのだ…)
(…主よ…我らが偉大なる主よ…)
思念は方々から発せされた。ずたぼろの肉片と化したサハギンたちが辺り一帯で蠢いていた。彼らは最後の力を振り絞り、吹き矢の狙いを定めた。矢や両腕を失ったものたちは這ってオークたちに迫ってきた。
「うわぁあああ」
「何なんだこいつら!」
「……っ!」
異様な光景に恐怖を覚えたオークたちは攻撃することも忘れ立ちすくんだ。
その時、一枚の大きな布が宙を舞った。カシェラが身に着けていた派手な模様の布だった。
次の瞬間、あたりに一陣の疾風が走り抜け、血と肉片と泥水が飛び散った。
そして、沼の水面に布が舞い落ちた時、辺りは再び静かになっていた。サハギンたちは今度こそ物言わぬ肉片と化していた。
「カシェラ…」
そこには布を脱ぎ捨てたカシェラの姿があった。
全身を覆う赤い硬質の鱗が、午後の陽ざしを浴びてきらめいていた。両手と両足には鋭い爪が並んでいる。特に足の親指にあたる位置の爪が特に大きく、まるで鎌のようだ。蜥蜴人。それがカシェラの種族だった。サハギンと同じく、今や絶滅危惧種だった。
「…危ないところだった。油断するな。奴らは生命力が強い」
カシェラが言った。
「それに、着いたぞ。ここが目的地だ」
一行はサハギンの集落に到着した。流木の骨組みに葦を噴いた粗末な高床式の小屋が、数十軒寄せ集まっている。襲撃を警戒しつつ調べたが、どの小屋も無人だった。サハギンも、件の男の姿もどこにもなかった。何かしら略奪する価値のある物さえなかった。
「これだけ犠牲を出したのに、結局無駄足だったか…」
ガゼイルに支えられて歩きながら、当主ザイイラが吐き捨てた。
「クソッ!」
悔し紛れに、ガゼイルが魚を干している棚を蹴り倒した。干し魚が地面に散乱した。
「……?」その時、無言の女、バゾイルが何かに気付いた。
「どうした?」ザイイラはバゾイルの視線の先をたどった。
「…何だ、あれは?」
集落のはずれに、沼の泥に埋もれた石組みの塚が見えた。古代の石造建築のようだった。