17話 岩窟
それは一見、判別のつかないブヨブヨした茶色い塊だった。
しかしよく見ると、どうやら原型を留めないほど崩れたサハギンの腐乱死体のようであった。手足はなく、頭部と思われる出っ張りには眼、口、耳、その他いかなる器官も見当たらない。
だが肉塊は生きていた。四人のサハギンが恭しく担ぐ輿の上で、それは身をよじらせながら強い思念を吐き出した。
(…愚か者どもが!!…)
(…我らが主に救いを求めるとは!…)
(…何たる無礼……何たる……恥知らず…)
(…我らが主はいかなる者にも死と破壊のみをもたらす御方。そんな事も忘れたのか!…)
老母后の叱責に十五匹のサハギンたちは押し黙った。
続けて肉塊は、男に思念を送り込んできた。
(…わたしはこの一族の長老、老母后にあります…)
(…我らが主よ…よくぞお戻りになられました…)
(…我らが一族の先祖代々、はるか昔よりこの日が来るのを待ち望んでおりました…)
(…我が老醜の身が生きてこの日を迎えられた事、心より感謝しております…)
(…朽ち果てた我が身はもはや動くこと叶わず、我が眼は見る事も叶いませぬ…)
(…しかし、貴方様から放たれる暗澹たるオーラははっきりと感じられます…)
(…主よ、どうぞこちらへ……見ていただきたい物があります…)
老母后に先導され、サハギンたちと男は湿原へと分け入っていった。
密生する葦をかき分けながら沼地を三十分ほど歩いた時だった。
湿原の中に、石組みの塚が現れた。泥に埋没し地上にはわずかしか出ていないが、どうやらかなり大きな石造建築の一部のようだった。サハギンたちは塚にわらわらと群がると、円盤型をしたひとつの岩に取りついた。そして一斉に力を込めると、岩はごろりと横に転がった。後にはぽっかりと黒い穴が開き、かび臭い空気が中から噴き出してきた。穴の先は真っ暗な隧道になって地下へと伸びていた。
(…どうぞ…こちらです…)
サハギンたちは静々と穴の中へと消えていく。老母后は輿から降ろされ、サハギンの一匹に恭しく抱きかかえられて入って行った。
男は一瞬だけ躊躇したものの、怪物たちに従った。
身をかがめ、闇の中を手探りで進んでいく。
隧道の中はカビと汚泥の悪臭に満ち、手が触れた壁面はどこもかしこも不快なぬめりを帯びていた。前後を無言の怪物に挟まれながら、男は地の底をどことも知れぬ場所へと向かっていった。やがて、細い通路が終わり、それなりに広さのある空間に出た。
闇の奥から、老母后の思念が伝わってきた。
(…着きました……)
(…これが…我らの先祖代々から受け継ぎし…聖なる墓所で御座います…)
闇に包まれた隧道と違って、この場所にはほのかな光があった。ぼんやりとした青緑色の燐光に浮かび上がった光景に、男は息を呑んだ。
(…ほう…これは…)
そこは直径三十メートル、高さ十メートルほどのドーム型の空間だった。その壁や天井を隙間なく埋め尽くしていたのは、精緻な浮き彫りだった。見たこともない奇怪なモチーフの浮彫が、曲がりくねり折り重なるようにびっしりと岩壁に刻み付けられている。
描かれているのは様々な怪物だった。あるものは鋭い牙を生やし、あるものは触手を伸ばし、あるものは昆虫のような甲殻に覆われた、グロテスクな姿の無数の怪物たち。そして怪物たちの顎の間には、バラバラに引き裂かれ苦悶する人間たちの姿があった…。
(…過ぎ去りし偉大なる日々を偲び、我らの先祖が遺した壁画です……)
(…貴方様の御威光が大地の隅々まで及び、人間どもを絶望させた時代…)
(…栄光に満ちた暗黒時代の光景……)
怪物たちの中には明らかにサハギンを模したものもあった。しかしその姿は力強さと威厳に満ち、今の弱々しい末裔とは似ても似つかなかった。浮き彫りのサハギンたちは銛を手にし、投網に絡め取られた男女を取り囲んで突き殺していた。よく見ると、突き殺されている人物の耳は尖っていた。エルフ族のようだ。殺害されている人物像にはエルフと人間のものが入り混じっていた。兵士も王族も庶民も、女も子供も老人も、等しく皆、絶望と怒りと恐怖の表情を浮かべていた。
ようやく男はこの空間を満たす光の源に気が付いた。怪物の浮き彫りの目には青緑の宝石がはめ込まれており、それがほのかな燐光を発していたのだ。
男は上方へと視線を動かしていった。おびただしい怪物たちの饗宴はドーム型の天井にも切れ目なく描かれていた。火炎を吐く巨大な竜、山のような巨人…。そして、ドームの頂点に描かれているのは……怪物たちの中心に鎮座していたのは……。
(…なんだ?)
それは獣だった。それは殺戮機械だった。そしてそれは無数の目を持つ黒い太陽だった。
ドクン…ドクン…
中央に描かれたその図像を目にした時から、男の心臓は強烈な鼓動を始めた。
(…俺は、これを知っている?…いや、知っているというより…)
(…そうです。これはかつての貴方様の御姿です…)
男は天井に描かれたその姿に見入った。
その時、サハギンたちの間に軽い動揺が走っていた。念話を通じて外の湿原にいる仲間から、ある情報が伝わってきたからだ。
(…侵入者が来た…オークだ…)