12話 導師レオド
次の朝。グレンはノックの音で目を覚ました。
巨木の小屋は快適そのものだった。寝具はフカフカで暖かく、風が吹くと小屋全体が揺り籠のように緩やかに揺れた。おかげでグレンは朝まで熟睡することができた。よく覚えていないが、目覚める直前まで愉快な夢を見ていたような気がした。グレンは寝ぼけまなこで寝床を抜け出して扉へ向かった。
扉を開けると、そこに一人の老女がいた。髪は真っ白だが背筋はピンと伸び、老人とは思えないほど姿勢がいい。純白の髪を丁寧に撫でつけ、濃い紺色のローブを一部の隙なく身にまとっている。気品を感じさせる姿から判断して間違いなく高位のエルフだった。彼女は鋭い視線で、グレンの頭の先から足元まで品定めするかのように遠慮なく凝視した。
「修練者グレン。今からすぐに身支度を整えなさい。」
白髪女は短くグレンに命じた。その有無を言わせぬ調子に、グレンは命じられたまま大急ぎで小屋の中に取って返し、洗顔して衣服を身に着け、最後に外套をまとって再び戸口に戻った。
「準備ができたようですね。では参りましょう」
「あの、貴方はいったい?それにどこへ?」
「……」
女は答えてくれなかった。グレンはただ大人しく老女の後ろに付いていった。
しかし、老女に付いていくのは並大抵のことではなかった。樹上の道を自分の足で歩くのは今朝が初めてだったのだ。先日はずっと森の番人たちに背負われて自分では一歩も歩いていなかった。
目もくらむような高さで、足を踏み外せば、はるか下の地面に転落して一巻も終わりだ。老女はそこをせかせかと速足で歩いていく。枝の上を歩くのは深い森での生活に親しんだ本場のエルフ族にとっては苦もないのだろうが、人里近くで育ったグレンにとってはありったけの勇気と集中力を必要とした。朝露に濡れた枝はつるつるして滑りやすく、肝を冷やすのは一度や二度ではすまなかった。
グレンは絶えず転落の恐怖に苛まれながら、果てしない枝と吊り橋と梯子の迷路を抜けていった。
一時間ほど歩いた後だった。突然、老女の足が止まった。どうやら目的地に着いたらしい。グレンは冷汗を拭い、久しぶりにあたりを見渡した。
いつの間にか、かなりの高所にまで登っていた。グレンがいるのは、ひときわ高くそびえ立った巨樹の頂だった。眼下には森の林冠があった。林冠は山々の彼方まで起伏しながら切れ目なく広がっていた。森のあちこちからは白い朝靄が立ち上っている。
暗い森の中とは一転して、周囲には澄んだ午前の陽ざしが降り注いでいた。巨樹の幹には地衣類が垂れ下がり、着生植物が青々と生い茂っていた。着生植物を縫うように上に伸びる階段の先に、奇怪な「館」があった。ごちゃごちゃと無数の庇と屋根と尖塔が組み合わさった複雑な木造建築物が、巨樹の幹に取り付けられた露台から空中にせり出していた。
グレンを案内した老女は、そのまま無言で立っていた。ぼんやりしている訳ではなく、集中した表情を浮かべている。おそらく、館の中の者と念話で応答しているのだろう。グレンは念話傍受を試してみた。彼が不正に習得している呪法の一つだ。しかし老女からは何の思念も漏れ聞こえなかった。通信のプロテクトは完璧だった。
やがて、老女が口を開いた。
「修練者グレンよ。導師レオドがお会いになります。失礼のないように」
導師レオド。その名を聞いて思わずグレンの背筋が伸びた。
このハイチャフ・ギルフの聖なる森を治めるエルフ族の長。圧倒的な魔力と深い洞察力が名高い、通称「森の哲人」。まさかそんな偉人に呼ばれていたとは…
グレンは老女に伴われて階段を上り、恐る恐る導師レオドの館へと向かった。
曲がりくねった薄暗い廊下を抜けた先に導師の部屋はあった。
素晴らしい部屋だった。大きな窓からは聖なる森が一望の元に見渡せた。壁全体に設えられた棚には数多くの鉢植えが並んでいるが、どれもこの森の奥地にしか生育しない希少種の植物だ。部屋のあちこちにはエルフ族の技巧の粋を凝らした精緻な彫刻が飾られていた。しかし部屋の主は不在のようだ。そうグレンが思った時だった。
「よく来てくれたの…ご苦労であった、修練者グレン」
その声はグレンのはるか頭上、部屋の天井近くから降ってきた。
声に驚いて視線を上げると、そこに細長い木彫りの面のような物が浮かんでいた。しかしそれは面ではなかった。
「ほほほ…驚いたかの」
「ど、導師レオド?」
導師レオドの尊顔が天井近くからグレンを見下ろしていた。
異様な長身だった。導師の頭は高さ約四メートルの天井まで届きそうだった。これまでも導師の体は目に留まっていたが、すっかり部屋の調度の一部と勘違いしていたのだ。導師の肌の色は褐色を帯び、その質感はまるで樹皮のようだった。存在そのものが半ば樹木と化していた。長年にわたり樹木と共に生き、森に意識を同化し続けた果てのその姿は、とてもエルフ族には見えなかった。
「う…は、はい、こ、光栄であります…導師レオド…様」
導師の異様な姿と独特の存在感にすっかり度肝を抜かれ、思わず声が上ずった。
「まあ、そう堅くなるでない」
「は!も、申し訳ございませんっ!」
「ほほ。シャイな子だな。まあ無理もない…
ところでだ、さっそく本題に入ろう。
今朝君を呼んだのは、他でもない、例の事件に関して、聞かせてもらいたいからだ」
導師が話すと、天井近くの口元から床まで垂れた長大な白鬚が左右にユラユラと揺れた。
「は!はい、何なりとお答えいたします」
「件の男…殺人者は、人間だったというが、それはまことか?」
「…はい、間違いありません。あの男、姿かたちは紛れもなく人間でした。
ですが、どこか奇妙でした」
「ほう、奇妙であったと。いったいどこが?」
「はい、その動作です。まるで訓練を積んだエルフ族でもあるかのようでした。音も立てずに忍び寄り、森の中を素早く駆け抜けるあの動き、我らエルフ族特有の移動法に間違いありませんでした」
「やはりそうであるのか…森の番人たちもそう言っておった」
「はい、人間にも身軽な者はおりますが、それとは明らかに違うレベルでした」
「他には?」
「それに服装が奇妙でした。見たことのない服で、遠い異国の者なのかもしれません」
「ふむ…続けて。もっと他に、何か気付いたことがあるんじゃないのかね?」
「……。あまりに信じがたい事なので自分の見間違いなのかもしれませんが…」
「構わん。続けなさい」
「あの…男、何か魔術のような物を使ったように見えました」
「ほほう、どんな魔術かね」
「殺された仲間たちの遺体に屈みこんで、何か、よくわかりませんでしたが、きらきら光る宝石のような物を取り出しているように…魔術ではないのかもしれませんが、よくわかりません…」
「…結晶化の呪法…いや、まさか…」
「え?」
「…何でもない。ところで、その宝石のような物はその後どうしたのかね?」
「口元に手をやり、どうやら飲み込む…いや食べていました。ぼりぼりと噛み砕いていました」
「……魂食獣…何とおぞましい…」
導師は目を閉じ、顔をしかめた。
導師は再び目を開くと、グレンをまっすぐに見据えて言った。
「……修練者グレンよ…最後に君の心に直接聞く。我々はあの男についてすべてを知らなければならないのだ」
「心に?まさか…」
「そう、読心の呪法…君にはつらい事であるが、耐えてもらいたい…」
読心の呪法。それは強力な念話で、一方的に対象の記憶を読み取る呪法。読み取られる側はいっさいの記憶、思考、感情を隠し立てすることが不可能となる。
「ど、導師、なぜそこまで?
そこまでして何を知る必要があるのです?
あの男はいったい何者なんです!?導師は何かご存じなのですかっ!?」
「喝っ!修練者の分際で導師に対し質問が許されると思うかァ!!」
突如、導師が声を荒げた。怒気を露わにしたその表情は、先ほどまでの老木のような姿とはまるで別人のようだ。
「ひっ!も、申し訳御座いませんでした!」
降り注ぐ怒りにグレンは畏れおののき、床に平伏して無礼を詫びた。
「貴様ごときが知る必要のないことだ!出過ぎた真似をするな小僧!」
「ははっ!申し訳ございません…」
「よいか、貴様があの夜、見聞きした洗いざらいを教えるのだ。多少痛みを伴うが、耐えよ、修練者よ…」
導師レオドの異様に細長い両腕がゆっくりと持ち上がり、グレンに向かって伸びてきた。枯れ枝のような長い指がグレンの頭部を両側からすっぽりと包み込んだ。まるで頭に大蜘蛛がへばりついたような不気味な感触にグレンは激しい生理的嫌悪感を覚えた。
「ひぃ…」
「心を開け…全てを晒すのだ…」
突如、グレンはあの夜に戻っていた。
目の前で再び修練者の仲間たちが切り裂かれ、血を噴き出して死んでいく。
あの男はまるで舞い踊るように一方的な殺戮を楽しんでいた。
グレンはその姿に憧れを抑えることができなかった。自分もあの男のように何物にも束縛されず、圧倒的な暴力で他者を蹂躙したい!修行などどうでもいい!精霊との共感や森への同化などもはや興味ない!自分が真に求めるのは血と暴力なのだ!
ダメだ!心の奥底まで導師にすべて見透かされてしまう。
グレンは必死に隠そうとしたが無駄だった。導師の強力な念話はグレンの脳内から一方的にあの夜の記憶を吸いだし続けた…
「…大義であった。修練者グレンよ」
導師の巨大で不気味な手のひらが頭から離れていく。ようやくグレンは尋問から解放された。
「うぅ…」グレンは頭痛にうめいた。意識が混濁していた。
これまで導師との会見の間ずっと、グレンの背後で影のように無言で控えていた老女が進み出た。
「マグサよ、修練者グレンを帰してやりなさい」
「御意」
老女マグサは軽々とグレンを担ぎ上げると、かき消すよう部屋から姿を消した。
午後になっていた。部屋の大窓からは昼下がりの陽光が差し込み、床の上には導師の長い影が伸びていた。
導師は修練者グレンの尋問で得た情報を吟味していた。
やはり、この男なのだろうか。
数日前、天から邪悪な気が降ってくるのを感じた。それはとてつもない闇を秘めた悪の塊そのものだった。自分以外にも多くの者が不吉な気配を感じ取り戦慄した。
その出来事は、まさに預言書に記されし「悪の再来」を思い起こさせた。
男の悪鬼のような振る舞いはまさに悪そのものであった。肉体を殺戮するだけでなく、結晶化の呪法を操り、殺害した者の魂までも喰らい、己が滋養と化す。
魂食獣。
最悪の鬼畜外道。
男は矢を浴びて、崖から落ちたという。
しかし、その程度で死ぬとは思えなかった。数十名分の生命を取り込んだのだ。事実、限りなく矢を受けても死なず、男は異様な生命力を発揮して逃げようとし続けた。
必ず見つけ出し、その肉体を完全に灰と化すまでは安心できない。
あの男が、預言されし「獣」なのだとしたら。
「イスコス、セギラ、これに…」導師は静かにつぶやいた。
「はっ…」
導師の部屋の窓辺に、二人の森の番人が出現した。男と交戦した五人の森の番人、そのうちの二人だった。
「…あの男、やはりただの人間ではなかった。儂の危惧が正しければ、…かの忌わしき者だ」
「まさか…」
二人の内、長髪の若い男、セギラが息を呑んだ。もう一人、痩せた中年の女、イスコスが目を剥いた。
「…やつは間違いなく生きておる」
「……」
「しかし、死んではおらぬとはいえ、おぬしらとの戦いで傷つき、弱っておるであろう」
「……」
「今のうちだ。奴が力を取り戻す前に、今度こそ完全に滅ぼすのだ。失敗は許されぬぞ…」
「…御意」
イスコスとセギラは一瞬で姿を消した。窓の向こうには午後の陽光の元、樹海が微睡むように広がっていた。
グレンはノックの音に目を覚ました。
樹上の小屋での午睡は快適そのものだった。部屋は静かで、風が吹くと小屋全体が揺り籠のように緩やかに揺れた。おかげでグレンは夕方まで熟睡することができた。よく覚えていないが、目覚める直前まで少し怖ろしい夢を見ていたような気がした。グレンは寝ぼけまなこで寝床を抜け出して扉へ向かった。
扉を開けると、そこには先日の森の番人の一人がいた。エルフ族には珍しい赤い髪の女だ。なかなかの美人だった。
「グレン、よく聞きなさい。あなたは修練者としての資格を失いました」
「へ?」
「厳正なる選考の結果、あなたには聖なる森の使徒としての適性および霊性が著しく欠落しているとの判断が下されました」
「そんな、ちょっと待ってください!」
「あなたには二つの道があります。山を下り、再び始教院からやり直すか、それとも使徒の道を諦めて俗界で一生暮らすか。どちらを選ぶも、選択はあなたの自由です。下山は明日朝の予定です。私が同行します。それまでゆっくり休息を取りなさい。ではまた明日」
一方的に通告すると、森の番人は去って行った。