九
風邪を引いたのが何年ぶりか、頭の中で考えている。それは途方もない旅のようで、茫漠とした暗闇の中を手探りで進んでいくことになる。
昔のことは、余り覚えていない。自分でフタをしてしまったのか、経年による選別の結果なのかはわからない。ただ、幼いときのことは年を取るごとに鮮明さを失い、不安や恐怖、喜びといったそのとき抱いた多大な感情だけが、印象として残っている。
それだからどう、という話ではない。何もかも、いつかは忘れていくことだし、そのいちいちに対して感傷に浸るほど、人生は長くない。忘れてしまったことを悲しいと感じる心は持っているが、そうさせていない。ただそれだけの話である。
見つめ続けても何一つ変化のない天井を、しかしこれでもかと見つめる。
母は仕事でいなかった。寒気に身体を震わせ、くしゃみで喉を痛める。その繰り返しを、朝からかれこれ八時間程度は続けていた。起き上がるのも面倒で、ご飯も食べていない。食べたいという欲求も沸かないし、お腹も減った感じがしない。
ぼやける頭で古屋敷くんのことを考えた。
彼は私のことを好きだとは今まで一度も言わなかった。私も彼のことを好きだと思ったことはない。何を企んでいるのか、巻き込まれたようにしているが、彼も彼なりに進路を定めているような、そんな気配だけは感じている。
彼のことを好きになれるほど、私は彼のことを知らない。
そう考えてから、それじゃあ私は古屋敷くんのお兄さんの何を知っているのだろうか、と思った。名前の読み方さえ間違えていたのに、それでも焦がれる思いは胸のうちにしっかりと存在し、主張を続けている。
二人は何が違うのだろうか。何が違うから、私は古屋敷くんのことを好きにならないのだろうか。
熱に浮かされ、変なことを考えてしまった。
今日はこのまま、泥のように眠ろう。
それでだくだくと、全ての雑念を流しきろう。
ことさら緩慢に、目を、閉じた。
――
「さて他に何か質問はあるかな」
ゆかりんは声のトーンを一切変えずにそう聞いてきたが、僕は喉の渇きばかりを覚えて、何も発することが出来なかった。彼女はそれを不思議そうに見ていた。多分、このように簡単に言ってのけてしまうほど、彼女にとっては瑣末な話なのだ。あるいは信頼を寄せてくれているのかもしれないが、うぬぼれることはしない。
場が白けた、というと語弊があるが、今の状況はそれに近かった。ぽろりと爆弾を落とした当人が、まさしくそんな顔をして飲み物を啜っている。
結局それぞれの飲み物を飲み終えると、大した会話もなく解散した。駅で二人と別れ電車を待つ間、あてどもない思考を繰り広げてみたが、収集がつかなくなってやめた。
家に帰り、山下隆二からの攻撃もまだ癒えぬ身体に、兄からの暴力を受ける。今日は少々応えた。兄は構わず、満足すると部屋を出て行った。しんと静まり返った部屋で身を丸める。
唐突に孤独感を覚える。それが何に由来し、誰に成り代わってのものなのか、考えることはしなかった。
翌日になっても、牧瀬奈々子は学校に復帰できる体調に戻らなかったらしく、ゆかりんから休みであることを教えられる。ここ最近、まともに顔を合わせていないような気がして、少しだけ、彼女が心配になった。それは恋人同士としてのものというよりは、単純に人間同士の間に生まれる慈愛のようなものだろうと納得させる。させる、というのも妙な言い回しだが、自分の中で確かにそのようにあえて考えた自覚があった。何より見舞いに行くことを拒否されていては打つ手もなく、そうしてあくせくしているくらいしか暇を弄ぶ手段がなかった。
ゆかりんからもらう情報では、どうやら高熱が続いているらしく、来週も半分くらいは休みを取るだろうという話だった。結局、彼女が休んでいる限り、例の話の続きは聞けない。
半ば強引に巻き込んだ田中氏も、心配そうに牧瀬奈々子の話題を出してくるが、どこかで遠慮のようなものがあるのか、その頻度は少なかった。僕は誠意のつもりで話したが、彼にしてみれば迷惑なことだったのかもしれないとようやく思い当たって、少し、申し訳ない気持ちになった。人間関係をまともに行ってこなかったからか、どうしていいかわからない。
山下隆二にしてみても、時折僕を呼び出してどうなっているんだとのたまうことがあった。校内で一切見かけないがなぜ休んでいるのだと、そんなことの説明を求められる。僕だって熱だとしか聞いていないし、そもそも彼に話す筋合いこそ本当にない。適当にあしらうと何度か拳をもらって、身体も精神も疲弊する。
この数日、やたら牧瀬奈々子のことを考えてしまう。
顔を合わせないでいるほうが相手のことを考えるというのも、変な話だなと思った。
それに、再三言ってのとおり、彼女は僕の武器となる人物であって、本当の意味での恋人でもないのに。
これも、誰に対する言い訳なのだろうか。
いや、目的を見誤ってはいけない。
意識して、小さな芽を潰そうとする。
「やっと落ち着いてきたみたいよ」
ゆかりんと喫茶店で待ち合わせ、田中氏とそこを訪れると、早々に彼女はそう言った。安堵のため息を漏らし、田中氏はソファに凭れた。
「よかったー」そして興味津々の様子で、「結局なんだったの?」
「最初は風邪で、それからウィルス性の胃腸炎に罹ったみたい。奈々ちゃんてば面倒くさがってろくなもの食べていなかったみたいだからね。お母さんは仕事で忙しいし、私もそう何度も何度も看病に行くわけにもいかないし」
異母姉妹の件が頭に浮かび、しかしここでは聞かない。
「そうかー。まあ何にせよ安心だな。な、古屋敷」
「そうだね。よかったよ」
僕の機微を察したわけではないとは思う。ただ、ゆかりんは不思議そうにこちらを見た。
何がどうなったわけではない。頭の中の整理は余りうまく行ってはいない。
ただ、田中氏や、やり方はともかくとして山下隆二のような、牧瀬奈々子に憧れる人物がいる一方、なんとなくのきっかけから彼女に声をかけ、たまたま彼女の目的と合致したと言うそれだけの理由で僕がこの場所を占拠するのは、少々、せこいと言うか、自分の中で腑に落ちなかった。
とはいえ、彼女をまるきり好きになってしまったと言うわけでもないし、「恋人」に昇格したいと明確に意識したわけではない。自分の立ち位置が判然としなくて、少し居心地が悪いと、言葉にするならばそういった具合だ。
頭の中が靄に包まれていて、ここしばらく、自分が自分らしくなく、気持ちが悪いのだ。
「早く学校に復帰できると良いなー。なー、古屋敷」
「そうだね」
「なんか」ゆかりんがつまらなそうに呟いた。「心ここにあらずって感じね」
「そんなことないよ」笑顔を見せる。「安心しているんだ」
「どうだか」視線を外す。「ちょっと腐ったな」
「腐った? 何が?」
「なんでもない」
置いてけぼりの田中氏をあしらい、彼女は窓外に視線を投げる。僕もそちらを見た。
自分でも自分が良くわからないのに、どうして他人に僕のことが理解できようというのだ。もちろん、自分だからこそ自分のことがわからない場合もあるが、今回はそれとは少し違うような、そういった気がする。
「ごめん」財布を取り出して、「今日は帰るよ」
「帰るの?」
「うん。ちょっとね。用事を思い出した」
「あ、そう」
「ごめん」
席を立つ。
駅までの道を一人で歩きながら、考える。
心が色を変え始めているのは確かだ。ただそれが、良い結果を生み出すのかどうか、わからない。だから手をこまねいている。何よりどんな色に変わっているのかも、よくわからない。
錯覚のような気もした。ただ目隠しをされているだけで、色が変わっているんじゃない? と声を掛けられているからそう感じているだけで、その実目の前の事実には何ら変化など起きていないのかもしれない。
心配は心配だった。ただそれが恋愛感情からくるものなのかが判然としない。
一方で、それは仕方のないことだとも思った。
恋などしたことないのだ。
田中氏の言葉を思い出す。
――その先に何があるとか、どうしたいとか、そういうのって、別にそんなに重要じゃないだろ? 今それに対してどう思うかって言うのが一番大事なんだと、俺は思うな。
降りてから、どうして着てしまったのかと考えた。
でも足は目的地を定めているかのように進み、止まらない。
目の前まで来て、さてどうしたものかと思う。見舞いは歓迎されないだろう。しかしここで、アパートの目の前で、彼女の住む部屋を見続けているのも、不審を極める。
まあ、当たって砕ければ良いんだ。今どうしたいか、というそれだけなんだ。
インターホンを鳴らすと、間延びした返事が来る。
扉を開けた牧瀬奈々子は、げ、と声を漏らした。
「何で?」
それから聞いてくるが、僕にもよくわからなかった。
首を傾げると、
「えー、今寝巻きなんだけど……」
扉を少し細めて言う。
「待つよ」僕はその僅かな隙間に声を掛ける。「待つから、お見舞いさせてよ」
彼女は一度振り返って、
「ごめん、悪いけど」
と言った。
そりゃ、いきなり訊ねてきて上げてくれというのも、失礼な話である。
仕方ないから帰るかと、きびすを返そうとしたところで、
「部屋汚いから、ちょっと駅前のマックかなんかで時間潰してて。準備できたら呼ぶ」
そう言う。
「わかった」
大人しく駅前まで引き返し、マクドナルドでポテトをかじった。自分の行動自体がうまく捉えられていなかったが、それを受け入れた彼女のこともまた、不鮮明だった。
結局Lサイズのポテトを五本くらい摘んだところでメールが来たので、残りは全て捨てて店を出た。
「悪いね急に着て」
「いいよいいよ」何が変わったのかはわからないが、ジャージ姿に着替えた彼女は扉を開けて僕が入るのを待ってくれた。「入って」
「お邪魔します」
入ってすぐ左手にキッチンがあり、右手にトイレと風呂場があるらしかった。その狭い通路を奥まで進むと居間があり、左に和室が続いている。
「その辺座ってて。今ポカリしかないけど、良い?」
「うん。お構いなく」
カーテンは締め切ったままで、レールに洗濯物が掛けられている。レディース服しかない。
「ねえ」キッチンから声を掛けられる。「うち、ゆかりんに聞いたの?」
「うん。この間ね」ゆかりんの家に行ったことは黙っておく。「教えてくれた。見舞いには行くなって言われていたんだけど」
「ふうん。でも着たんだね」コップを二つ両手に持ってこちらに戻ってくる。「ま、ありがとう」
「何も持ってきてないけどね」手をひらひらさせて、「ありがたく頂くよ」
ポカリを飲み下す。
この間の喫茶店のときから比べて、ずっと自然に会話が出来ている気がする。
「体調、もう良いんだって?」
「完治はしてないけどね。ましになったよ」
「よかったよ」
「どうもどうも」
また、飲み物を飲む間。
思えば年頃の男女が二人きりで片方の家にいると言うのは、よくない状況かもしれない。それはもちろん、僕は彼女を襲ったりはしないが傍から見たら、まさしく牧瀬奈々子が最初に言っていたようなふしだらな関係に思われそうである。
不覚だった。考えなしだった。
そう思うと、途端に自分の行動が恥ずかしくなった。どうしてここに着たのか。なぜ半ば無理やり上がりこんでしまったのか。どうしたんだ、僕は。
「ごめん。体調悪いところに押しかけて。これ飲んだら帰るよ。顔見たら安心した」
「ああ、そう?」
「うん。悪かった」
「いいのよ別に」
「いや、うん」急いでコップを傾ける。「ご馳走様」
立ち上がろうと手を突いたところで、
「あ、待って」
声を掛けられる。
「何?」
「ちょっと、話があって」
「話?」どきりと胸が痛む。理由はわからない。「どうしたの?」
「実は」酷く言いにくそうにして、彼女は視線を伏せた。「あのね」
「どうしたよ」
「私、ここ何日かうなされるように考えていたんだけど」
「うん」
「お兄さんのことが本当に好きみたいなんだ。シメジくん、私、早く彼に会ってみたい。ちゃんと話をしてみたい。いろいろ、不機嫌になったりしてごめん。でも今は素直に、こちらから、お願いさせて。君のお兄さんに会わせて。そのためならなんだって話すし、なんだってするから」
どきりと、胸が痛む。
理由は、わからない。




