七
曰くわが参謀がどのような手段をとったのかはわからないが、きっかり三日後になって、牧瀬奈々子は放課後に下駄箱で僕を待っていた。ちらりと視線がぶつかり、どちらからともなく近づき、一緒に歩いた。まるで出来の悪い恋愛小説の恋人同士のように、その所作はぎこちなさを極めた。
牧瀬奈々子が訥々と「喫茶店に行こう」と言うので、おとなしくそれに従う。それに何かを思うわけでもないが、久しぶりに声を聞いた。
今日はゆかりんは居ないが、今度どうやって取り持ったのか聞いてみることにしよう。
届いたコーヒーに砂糖を落としながら、窓外の景色に視線を向け、そんなことを考えていた。
牧瀬奈々子は手持ち無沙汰に、メロンソーダの入ったカップに触れているようだった。ぐるぐるとカップを周回し、机に落ちた水滴と水滴を指でつなげて、ストローの紙袋を濡らしているのは、退屈そうにも見える。ゆかりんの指示かどうか、呼び出したもののどうしたら良いのかわからないのだろう、と思う余裕がないほどではなかったが、僕はなおさらそうだった。
お互いに視線を合わせないまま、刻々と時間だけが進んでいく。
人は流れ過ぎ、日は暮れ始め、景色が変わっていく。
喫茶店の中に客はまばらで、そのどれもがこの若い男女の連れ合いに興味を示していない。もともと高校の近くとあって学生の出入りも多いし、もちろんカップルで訪れる場合もあるだろう。何より大抵、全くの他人の人生というものにはそこまで関心が向かないものである。僕にしてみても、この眼前のポニーテールの少女それ自体には大して興味がない。あくまでも手段、もしくは武器といったような認識であって、一人の女の子としての価値は、今のところ見出していない。それは多分今後も、変わらぬことであろうと思っている。
ゆかりんが望む形に落ち着くことはまずないだろうと考えていた。僕を踏まえ兄に譲渡する。その流れは崩れないが、その上で牧瀬奈々子が僕のもとへ戻ってくるというパターンは、想像できない。彼女と兄がぶつかり、関係が破滅することが僕の目的であることに相違ないが、返却されるとも思わないし、そうなったとして受け取るつもりもなかった。
牧瀬奈々子はあくまでも兄に対する嫌がらせとして送りつけるものに過ぎない。そういう認識だった。
ゆかりんばかりが思考を先行させ様々な思いにふけっているようだが、見当違いも甚だしい。
コーヒーカップが空になる。
結局それまで、一言も話をしなかった。
「そろそろ僕は帰るけど」
言うと、彼女はうなずき、
「うん。じゃあ、また」
呟いた言葉に、連れ添う気はないらしい。
「よろしく」伝票を示し、言ってから小銭を出した。「じゃあ」
「バイバイ」
視線が合うことも、なかった。
喫茶店を出て駅へ向かい始めてすぐ、声を掛けられた。田中氏だ。
なぜかわからないが、彼が隣に来るのを待ってから、一緒に歩き始めた。
「また何か用?」
「歩いていたら見かけたから声を掛けただけだよ」大仰に笑う。「そんなに毎回、野田さんは関係ないよ」
「部活は?」
左肩に手を伸ばし、
「調子悪くてさ。早退だよー」言った。「まあ俺なんかは、別に、居ても居なくても良いようなもんだけどなー。レギュラーでもないし」
からからと笑う。
「それで、楽しいのか?」
「ん?」
その質問自体の本質を、多分気にしたことがなかったのだろう。田中氏は純粋に聞き返しているような気がした。
「いや、なんでもない」
そう言ってなかったことにしようとしたが、遅れて理解したのかどうか、
「俺はさ、好きだからやってるだけだから。別に、野球選手になって飯食うんだぜ、とか考えてるわけじゃない。趣味の延長だよ。だから楽しいことに変わりはないなー」
変わらぬ口調で答えをくれる。
田中氏を見た。
「それだけで、好きなだけで、がんばれるものなのか?」
だが放った言葉は、自分の過去を投影したものだろう。
僕は水泳が好きだった。好きだったはずだ。
その気持ちをないがしろにしたわけではない。ただ、より純粋な水泳のセンスを持った兄に越えられ、この壁は壊せないのだと理解して、やめた。競争である以上、実力のないものはいずれ排除される。がんばって、努力した末に必ず成功が待っているほど、人生は生易しくなんてない。僕自身努力を惜しんだわけではない。好きなだけでどうにかなるなら、誰もが成功者だ。
それは僕が十七年生きてきて、何度も感じた思いだ。
「がんばっているかどうかは、どうでも良いんだよ。そんなもの、他人の目を気にした視点だろー? 好きだからやってる。本当に、ただそれだけなんだから、がんばっているように見せる気もないし、がんばっていないと思われたからと言って何かを思うこともないよ」
あっけらかんと言われる。
どうにも根本的に考え方が異なるようだった。彼は楽観的な人間なのだろう。ゆかりんのように装っているわけではなく、ただまっすぐ、そうして生きてきた。
「田中くんはさ」
歩きながら、そちらから視線を外して言うと、
「田中氏で良いよ」
と親しみを込めているのかどうかわからない訂正をされ、僕は質問の内容を変える。
「何で田中氏と呼ばれているわけ?」
「気になる?」実のところは全く興味などわかなかったが、肯定しておく。「しかし残念だなあ、古屋敷。大した意味なんてないんだよー。あだ名なんてだいたい、そんなもんでしょ」
あだ名。
「そうか。まあ田中氏に関してはそうかもしれないな。でも、じゃあ、牧瀬さんは何で強情なんて言われているんだ? 何をきっかけに、誰が言い出したことなんだ? これには意味があるだろ?」
二年も在学しているが、その辺の情報には疎かった。ましてこのように帰り道を一緒に歩くような友人の一人もおらず、声を掛けられたと思ったら「ノートを提出して」とか「掃除当番だからさっさとやっちゃおう」といったような、僕個人を認識、意識してというよりは全体のうちのたったひとつに対する、これといった感情を伴わない言葉ばかりだった。
田中氏が言うところによると、牧瀬奈々子が「強情ポニーテール」と呼ばれるようになったのは一年の梅雨を過ぎたあたりだった。理由を詳しくは知らないが、噂では言い寄ってきた男に対して自分の思うところを包み隠さず発言し「付き合おう」という提案を却下したからだとなっている、と言う。
しかしそれは事実ではないだろう。なぜなら彼女に近寄ってくる男性はゆかりんによる「選別」を受けなければならず、また、ゆかりん自身が「全て排除してきた」というのだから、牧瀬奈々子が男に対してそういった高圧的な態度を取ったというのは、ただの噂に過ぎないのだろう。
「どうしてそんな噂が? 彼女は否定していないわけ?」
「否定はしていないよ。というより、牧瀬さんはそういう変なあだ名で呼ばれていることに対して、知っているけど、どうとも思っていないんだよ、多分ね」
にこにこと表情を緩ませ、田中氏が言った。
彼は、牧瀬奈々子を良く見ている。そう思わせるに十分な発言に思われた。
「だからどんな噂が立とうと気にしないって?」僕との間にふしだらな噂が立つのは困ると言っていたが、それは私欲のための防御壁だから、また違う話になるのだろう。「田中氏はそう思っているわけか」
「うん」肩が気になるのか、またそちらに手を伸ばす。「まあ、牧瀬さんは俺のことなんて知りもしないだろうし、俺も別に何かを求めているわけじゃないんだよ。古屋敷のことがうらやましいなあと思わないでもないけど、俺がその立ち位置につけるとは思っていないし、渇望してるわけでもない」
「どうして?」
そこにはあらゆる意味を込めたつもりだった。
「さあね。そうなんだから、仕方ない。そう考えてるってだけの話だよ。俺、あんまり物事を深く考えるのって得意じゃないんだ。そこにある自分の心ってやつ? ただそれに素直に従っているだけだよ。野球を続けているのもそう。好きだなあって思うから、やってる。牧瀬さんを好きだなあと思う自分がいるから、そいつをそこに置いてる。好きだなあって思い続けてる。それだけさ。その先に何があるとか、どうしたいとか、そういうのって、別にそんなに重要じゃないだろ? 今それに対してどう思うかって言うのが一番大事なんだと、俺は思うなー」
駅について、彼は上り方面のホームに下りた。
手を振り、また明日な、と言った彼は、その後で痛むほうを上げてしまったことを後悔しているみたいに、肩を労わった。確かに、考えてないんだろうな、と少し笑えた。
そうして僕はぼんやりとその後姿を見ながら、唐突に、何か酷く大きな間違いを犯してしまっているような、そんな心苦しさを、今、初めて胸に浮かべた。それが何に対してか。誰に向けたものなのかは、判然としない。
帰宅して、兄からのひそやかな暴力を身体に受け、シャワーを浴び、ご飯を食べる。その後は自室にこもりきりで、家族と顔を合わせることはない。大抵の場合、兄も一度憂さ晴らしを済ませると、すっかり僕という生命の存在を忘れたかのように、部屋には訪れない。家族に露見する恐れを減らすためとも考えられるが、それよりはもっと純然たる理由からだろう。捕食する側というものは、基本的には捕食される者を気にしない。ただそれだけのことで、ありがたがるのも変な話だが、一度耐えればいいというのは、気楽なことだった。そしてそう考えたのち、兄は曲がりなりにも兄で、僕に存在価値を与えてくれる人物なのかもしれないと、諦めてしまいそうになる。行動として首を振り、そんな雑念を打ち消した。
兄に対して抵抗を行うという目的自体を改めたわけではない。むしろ揺るがなかったからこそ、僕は牧瀬奈々子に謝罪のメールを送った。この間の質問がぶしつけであったこと。今日の態度が良くなかったこと。それを、丁寧に謝る。
牧瀬奈々子からの返信は、
「仕方ないから許してやるよ」
そんなものだった。
彼女が返信に要した時間は僅か一分弱で、それに気がついたとき思わず息をついたが、その意味は自分でもわからなかったし、あえて考えてみようともしなかった。
強情ポニーテール。
そこに含まれた意味は、理由は。発端はなんだったのだろうか。
ただただ不器用なだけのような牧瀬奈々子のことを、頭に浮かべて、目を瞑る。
いつの間にか、眠りに落ちていた。
登校中にゆかりんの姿を見つけ、声を掛けてみた。彼女は最初イヤホンから駄々漏れの音楽の世界に没頭していて、僕の言葉に気が付かなかったようだ。少し躊躇いながら肩を叩いて注目を集めると、ようやくこちらを向いて、イヤホンを外す。
「やあ」
「おはよう」
「おはよん」ウォークマンにコードを巻きつけていく。「約束は守ったよ」
「ああ」少し迷ったが、「ありがとう」
そう言うと、ゆかりんはにんまりと顔をほころばせた。
僕は慌てて手を振る。
「そういう意味じゃない」
「ま、いいよいいよ」
「牧瀬さんは、一緒じゃないのか」
「奈々ちゃんは今日風邪だよ。休むってさ」昨日のあれは、体調不良からだったのだろうか。「しかし結局未だに牧瀬さん、だね」
呼び名はあとで決めよう、と言ったきりその話題が出ることはなかった。
「今はこれで良いよ。無理に変えたってさ。まだ付き合って一月と経っていないんだから、近すぎても変な話だろ」
「高校生なんてそんなもんだよ。一瞬を永遠だと思って、熱しやすくて冷めやすい。儚いよね。愛ってそうやって組み立てて壊して、また組み立てて壊してって繰り返さないとちゃんとした作り方を学べないようなものなのかね」
「どうかな」苦笑が漏れた。「わからないよ」
「で、何か用があった?」
ゆかりんはこちらを見ないままに言った。
「歩いていたら見かけたから声を掛けただけだよ。そんなに毎回、牧瀬さんは関係ない」田中氏の言い回しを真似してみる。「結局聞いてしまったけどね」
「そう」あ、と付け加える。「奈々ちゃんにお見舞いは要らないから」
「どうして?」
「彼女、自分の家に人を上げるの嫌いなんだよ。後は察してくれると嬉しいな」
無言の間を持つ。
「わかった」それだけ言った。「行かないよ」
ふうん、と言ってゆかりんは笑う。
「シメジン、なんか良くなったよ」
「そうか」僕も小さく笑った。「でも、正直よくはわかってない。まだいろいろな考えがぐるぐる渦巻いている状態なんだよ。ひとつ言えるのは、何をするにしても、牧瀬さんをないがしろにするのは違うな、と、それに気が付いた」
「それだけでも成長したよ。ま、まだ食べ頃には早いけどね」
そうして学校に着く。ゆかりんとは下駄箱で別れた。
教室に入って、違和感を覚えた。田中氏と目が合うが、すぐに外される。
僕の机の上には、一通の手紙が置いてあった。手紙というには酷く雑な、汚い文字で書かれた内容を読み下し、周囲に視線をめぐらせる。
ごめん、と言って田中氏に声を掛ける。彼は控えめに「ん?」と答えてくれた。
「誰が持ってきたかは良いんだ。この、書かれている場所に向かうからさ」ただ、と続ける。「これって所謂、果たし状ってやつと思っていいのかな?」
そして手紙を、田中氏に見せる。
そこに書かれているのは、以下のようなものだった。
「牧瀬奈々子と交際していると聞いた。許すまじ。屋上にて待つ」




