六
それから実に一週間、音沙汰がなかった。
牧瀬奈々子当人からの連絡や接触は一切なく、取り巻きのゆかりんからも同様に、何も情報を与えてはくれなかった。もしかするとこれきりで関係が解消されるのかもしれないと考え、もしそうならばそれはそれで僕に構うところはひとつもないか、と思い直した。兄や、家族や、クラスメイトに抵抗を示すのに、何も必ず牧瀬奈々子を利用しなければならないというわけではないし、それにしか頭が行かないほど僕も馬鹿ではなかった。そもそも旅に出るという名目を持っていたのだし、代替案はいくらでも考え付きそうなものだ。
その一週間のうちに、僕と牧瀬奈々子のたったそれだけの異変に気がついたのは、田中氏だけだった。
また刈ったのか、青い頭をこすりながら、牧瀬さんとはどうなっているんだ、と再三言葉を投げてくる。あるいはそれは、変調に気付いてではなく、ただ単純な彼の私欲のための好奇心を満たすものだったかもしれない。そんなことは知らないし、どうでもかったが、彼にとってはそうではないらしく、追求はしつこかった。極力煩わされたくない僕にとっては、それが問題である。
放課後、誰に声を掛けられるでもなく下駄箱まで移動をしたところで、後ろから駆けてくる足音が聞こえた。当然、僕に向かってくるものとは思っていなかったので、振り返りもしないでいると、
「おい」
と言って肩を取られた。
瞬間的に兄の顔が浮かんだが、そこにはくりくり坊主の田中氏が立っている。こわばった表情がどのような感情から来るものか、このとき僕はわからなかった。
また、いつものんべんだらりとした口調の彼が、このように厳めしい言葉を発することに、内心で驚いていた。
肩を振り彼の手を剥がすと、
「なに?」
言葉を返す。不敬のものには、それに応じた態度で接する。
「ちょっと来いよ」
再度肩を掴まれそうになり、上体を引くと、空振りを食った田中氏はあっけに取られたように自分の手を見つめた。あれ、という顔は、野球のときもそうなのだろう。
などと思いながら、
「断る」
言葉を返した。
「古屋敷、お前に断る権利なんてないんだよ」
「それをどうして君が決めるんだ」
「良いから、良いから来いって」
声を荒らげた田中氏に反応して、周囲の視線が集まった。
それを見回し、彼は余分なほど声を潜めた。
「頼むよ、野田さんが呼んでるんだよ」
野田さんとは誰か、と考え、それがゆかりんを示すことに気がついたとき、ではどうしてゆかりんと田中氏がつながっているのかという新たな疑問が浮かんだ。クラスメイトでもない彼らの間に関係があったとは、少々意外である。
しかしそこについて考えを深めていても答えは出ない。知りえないことは考えたってわからない。周囲の視線もそろそろ身体に痛く、ひとまずは田中氏に従う形を取る。
C組の教室内には、ゆかりん以外にもちらほらと生徒がいた。田中氏もそうだが、今日はどうやら部活動が一切休止らしく、普段持たない放課後の時間をどう扱うか、それぞれ手をこまねいているような様子だった。部活動になど関わってこなかったからか、そんな情報は頭から排除していた。
田中氏はゆかりんに近づくと、何かを受け取り、
「これは……、結構なものを」ゆかりんに対し数度頭を下げ、こちらに向き直ると、「お、悪いなあ、古屋敷ー」
すっかり僕の存在など忘れていたかのようにそう言って、にこにこ顔でそそくさとその場を後にする。
どうやら関係も何もなく、ただの買収だったらしい。何をもらったのかも、予想がつく。あのご執心振りからして、そしてゆかりんの手から出るものといえば、大方、牧瀬奈々子に関連したものだろう。
周囲の人間は僕たちの様子には無関心だった。もはや違うクラスの僕や田中氏が出入りしたことすら気付いていないような、それくらい、何かに夢中になったように話している。薬の売買などもこのように、群集に紛れて行われているのかもしれない。
ゆかりんを見ると微笑みをくれた。
「奈々ちゃんはもてるんだってば」
聞いてもいないことを説明してくれる。
「そう」興味なさそうに答えてから、振り返り、「で、わざわざ田中くんを使ってまで僕を呼んだ理由は?」
ゆかりんは何度か頷いてから、
「理由はいくつかある」人差し指を立てると、「ひとつは、先に帰した奈々ちゃんと下駄箱で遭遇しないため。普段一緒に帰っているはずの私が、今日に限って用があると言って残っているのに、その後シメジンと一緒に歩いているのを見たら、いくらシメジンに興味がないようにしている奈々ちゃんでも何も思わないってことはないでしょ? だから時間をずらすために一度教室まで戻ってもらった」
「どうだか。多分彼女は何も思わないと思うけど」
「それから二つ」今度は中指を立てる。「一年生の頃から奈々ちゃんに対して淡い恋をしている哀れな田中氏への、慈悲」
「ああそう、慈悲ね」ものは言い様である。「何を渡したわけ」
「それはシメジンには関係ないよ。いや、知らないほうが良いと言ってもいい」不敵に笑いながら、三本目を立てる。「そして最後の三つ目。奈々ちゃんと時間をずらし、田中氏に報酬まで与える。そんな手間を掛けてまで、私はシメジンと話をしたかった。それもメールや電話の履歴を残さず、ね」
周囲に視線を巡らすが、確かにここにいる人たちの記憶の履歴には、残らないだろう。ざわざわと騒がしいと、却ってひとつのことには意識が集中しにくい。普段部活動に勤しんでいるこの貴重な空白の時間を、彼らはどう使うか考えることに熱中している。
久々のゆかりんは、当たり前だが、相変わらずのボブカットに、例の赤い縁の伊達眼鏡を掛けている。
僕が質問を繰り出すより先に、それをくいと持ち上げ、
「つまりどういうことか」彼女は言い、「今日は私とデートしよう」
その先にある目を、ぐっと細める。
一方で言われた僕はその意味が解せず、
「デート?」
馬鹿のように鸚鵡返しで聞いた。
「イエス、デート。なんとシメジンを我が家に招待するよ」微笑みのまま返される。「と言っても当然私とシメジンの間でやらしいことはなしだぜ。お紅茶でも飲みながら、それでも話題だけはリッチにエッチなお話をしようよ」
「お話?」そのいかにも胡散臭そうな提案に、怪訝な顔が出てくるのを抑えられない。「することなんか、ないけど。ましてやリッチもエッチも僕には無縁のものだよ」
「何言ってるんだよ、エッチな話なんて冗談に決まってるだろー、このむっつりドスケベマンめ!」今日もゆかりんは一人楽しそうだ。「にっちもさっちも行かないでしょうよ生きてたら。話したいことくらいこれでもかといろいろあるだろ。ねえ? そりゃあもう、いろいろと」
ボブカットを揺らす。
その頭で彼女が何を考えているのか、僕には理解できそうにもなかったが、それだけでなく、どうにも断らせてくれそうな気配も、度胸も、ここにはなかった。
学校の最寄り駅から、上り方面のホームに下りる。僕の家は下り側にあるので、普段使用しないホームだ。こちら側は自販機なども充実していて、うらやましくも思う。ゆかりんはアイスを買って、それを舐めていた。これから電車に乗り込むというのに、マナーのない人だなと思い、しかし彼女ならば、どこか仕方ないとも感じられた。もちろん、諦めでしかない。
揺られることおよそ十五分。降りたことのない駅で降り、北口と南口があるうち、北口のほうへ出る。ロータリーには暇そうなタクシーが何台かと、こうした学生の迎えなのか、運転席で親御さんと思われる女性が携帯電話をいじっているのが目に付いた。
ロータリーから延びた商店街を抜け、閑静な住宅街へと進んでいく。ポニーテールの女学生の姿は見えない。ずれたとしても三十分程度だが、彼女は寄り道もせずに帰宅したのだろうか。
歩きながら話していたのは、主にゆかりんだけで、それも映画の話ばかりでついていけなかった。家から離れるための口実に映画を観に行くことはよくあったが、特に詳しいというわけでもない。というより、ゆかりんがマニアックすぎるというのが、本質だろう。
途中、アパートの前で歩みを止めるので、僕は半歩先でそれに倣った。
「ここ、奈々ちゃんち」
言ってから、二階の角部屋を指差した。
僕が何を言うより先にまた歩みを再開するので、僕は少しそのアパートを眺めたあとに、
「ふうん」
とだけ言葉を置いた。
牧瀬奈々子の住まいから五分ほどさらに進んだところに、ゆかりんの家はあった。こちらは一般的な一軒家という趣で、玄関のすぐ横に犬小屋があり、そこから飛び出してきたゴールデンリトリバーに手厚い歓迎を受けた。
「こらこら落ち着けパナソニック」
ゆかりんがそう言って犬をたしなめる。
「パナソニック?」制服についた毛を払いながら、「って、あのパナソニック?」
質問をする。ゆかりんは家の鍵を差し込みながら、背中越しに、
「そうだよ。パナソニック」
「なんで?」扉を開き進んでいく彼女についていく。「犬にパナソニック?」
「なんでも良いじゃないの。気にするなよ」
「ああ」言いながら靴を脱いだ。「お邪魔します」
ゆかりんは玄関からすぐにある階段を上っていく。僕は妙に緊張し周囲に視線を巡らせながら後に続く。
ゆかりんの部屋は二階の最も奥に位置し、その内装はこれと言って女の子らしくもなく、また気になるほど味気ないわけでもなく、程よく整頓されていた。
「適当に座って」言いながらブレザーを脱ぐ。「今は家族は居ないよ」
先ほどの挙動不審への解答らしい。
「居ないのか? そんなところに邪魔して良いのか?」
「大丈夫でしょ。私たちの間にやらしいことは起きない」
「断言できるのか」
「私、多分シメジンよりは強いよ」
言い返すこともなく、ひとまずベッドの上に腰を落ち着けた。
一方ゆかりんは勉強机の回転椅子に座り、
「さて」一言置いてから、「単刀直入に話を済ませていこう」
「だから僕には何もない」
「私にはあるんだよ少年。とりあえずひとつ、聞いておきたいけど、あれから奈々ちゃんと一言でも話した?」
「いや」言って、頭を掻いた。「メールもしていない」
「そうか」
「なあ、僕は一体何を間違えたんだ?」
「その言い方、必死に見えるけど、シメジンはシメジンで奈々ちゃんにはなんと言う感情も向けていないんでしょ?」
ずばり、自分で考えていたようなことを言う。
「それはもちろん」
「ま、何でも良いけどさ。私から言えるのは、奈々ちゃんに対してポニーテールの話は厳禁ね」
やはり彼女は何か知っているらしい。
「どうして?」
「それを今ここで話したら元も子もないでしょうよ。奈々ちゃんが触れるまで、その話題は絶対に禁止。これは奈々ちゃんと関係を続けるなら原則。わかった?」
「いや、続けなくても良いんだけど」
「またそうやって……。じゃあもういいよ」
「何が良いんだ」
「私もね、参謀だなんだと言うからには何もしていないわけじゃない。はっきり聞くよ。君のお兄さん、今、水泳やってないよね。足を痛めたとか何だとかで結局強化合宿も途中で辞退してる。大学でも水泳はやってない。これ、君のせいなの?」
「……どうして僕のせいだと思うわけ?」
「君が、お兄さんに対して余所余所しいからだよ。意見が客観的過ぎる。いや、私に兄弟が居ないからわからないだけなのかもしれないけど。それにしたって、奈々ちゃんのことを、婉曲な進め方が好きらしいからねなんて言って、変な手伝い方をするのは不自然すぎる。君の目的ってそこなんだろ? 君を挟んでから奈々ちゃんをお兄さんとつなげるのは、意味があることなんだろ?」
「どう思う?」
「君はお兄さんに対して負い目があるんだ。だからよりお兄さん好みの奈々ちゃんに仕上げて、それから渡そうとしている」
ああ、残念だ、参謀。
小さく首を振る。
しかしゆかりんは、一転して笑い声を立てた。
「と、言う風に見せようとしているのかどうかは知らない。だけどそうじゃない。でしょ? 参謀舐めないで頂戴よ。調査は抜かりなくやったよ。お兄さんが足を痛めたのは、ただの交通事故。それも自分が車に乗った状態だった。浮かれてたんだかなんだか知らないけど、友人と同乗した状態で、壁にボカン。君は事故には関係がない。そんなことは調べりゃ出てくる情報なんだよ。君はその点に関して何も負い目なんか持ってない。長い付き合いならばひとつや二つ何かあるのかもしれないが、少なからず君はお兄さんから暴力を受ける立場にある。この間の電話のときがそうだった。じゃあ何か。君は奈々ちゃんを利用し、お兄さんに対し何かを仕掛けようとしている。そういうことなんだろ?」
僕は何も返さなかった。
ただ、ゆかりんの目をじっと見つめる。
「ま、実際がどうかなんてことは私には関係がない。ただ、奈々ちゃんの幸せのために、君には協力していてもらわないと困るんだよ。このままシメジンと奈々ちゃんの関係が切れたままで、奈々ちゃんがお兄さんにつながらないのは、私が困る」
「なぜ困るんだ?」
ゆかりんは逡巡の間も持たず、はっきりとこう言った。
「私は君と奈々ちゃんがくっつけばいいと思っている」
それが、僕には理解できず、彼女の頭の中の思考で、吐きそうになった。
しかし構うそぶりもない。
「最初に話を聞いたとき、私は、妙な始まり方だけど、それで結果的に奈々ちゃんのお望みどおりお兄さんと付き合えるなら、まあいいかと思った。ところがどうだろう。喫茶店に場を移してからの君のいい振りは、どこか違和感を覚えるようなものだ。これは、お兄さんに対して何か思うところがあるのだろうと推察するに難くない。それにそもそも、私は奈々ちゃんに寄ってくる男を選別している身だと言ったよね。あくまでも、私がよしとしたのは君なんだよ。一度は奈々ちゃんにお兄さんとつながってもらって、そこで君の良さに気付いて、君に戻ってくれれば、それが一番いいと私は思っている。今の夢見た状態じゃ、君に真剣になってくれそうもない」
言いたいことを言い終えると、ゆかりんは遅ればせながらと言い添えて缶コーヒーを出してくれたが、僕はそれを開けもせず、場を辞した。
ゆかりんさえも巻き込んだのは、失敗かもしれない。
電車を待つ間、ゆかりんからメールが来る。
「今日の話はお互い内密に。奈々ちゃんのことは私に任せて。三日以内にはまた関係が戻せるよう善処する」
返事はしなかった。




