五
最寄り駅について、家路を歩く。
普通、という言い方が正しいかどうかはわからないが、恋人同士であればデートのすぐあとでもメールをやり取りし、今日の出来栄えと言おうか、感想などを言い合うのだろうが、そういったことは一切なかった。牧瀬奈々子からの着信も、僕からの発信もなく、また、それに対して恐らくお互いに何も思わない。当たり前のことだ。
玄関を抜け、リビングに入る。キッチンのほうから沸騰音が聞こえる。母が夕飯の支度をしているらしい。兄の姿はなかった。
母は僕の帰宅に関して、何も言葉を掛けない。同じ家に住み、料理や弁当はこしらえてくれるが、会話は生まれない。彼女にとって僕は必要のないおまけのような存在で、言わば兄の「ついで」だった。
兄は幼い頃から水泳に励んでいた、というわけではない。むしろ牧瀬奈々子に対し「興味がない」とまで言った僕のほうが、水泳を始めたのは先だった。突出せずともそれなりに記録を伸ばしていく僕を見て、彼の強欲さゆえ、後出しで習ってみたらそれが思いのほかうまく行って、果てには強化選手となってしまった、だけの話である。兄は相当にご満悦そうだった。
全てにおいて優れている人間というのは存在しないが、兄は器用な人間で、大抵のことはそつなくこなせる。これがこと水泳においては、才覚があったと言う話に尽きる。今でこそ水泳からは離れてしまったが、彼の存在は輝かしいものだったと、話には聞いている。
兄が飛躍的に実績を残していくのを尻目に、期待されず、比較され、あまつさえ蔑まれよう立場に追い込まれた僕は、中学一年まで実に五年続けた水泳を、すっぱり諦めた。そのとき、水泳に真剣になりながらも、背中を見せ羨ましそうにそちらを見ていた僕のことを嘲笑した兄の顔は、今でも鮮明に覚えている。
昔から何をやっても勝てなかった。いや、兄のほうが、僕に負けることを自分に許さなかった結果だろう。
彼はどんな些末なことにおいても、僕より頭ひとつ抜き出ていないと気が済まないらしく、僕の手が伸びたものは全てに着手し、惜しみない努力で僕を蹴散らした。それは「兄は弟の前に居なければならない」という使命感からくるものというよりは、ただ単純に、僕という人間から何をも奪っていくことに快感を得ていると、そういう次元の話である。
きっとそれは乳幼児の僕が、彼から母を奪ったからという、至極稚拙な思考が根付いた結果なのだと思う。
母や父は、僕のことをぞんざいには扱わない。そこにいるものとして、目で見て、耳で聞き、存在を認識してはいる。ただ、優れた兄に対し、続けた水泳でさえ諦め、どんどんと内にこもっていく僕のことは、構おうともしない。
また一方で、兄は僕以外の人間に対しては酷く「良い人間」を演じているため、兄弟の確執は、家族でさえ把握していないのだと思われる。否、それは、そうであってほしいという、願望だろう。でなければ、僕は何を支えに立っていれば良いのか、わからなくなる。
自室に篭もり、ベッドに寝転がる。
思考はとめどなく続いていく。
前述したようなそういう意味で、牧瀬奈々子はいずれ兄のものになるだろうと言う核心があった。
彼は僕のものを全て奪わないと気に食わないのだ。弟に持てるものは当然自分にも持てる。そうならば、自分が持つほうがより良いに決まっている。そして自分の持っていたものを奪われた弟の悔しそうな顔の愉快さ。そのためならば何をも厭わない。と、そういう考えなのだと、僕は思っている。
だが、それで良い。
今この十七歳を迎えるまで、僕は兄から「人間」を奪われたことは一度もない。水泳や、本当に些細なことを言えばお菓子だとか、そういう質量を持たない分野ないし感情を持たない物体しか、奪われたことがない。
これが人間となると、思想や、理念、性癖というものが絡んでくるようになる。前に言ったように強情と強欲がぶつかるよう仕向ければ、あるいはどちらもが破滅するかもしれない。
牧瀬奈々子に関しては気の毒な気がしないでもないが、そんなことはもはやどうでも良かった。一時でさえ、憧れの兄の恋人になれれば、彼女も満足だろう。彼女が「利用する」と明言した以上、僕にも彼女を利用する権利はあってしかるべきだ。
階段を上ってくる音で、思考が中断した。
二階には僕と兄の部屋と、両親の寝室しかない。父はまだ帰るには早く、母は話しかけにわざわざ来ない。
ノックもなく開いた扉の向こうに、兄がいる。不機嫌そうな顔を隠しもせず、
「おい」
と言って部屋に入ってくる。
僕は何も言わず、半身を起こすとベッドから彼を見上げた。
すかさず、腹に蹴りが飛んでくる。起こしたばかりの上半身がまたベッドに叩きつけられ、大きな音で軋む。
胸倉を掴まれると、二三度左右に引っ張られたあと、頭突きを食らった。
抵抗はしない。すればするだけ、彼が逆上し、これが長くなるだけだ。
「おい、お前」
兄の中で、僕に固有名詞はない。僕は彼を引き立てるためだけに生まれ、彼の自尊心を満足させるためだけに生き続けている。あらゆるしがらみに取り付かれたまま、逃げもせず、隠れもせず、でくの坊の如くそこに立ち、彼を充足させる。
そんな虫けらのような存在に、彼は名前をつけない。
古い不良のようだが、彼も考えなしではなく、顔は殴らなかった。肩と脇腹に二発ずつ拳を頂戴する。
携帯電話が鳴った。僕のものだ。
もちろん出ることは許されず、しかしその間彼は動きを止めていた。
鳴り止むが、もう一度鳴る。
兄は舌打ちをすると部屋を出て行った。僕は深呼吸を緩慢に三度行い、それから通話ボタンを押した。
「ようようへいへい、シメジン、どうだった?」
思わず、苦笑が漏れる。
ゆかりんからだった。
「どうもないよ」声が震えるのを悟られないよう、返事は短く済ませる。「別に」
「なんだなんだオーイ! 良かったでしょあの映画」彼女の高いテンションにも、僅か二日ほどで慣れてしまう。「特にさー、主人公のおじいちゃんとヒロインの女の人が風呂場で裸で鉢合わせるとこ! 最高だよね、必要なさ過ぎて!」
「そうだね」
「元気ねえなあ!」
黙っていればゆかりんも可愛い部類に入るのだろうと、思わないでもないが、これではなかなか人を選ぶだろうなと感じる。
「なくはないよ」
「嘘吐け。ばればれだよ」
だから、不意にトーンの落ちたその声音は、背筋をぞっとさせるような威力があった。
僕はベッドの上で居住まいを正した。
「古屋敷くん、演技下手糞だね」トン、と置くように彼女は言った。「見え見えすぎて構ってほしそうにしているのがありありわかる」
「別に。そんなんじゃないよ」
「深入りはしないよ。何があろうと私には関係がない。ただ、うまくやれよ」
きっと今ゆかりんは無表情で電話を構えているのだろうと思わせる程度の、冷たい、言い草だ。
「うまく?」
「奈々ちゃんのことだよ」
「やるよ」
「期待してるぜ」と言ってから、また嘘のような甲高い声で、「よっろしくー」
「なあ」殴られた肩をぐるぐるとなじませながら、「君は、何を望んでいるんだ」
「私が? 何か望んでいるように見える?」
「見えるよ」空元気を見せる。「電話越しだけどね」
「シメジン、私が望んでいるのは君と奈々ちゃんがひとまず恋人同士としてうまくいくことだけだよ」
「それは、最終的に牧瀬さんと兄がくっつくように、だよね」
聞いてみたが、
「私が願っているのは奈々ちゃんの幸せ、ただそれだけだから」言い捨てられ、「ま、今はタイミングがよくなかったようだ。あとでメールするよー」
一方的に通話を切られた。
吐き気がした。
部屋を抜けて、シャワーを浴びる。痣にはなっていない。熱いシャワーを頭から浴びて、雑念を洗い流す。
考えることは一点だけで良い。
兄に、両親に、クラスメイトに、僕という存在を、意思を、見せ付ける。それだけだ。
食卓では、兄は外向きの顔をする。肉じゃがを口に放り、友人の話をしている。母はそれを聞きながら楽しそうに返事をし、父はまるで一人きりで食事をしているかのようにテレビのほうを向いたまま家族に視線を合わせない。僕は食欲が湧かず、まだひとつも箸をつけていなかった。
無為。無為。無為。
目を閉じ、世界を遮断する。
翌日曜日は一人で図書館へ向かった。入り口からすぐの本棚の一番上から順に下り、それが終わると次の棚へ移動し、同じことをする。タイトルだけをただひたすら眺めていく。時間が潰れれば何でも良かった。
昨日のあのあとも今日今現在までも、牧瀬奈々子およびゆかりんから、連絡はなかった。
ただ閉館時間までをここで過ごす。
月曜日にはどうしてか、前の席の田中氏が、僕と牧瀬奈々子が映画を観に行ったことを知っていた。
「いいなー、映画かー」
くりくり坊主の下、目を細め、鼻の下を伸ばして、胡散臭そうな視線を寄越してくる。
「別に、良いものでもないよ」
言うと、田中氏は表情を歪ませ、
「かーっ、よく言うぜー」声を荒げた。「牧瀬さんと映画だろー? 映画だよ、牧瀬さんと」
「うん、だから、それが、別に良いものではなかったと」
「かっかーっ!」
田中氏はそれきり前に向き直り、声を掛けても無視された。彼はそこまで牧瀬奈々子に思うところがあったのだろうか。実際、これと言って良いものではなかったのだから、僕は間違っていない。
放課後になるとゆかりんが僕の席までやってきた。クラスメイトは男女問わず大して親しくない僕だから、こうして女子生徒が机の前まで迎えにくる、というのが彼らには奇異に見えたらしい。周囲の何人かがどよめいた。
ゆかりんは全くそんなことを気にした風でもなく、
「おらおら帰るぜー。サテン行くぜサテン!」
土曜日の会話などまるでなかったかのような、いつもどおりの調子だった。
半ば無理やり立たされるような形で彼女についていく。廊下には牧瀬奈々子も居た。三人で並んで歩きながら、主に彼女らの会話を聞く形で、下駄箱まで移動する。クラスの違う僕だけ別の列で靴を履き替え、また合流して校門を抜ける。
思えば不思議な関係である。僕と兄、兄と牧瀬奈々子がそれぞれつながっているのはわかる。それが、僕の手違いとも言えよう思い出作りのせいで、僕と兄と牧瀬奈々子が一本の線になった。そしてそこに牧瀬奈々子の友人であるゆかりんが加わったわけだが、彼女の立ち位置は不鮮明である。自身では「参謀がいい」と言っているが、どこまでが本気かわからない。ゆかりんはただ楽しそうだからというだけの理由で参加したのだろうか。それとも何か、考えがあるのだろうか。電話でのやり取りでは結局判然としなかった。
喫茶店に着いて、各々好きなものを頼む。この喫茶店の存在は以前から知っていたが、入ったのはこの間が初めてだった。一人で入るには少々レベルが高い。
「ゆかりん、結局あの映画は何が言いたい話だったの?」
「奈々ちゃんあれだよ。芸術になぜとかどうしては愚問だよ」
「でもなんかあるんじゃないの?」
「あの監督、前のもあんな感じだったよー。中身なし」
「ゆかりんファンなんだ……」
そんな二人の会話を聞きながら、しかしどうして僕はのこのこと付いてきたのだろうかと思う。
それはもちろん、最終目的に近づくために他ならないのだが、このような、他愛もない話はそこに必要ない。茶を飲みながら映画の感想を言い合って、それで牧瀬奈々子は爆弾へと変化するのか。否、しないだろう。彼女には兄のことを好いていてもらわないと、いや、もっと好いてもらわないと困る。兄のことが大好きで大好きで仕方なく、彼を自分のものにして尚、より深化していってもらわなければならない。
そして兄には兄で、僕と牧瀬奈々子の様子に嫉妬してもらわねばならない。
「やっぱりマトリックスは凄かったなあと思うよ」ゆかりんが腕を組みながらうんうんと唸る。「あれ、もう十六年も前なんだよ?」
「マトリックス?」しかし牧瀬奈々子はそれを知らないようだった。「十六年前とか私、一歳」
「それを言ったら私もそうだけどね!」
それを聞きながら、思いついたことを言う。
「なあ、牧瀬さんって、いつからポニーテールなんだ?」
「ああ?」ゆかりんがぐるりと目を回しこちらを見た。「あんだって?」
「園児のときからだけど、それが?」
「十六年あればさ、兄弟が姉妹になっていたりするんだよ。いろいろあってね」意味を理解したのはゆかりんだけだった。「それが、同じくらいの年月を経て尚、牧瀬さんはポニーテールのまま。流行りもあるだろうし、もっとほかにもいろいろあると思うんだ、十何年の間には。牧瀬さんはどうしてポニーテールにこだわっているんだ」
「それ」と言って、牧瀬奈々子は僕をじっと見た。睨んだ、が正確かもしれない。「教えて何か意味があるわけ?」
もしそれを聞ければ、僕と牧瀬奈々子の客観的親密度はぐっと高まると、そう思ったのだ。
だがそれは浅墓極まり、彼女の目を見ているうちに僕は何も言えなくなり、彼女もまた、それ以降何も言わなかった。
「おいおい会話しようぜー、お二人さん。これからだよねー、これからだと私思うんだけどなー」
ゆかりんが忙しなく僕たちの間に視線を行き来させている。
ゆかりんは、何か知っているのだろう。直感だが、彼女たちの付き合いならばあり得て当然のことだ。
「帰る」
牧瀬奈々子はバッグを取ると立ち上がり、振り返りもせず喫茶店を出て行った。
ゆかりんは財布から千円札を一枚机に置くと、
「悪いけど私も帰るね。予め言っておかなかった私のミスだ。そのことには触れちゃ駄目だった。ごめんね。ごめん、帰るね」
そうして牧瀬奈々子の名を呼びながら、ゆかりんも店から去った。
人間には不可侵の領域があると、自分の境遇から、わかっているはずだった。ただそれは、他人の目からわかるように存在はせず、こうして足を踏み入れてしまうことはままある。
言い方のせいか、論点自体なのかはわからない。
ただ、失敗した。
それだけは十分に理解した。
喫茶店で一人、コーヒーを啜る。苦い。




