二
予鈴が鳴った。もうすぐ昼休みが終わる。
いい加減に堅苦しいほどの握手を解くと、牧瀬奈々子は打って変わってあからさまに嫌悪感を剥き出し、
「仕方がないからコニシキくんの連絡先を聞いてあげます」
そう言った。
一体この変貌振りはなんだろうかと考えてみたが、恐らくは授業それ自体が嫌なだけだろうと思うことで、不安感を拭う。あるいは、手が痛かったか。そちらの方が気分がいいが、ともかく、好きな相手の弟だからと言って好きになるわけでもないのだし、にこやかにされても気味が悪い。そもそも期待もないが。
「とりあえず、コヤシキですので」
電話番号を口頭で伝え、一度鳴らしてもらう。時間の都合、メールアドレスはのちほどCメールで送るという話になった。
やっと解放される、と思ったが、これからのほうがもっと長い呪縛になるだろうと考え、陰鬱に陥る。扉を開け、牧瀬奈々子が来るのを待ったが、彼女は教室内から動こうとしなかった。
「早く行かないと間に合わないですけど」
「一緒に出るわけないじゃない。変な噂立ったら困るし」
「変な噂って……、名目上は彼氏彼女でしょう」
「それでも、淫行に及んでいたと思われる可能性はぜひとも排除したい。そういう意味です」
ああ、と呟いて、彼女を残し教室に戻る。
A組の教室内は喧騒にあって、僕の帰りに気付くものはいない。いやいたのかもしれないが、少なからず気にしたような素振りは誰にも見えない。大人しく、するすると間を縫って、窓際最後尾に宛がわれた自分の机へ落ち着く。
「話はする」と、クラスメイトに関してそう述べたが、それは本当に最低限に留まる。友人が、友人らしく、友人たちと交わすような、そういう会話はない。ドラマや漫画、音楽やファッションなど、流行を全く通らないわけではないし、話を振られれば答えられる程度の知識は持っている。だが、それを相手が求めてこない。そうならば、こちらから近づくのも違うかな、と考えてしまうのが、僕の性根の部分である。
大抵の人間関係は、需要と供給が根底にある。ギブアンドテイクと言ってもよかろう。何かを求めてくる相手に対し、それを与える。だから、こちらの求めているものを相手も与えてくれる。そういう因果がなければ、基本的には形成されない。与えるものが手元にあっても、求められなければ持ち腐れに終わる。
牧瀬奈々子の場合、僕に対する供給は一切ない。彼女との関係は、不一致な利害関係と言ったところか。彼女には利益しかなく、僕には損害しかない。これでいて、我ながら「名目上は彼氏彼女」などとよく言えたものだ。反吐が出る。
次の授業は数学だった。
数学はいい。他人を慮る必要がない。厳然と、ただそこに答えがある。
ある意味、牧瀬奈々子の強情さもそうと言えたが、同列に並べるには数学に申し訳が立たない。牧瀬奈々子はもっと悪質で、当たり前だが人間臭く、不条理だと知ったからだ。
ポニーテールを抜きにして、牧瀬奈々子の特徴を上げるならば、その目にある。くりくりと純真そうに大きな瞳は、見るものを造作もなく飲み込む。他人の目をまともに見れない性分で良かったと、そう思う程度には彼女は強者だ。
一見して、僕と牧瀬奈々子が並び歩いているのは、不釣り合いも甚だしいだろう。彼女曰く「陰湿クソシメジ」と、当人の耳に入るも憚らない「強情ポニーテール」。文字列だけで凶悪な主従関係を連想させる。事実、ほとんどそうでもある。
果たしてこの上辺の交際関係を白日のもとに晒すかどうかは、彼女次第の話だ。全く関わりもなく、名前すら正確に認知されていなかった人間が、強情ポニーテールと名高い女子生徒とカップルになったとなれば受けたくもない質問攻めを受けることになりそうだ。一般的に見て、高校生はこのような事情に精通したがる。
恐らく牧瀬奈々子はそれを良しとしない。何せ彼女にとって僕はあくまでも利用すべき通過点であって、最終目標は僕の兄に当たるからだ。ここで余りに僕たちの関係が露見するようならば、次の一手を打ちづらく、自ら首を絞めていくことになりかねない。すなわち、これは秘密の関係になると予想される。
秘密の関係と言えば少々甘美な印象だが、実際はそんなものではないことは、すでに重々承知されることだろう。
思考を遊ばせていると、ポケットで携帯電話がバイブレーションを起こす。牧瀬奈々子からのCメールだった。
そこに書かれたメールアドレスに、空メールを送る。どんな文面をつけるほどの間柄か、良くわからなかった。
返信は、怒ったような顔文字がひとつ。退屈なのだろう。そのままにしておく。
窓外に視線を向けると、空は青く澄み渡り、雲は自由気ままに広がり、泳いでいる。太陽は自己主張が強く、建物が地に影を落とす。多分、太陽に対し、建物は顔を背けていることだろう。眩しいものを、人は直視したがらない。
旅に出る。
それは何も抵抗からだけではない。もちろん、今までの人生のうちで、自らを主張せず、出される指示に対してはそれが悪手とわかっていようと頷いて従ってきた自分の、初めての反抗であるというのは、目的の大部分を占めるところではある。
ただそれとは別に、もっと純粋に、茫漠とした支配やせめぎ合う感情からの解放の意味も、そこにはあった。
広い台地をこの足で歩き、見たこともない景色を見、感じたことのない情念を抱き、体内を浄化するに相応しい澄んだ空気を吸い、何もかもをリセットさせたかった。
どちらにせよ結局、それらは他人の思惑という掌に丸め込まれてしまう程度の心情だった。
だから僕には個性がなく、意思がなく、自分というものさえ把握できず、当たり障りのない程度の人間関係と、流されるだけの人格だけしか形成されなかった。つまり、一人前を気取ることさえ出来ずに、燻っているわけでもない、ただの路傍の石だ。どんなに自分の中ではこれと思えることであっても、他人から見ればどうということもない些末な思考に過ぎず、意味も価値も認められない。
払拭したいはずの自分という無個性な個性が、強情ポニーテールという強烈な個性に潰されていく。
と、考えること自体が、全て言い訳であり、僕という個人を如実に表している。
実際的に旅に出る意思が本当にあったのかどうかすら、怪しいところだ。人間の心中は、当人にこそ不鮮明になる。
チャイムが鳴った。
数学の時間というのに、豪く人の、自分自身の心を探った時間だった。やはり、厳然たる答えは眼前には現れなかった。
今日の午後はこれきりで授業は終わり、ホームルームを済ませると早々に教室を抜けた。運動部はスポーツバッグを激しく揺らしながらグラウンドへ駆け、文化部はお花畑を歩くようなステップで部室へ移動し、無所属たちはお菓子を広げて乱痴気騒ぎでも始めるように声を大にする。全てを尻目に下駄箱へ向かう。
校門を抜けるかというところで、ポニーテールが見えた。まさしく牧瀬奈々子その人である。友人と談笑しながら駅までの道を歩いている。
後れ毛が見える。意外とだらしないポニーテールだった。
もちろん、つまるところなんでもない関係の僕は、牧瀬奈々子をやり過ごそうとした。
が、思いもよらず、
「コニシキー」
声が掛かる。
しかしそれは本来どころか全く持って僕とは縁もゆかりもない苗字である。ので、当たり前に振り返らない。
「おーい、シメジー」
身体が反応を示す。後方で、シメジって? と牧瀬奈々子とは別の声が言う。
「彼の名前。陰湿クソシメジくん」
「やだ奈々ちゃん」と言いつつ、漏れ出す吐息は所謂笑いによるものに思われる。「失礼」
「いいんだよ」まさしく強情ポニーテールは強行する。「彼は陰湿クソシメジであってるし、失礼にはならないんだ」
「どうして?」会話を背中に感じながら、しかし歩みを止めない。「友達?」
「ううん、私、彼に告白されたんだ、今日。しかもなんとオッケーしたんだよ」
「ええ?」
という声を友人の少女が上げるのと同時に、ついに振り向いてしまった。
こんな簡単に漏らすのか。
「ちょっと牧瀬さん」
来た道を数歩戻り、牧瀬奈々子の前に立つ。
「何かしら、ブナシメジくん」
ぶ、ぶな……、と少女が吹き出す。
「話があります」
「昼休みに聞いたよ?」
「今発生した問題に関する話です」
「問題が? 発生した? 私にはわからなかったなあ」
「じゃあひとつお伺いさせてください。牧瀬さん、僕との関係をどうしたいんですか?」
「どうって?」本心から良くわからないといった顔をする。「何が?」
抵抗感があったが、僕は彼女の露出された耳元に顔を近づけ、
「君は僕の兄に用があるんだろ? こんな簡単に関係をばらして、近づきにくくなるだろうが。それに変な噂が立つと困るといったのは君じゃないか」
「噂は困るよ」あっけらかんと答える。「でも自分から口にするのは、噂じゃなくて真実でしょ? 事実私はシメジくんに告白されたし、それにオッケーもしたよ。何か間違いが?」
「いや、それは間違いじゃないが……」顔を離す。「問題にはならないんですか?」
ようとして掴めない女だ。
「問題ないね。説明すべき?」
「御高説を承りたい」
また例のように指を立てると、ふふんと鼻息を漏らす。
ポニーテールというより、ポニーそのもののようだ。
「まずひとつ。再三言ってのとおり、私は変な噂を立てられること自体は困る。例えばシメジくんとふしだらな関係にあって、非常に淫乱な女だとか、つまり場所も人目も憚らないようなクソビッチだと思われることは、大変遺憾で、困る。だが、ちゃんと説明したとおり私は好きでもない男とはキスもしない。それを、シメジくんのみならず周知のものにしておきたい。私とシメジくんは交際関係にあるが、その実潔癖であるとわからせておきたい。こうしておくことで、今後シメジくんの家、つまり真の目的であるお兄さんの家に出入りしたとしても、みょうちきりんなことを言われずに済む。家に遊びに行こうと、私は純情そのものであり、決して淫行には及んでいないと、胸を張って言えるように、常にありのままを周囲には話す」
わかるようなわからないような話だ。
少なからずこれを今声高に宣言することで、隣にいる「ぶな……」と言いながら時折こちらの頭を指差して笑っている友人には、変な疑いを持たれずに済むだろう。
「そしてこちらが気がかりなのだろうと思うけど、私とシメジくんの関係、ここでは便宜的に恋人関係と言っておこう」やはりその言い方は極力したくないらしい。「それがお兄さんにまで伝わることは、まずありえない。だからこの学校内でどれだけ話が広まろうと、私にとってはまるで問題がなく、さっき言ったように却って動きやすくさえなる」
「ありえないと言い切れますか?」
「ふふふ」指を左右に振る。「君のお兄さんは水泳の強化選手だった。高校も大学も、水泳の強いところに通っていた、そうだね?」
「そうですね」
「しかしこの学校はどうよ、水泳部が存在しない! これがどういうことか、わかる? つまり水泳に興味のある人はここには来ない! つまり君のお兄さんの存在を知っている人間はいないと言っても過言ではない!」
「いや、でも」目に見えた穴をいくつかほじくる。「まず、僕は兄とまさしく血縁関係にありますが、水泳自体には興味ないです。同じようにして、兄弟が水泳をやっているけれど当人には興味がないというパターンがありえますよね。その場合、家ではもしかしたら話題には上っていて、ましてや古屋敷なんて珍しい苗字ですから、牧瀬さんのように記憶に残している可能性は十分にある。強情ポニーテールと評判のあなたとセットになった古屋敷は、まあまあ強いと思いますよ。それが同級生からその兄弟へ。その兄弟からうちの兄へ伝えられないとも限らない。いや、そんなことを言い出すと、僕が言った時点でアウトですけど、まあそれは度外視して構いません。言うつもりはありませんので。
第二に、水泳が全く関係のないところで、兄とつながりがある可能性もありますよね。僕自身に友人らしい友人は居ませんが、兄は交友関係の広い人ですから、たった三つ年下程度ならば、知り合いに含まれていると考えるのは、そう難いことではないかと思います。ということは、その人から直接兄へ、話が行く場合もあります。
次ですが、どうしてこの話が学内だけで留まるとお考えなんですか? こういう話は、興味のあるなしに関係なく、意外と波及していくものですけど。どうお考えですか?」
そこまで言って、目の前のポニーテールが混乱を顕に、目を白黒させているのに気が付いた。
ああ、こいつ、結構馬鹿だ。
何も考えていないやつだな。
そう思うのも、無理ないことだろう。
「声高に言うものだから、何人かにはすでに話が及んでいるようですね。指なんておったてて、注目の的もいいところですよ。隣の人も、ずっとケタケタ笑っているし」
強情ポニーテールは思考停止状態に陥った。
少し、反撃に成功し、すっとした気分だった。
だが頭の中では、仮に僕と牧瀬奈々子の交際関係の話が兄に到達したところで、何も問題などないのだろうなとも、考えていた。むしろ、そのほうが、牧瀬奈々子の望むような関係になれる可能性は、十分にあった。
兄は、僕を虐げることで自己を形成するタイプの人間だから。
そして彼こそが、今の僕を作ったと言って、過言ではなかろう。




