十九
純さんとのデートは楽しかった。映画も、ショッピングも、カラオケも、慣れた様子で場所を選び、慣れたように会話をする彼は、確かに女の子を楽しませる術を心得ているように思う。そういう人に身を任せ、流されるままにそのときそのときを楽しむのも、悪くないかなとは、思った。
あれから古屋敷くんとは顔を合わせていない。ゆかりんに聞いたところ、どうやら学校は休んでいるらしく、多分、もう、来ないだろうと言っていた。
彼のおかげというのか、私は学校内でも特に悪く言われることはなかった。「まあ最初から不釣合いだと思ってたんだよ」「むしろよく続いたほうだと思うわ」なんて、何も知らない人々が笑いながら言う。「だってそもそも、あいつ誰だよ」なんて。
そういうことを聞くと、少しむかむかとして、少し、悲しくなる。
私は彼のことをこのふた月でよく知った。それなりには色濃い日々だったとも思う。不恰好で、不器用で、馬鹿で、下手糞で、思い返せば悪口ばかり出てくるが、楽しかったのは事実だった。
そういう考えは、消そうと思ってもなかなか消えない。
純さんと並んで歩きながら、その瞬間をちゃんと楽しんでいるはずなのに、何かが違うと思ってしまう私が居ることも自覚できて、気持ちが悪かった。私は純さんのことを好きで、そのために古屋敷くんからの申し込みを受け入れたに過ぎない。彼のほうはともかく、私のほうの目的は叶った。今この瞬間瞬間を楽しめばいいはずなのに、どこかで居心地の悪さも感じている。
それは、ゆかりんに対するような思いと似ているのかもしれない。私だけが幸せを感じていることへの、負い目。そういうものなんだろうと思う。
デートの途中、申し訳なさそうに喫煙室から出てきた彼を、私はベンチから立ち上がって迎える。
「ごめんね」
水泳はもうやっていないと聞いてはいたが、身体への気遣いも同時に失ってしまったらしく、こういうことは頻繁にあった。
「全然。私も座りたかったところです」
これが、こういうことを言う私が、本当の私なのだろうか。
そんなことを考えることも、あった。
何気なく喫茶店を訪れると、ゆかりんは男の子と一緒に席に着いていた。彼女は私に気が付くと、手を振ってくれた。そこに相席させてもらう。
メロンソーダを注文するとき、いつもコーヒーを頼む彼の姿が、眼前に浮かんだ。
それはすぐに霧散して、坊主頭の男の子になる。彼が古屋敷くんの前の席の人かな、と思っていると、
「あれ、ちゃんと会うの初めてだったか。これ、野球部田中氏。シメジンのクラスメイト」
ゆかりんが言うので、
「どうも。初めまして、牧瀬です」
そう返すと、
「実はちょくちょくは会ってるんだよ」そう言って田中くんは少し寂しそうに笑った。「古屋敷の親友の田中氏です」
彼が簡単そうにそう言うので、私は素直に驚いた。
「古屋敷くん、親友とか居たんだ」
田中くんは今度は、楽しそうに笑う。
「うん。多分俺が初めてだなー、あいつにとっては」
「恐らくうぬぼれじゃないよ」ゆかりんが笑う。「友達なんて居ないんだよシメジンは」
二人はそう言ってから、表情を落として、溜息を吐いた。そういう気持ちは、わからなくもなかった。
でもどうしてか、私はそういう態度をとってはいけないんだと思っていた。
「で」ゆかりんがこちらに向く。「どうなの? お兄さんとは」
「うん」私は届いたメロンソーダで喉を潤した。「順調、なのかな」
「そっかー」言及はしてこなかった。「順調かー」
そのゆかりんの態度に何か察したものかどうかは良くわからない。
田中くんは、
「俺、帰るわー。急に用事思い出した。ほら、俺ってば実は野球部だから自主練習に励まないといけないんだよね」
「肩、もう良いの?」
「うん。投げるのはまだ気を遣うけど、素振りするくらいには問題ない。変にサボり癖ついちゃって、部活には顔出してないけどね」
「そうなんだ。まあ、がんばれよ」
「任せろよ」言うと彼は千円札を一枚テーブルに出して、「じゃ、悪いけど、帰るね。牧瀬さん、またね」
「うん」名指しで呼ばれたことに驚いた。「また」
「じゃ、ゆかりんも」
「ほーい」
田中くんが去ってから、ゆかりんは隣で、ストローに息を吹き込んで、ジンジャーエールを泡立てていた。子ども染みたことをしているな、と思いながら、私はメロンソーダを口にする。少し、気まずかった。
ゆかりんはストローから口を離すと、私のほうを見た。
「順調なんだね」
「うん」
「シメジンとは?」
「会ってない」
「家でも?」
「お兄さんに誘われはするんだけど、なんかまだ、行けなくて」
「そう」
「だってやっぱり、私とお兄さんが一緒に居るのを見るのは、古屋敷くんだって良い気分にならないでしょ?」
「何でそう思うの?」
言われて、私は、何でそう思ったのだろうかと、不思議に思った。
私は彼のなんでもない。
彼も、私のなんでもないはずなのに。
「わかんないよ」
「そう」と言って間を置いてから、「ねえ奈々ちゃん」
「何?」
「本当は気付いているんじゃないの?」
「何に?」
「自分の本当の気持ちだよ」
「何が?」
ゆかりんは珍しく舌打ちをして、大仰に溜息を吐いた。
「お前ら本当に面倒くさいやつらだな……」私と誰を同列に並べたのかは聞かない。「うじうじうじうじ、わかってるくせにさ……。古屋敷くんの前であんな露骨に楽しそうなふりしてさ」
「ゆかりんに何がわかるの?」
「わかるよ。奈々ちゃんが自分で自分を誤魔化していることくらい。本当は、わかってるんでしょ? 考えたんでしょ? 熱のときから、多分そうだったんだと思ってる。あの時出た結論は、本当は古屋敷くんのほうだったんじゃないの?」
私は何も答えなかった。
ただ、ゆかりんをじっと見つめる。
彼女もそうしていた。
「素直になれよ」
「ゆかりんにどうしてそんなこと言われなくちゃいけないの? 私の何がわかるって言うの?」
「わかるよ、だって」そのとき、彼女は少し言いにくそうにした。「姉妹だもん。母親が違ったって、姉妹だもん。戸籍上違ったって、一緒に育ってきたことは事実だから。わかるんだよ。奈々ちゃんの考えていることくらい。ねえ。楽しいの? 本当に今、楽しいの?」
「うるさい!」
叫び声は、自分でも予期しないものだった。
周囲の視線がこちらに集中する。
私は、走って、店をあとにした。
初めて喧嘩したなと、電車で揺られながら思った。
乗り込んだ電車は家とは逆の方向で、私がなぜそちらに乗ったのか、自分でもわからない。
行きたい場所はわかってる。でも、誰に、どちらに会いたくなったのかは、判然としない。
私は臆病なんだと思う。母のようになりたくないと、そう思っているんだと、わかる。彼女のようにふらふらとすることが、嫌だった。私は純さんが好き。それを、ぶれさせてはいけないんだと、思っていた。
それは誰のため?
私のため?
古屋敷くんのため?
こんなことを考える時点で、言い訳でしかない。もう遅いんだよ。私は彼とは別れたんだ。彼が、私のことを本当はどう思っているのか、あえて考えてこなかった。ホテルで言葉としてぶつけても、あれは私の意志ではなくてゆかりんに言わされたことなんだと、そう思い込むようにしていた。だから返答はどうでもよくて、私は指示通り質問をしただけなんだと、そう、結論付けていた。
ねえ、私、間違えてる?
そうだとしても、どこから、どう、間違えたのか、自分でもわからない。
私は今でも確かに、純さんのことが好きだ。それは多分、本心なのだと思う。でも、行く先々、交わす言葉の中に、古屋敷くんを思い浮かべることも事実だった。
正直、わからない。自分がどうしたいのか。どう思っているのか。
もう、わからないことだらけだ。
インターホンを鳴らすと、純さんが顔を出した。私の顔を見て、驚いたような声で、
「どうしたの?」
優しく声を掛けてくれる。
「上がっても良いですか?」
「うん」振り返る。「今は誰も居ないよ。とりあえず、何か飲み物でも出すよ」
リビングのソファに座らされ、彼の注いでくれたオレンジジュースを飲みながら、ぼんやりしていた。
隣に腰を下ろした純さんは、
「どうしたの?」
もう一度そう問いかけてくれる。
「喧嘩したんです。凄く仲良しの友達と」
「どうして?」
「なんか、よくわからないことを言うんです。私のことをわかったつもりになってるんです」
「そんなこと言っちゃいけないよ」彼はその大きな掌を私の頭に載せた。「その子も、君の事を考えてくれているんだよ」
純さんに、そんなことは言わないでほしかった。
だってゆかりんは、私はあなたのことではなく古屋敷くんのことを。
首を振る。
「もう、何もわからなくて、どうしてか、ここに来てしまいました。ごめんなさい。落ち着いたら帰ります」
「いいよ。しばらくいなよ。父も母も、弟も、多分しばらくは帰ってこないんだ」
彼がそこにどんな意味を含めたのか、考えないようにした。
ああ、このまま流されてしまえば、良いのかな。
お母さんがそうしたみたいに。
ねえ、お母さん。
そうやって流されたこと、後悔してる?
私も、流されてしまって良いのかな。
後悔、するかな?
純さんの掌が、頬に降りてくる。頭頂部から頬を抜け、後頭部を覆われる。
「ねえ」
小さな声で、聞き逃してしまいそうだった。
「なんですか?」
「キス、してもいいかな」
答えるより早く、彼は顔を近付けてきた。
私はわけもわからないまま、顔を背けた。彼の唇は彼自身が撫でたばかりの頬にぶつかった。
「何するんですか」
「何で避けるの?」
「だって、そんな」
「俺のこと、好きじゃない?」
「そうじゃないです。そうじゃないですけど……」けど、なんだ?「今はちょっと、そういう気分にはなれなくて」
「そっか、ごめん」パッと手を離す。「なんだか、悲しんでいるみたいで、俺、不器用だから、慰め方がよくわからなかった」
少し、白々しいなと思った。
「ごめんなさい、それでも、今は」
「わかったよ」
「ごめんなさい」
隣から立った純さんは、リビングの中を行ったり来たりしながら、何かを考えているようだった。
私はそれを見るともなく見ていた。
いつ帰ろう。そんなことを考えていた。
彼はしばらくそうして右往左往してから、また、隣に戻ってくると、
「こんなときに変なことを言うやつだなと思うかもしれないんだけど、聞いてくれる?」
「なんですか?」
「奈々子ちゃん、どうしてポニーテールなんだ? ボブとか、ハーフアップとかも似合いそうだけど、どんなこだわりがあるの?」
ああ、と思う。
古屋敷くんは、何をどうしたかはわからないが、言っていたとおり、お兄さんにこの質問をさせることに成功した。私は彼に約束したとおり、答えないようにしないといけない。
そのはずなのに、頭の中では、純さんと古屋敷くんを並べて、どちらに歩み寄るべきなのか、考えている自分も居た。ここで彼に全てを話してしまって、それでもっと親密になることも、当然許されるはずだ。古屋敷くんと約束したとはいえ、命まで賭けたわけじゃない。それに今、私は彼とデートをし、好き合っている、そのはずなんだから。古屋敷くんを勝たせてあげることが、彼にとって良いことなのかもわからない。
答えないようにしたわけではなかった。
ただそうして、答えるべきなのかどうかを迷って、答えあぐねていただけだった。
でも、純さんは焦ったように立ち上がると、
「言えないの?」
少し声を荒げた。
「いや、そういうわけではないんですけど……、なんと言ったらいいか」
「なんとでもいいよ、教えてくれよ」
彼の執拗なその様は、今までの純さんとはまるで別物に見えた。一言で表すならば、獣のようだった。
私は、身が竦んだのを自覚する。動けなかった。もちろん、何かを発することも出来なかった。
「何? あいつには言えて俺には言えないの? え? どうして? わっかんねえなあ、俺のこと好きなんでしょ? そんなに黙る必要あるとこ? これ。簡単じゃん。さらっと教えてくれれば良いんだよ」
頭を掻き毟り、目を見開く。
尋常ではない。頭の中で、彼が吸っていたのは本当に煙草だったのかと、そんなことを考えている。
バン、と大きな音が鳴った。私は硬直していた身が、さらに硬くなるのを感じる。
純さんがテーブルを叩いた音だった。
「まあ、いいや」打って変わって、小さな声だった。「教えてくれないなら、それでいいや。ただ、俺、あいつに勝ったと思われることだけは嫌なんだよね。あんな愚図にさ。俺が負けるわけないんだから」
そう言って立ち上がると、キッチンのほうへ歩みを進める。
「いやあ、奈々子ちゃんには悪いなあと思うよ。本当にさあ。でもこれ、俺とあいつの問題だからさ。元々、奈々子ちゃんって関係ないんだよね。うん。君は、俺があいつから奪った、ただのモノだからさ。正直君の気持ちとか、どうでもいいんだよね」
ああ、狂ってる。
そう思った。
彼が、鋏を持って戻ってきたからだ。
「いやあ、ごめんね。申し訳ない。でもさ、教えてくれないなら、仕方ないよね。どんな理由でやってるか知らないけど、出来なくなっちゃえば、そんな理由なんて、あいつが知っていようがいまいが関係なくなるもんね。うん。そう思うんだよ。悪いね奈々子ちゃん」
逃げようとした。
立ち上がろうとした。
でも、それは意識だけで、身体がついてこない。
獣に、頭を押さえつけられる。
「いやあ、ごめん」彼はずっとそれを繰り返している。「俺、どうしてか、あいつが絡んだことで思い通りにならないことが嫌なんだよ。あんなクソみたいなやつに負けたと思いたくないんだよね。どうしてかな。わかる? わかんないよね。あいつが最初に俺から全部を奪ったのがいけないんだよ。だから俺は奪い返しているだけなんだよ。あいつのものを全部さ」
ああ。
もう、駄目だ。
鋏が開かれた。
――
「なにやってんだよ!」
ゆかりんから、牧瀬奈々子と喧嘩をしてしまったと言うメールを受け取ったとき、どうしてか彼女がうちに来るような気がした。それは多分、兄に会いに、という意味だと認識していたはずだが、どこかで期待もあったのかもしれない。出先から家に、急いで帰った。
そうしたら、リビングで、兄と牧瀬奈々子がソファに居た。
牧瀬奈々子のポニーテールの部分を、兄が鋏でざっくばらんに切り落としてしまった。
「なにやってんだよ!」
もう一度叫びながら、兄の下へ駆けた。
勢いに任せて、彼のことを殴った。
多分、初めてのことだった。
彼は床に転げると、笑い声を立てた。
「理由だって? どうでもいいよ! もうこの女はポニーテールにしないんだよ! そんなものどうでもいい! なあお前これでもまだ勝った気で居るのかよ!」
「うるせえよ!」
まるで、いつもの逆だった。僕は兄の腹を思い切り蹴飛ばした。彼に比べれば様にもならず、多分、痛くもなかったのだろうとは思う。でも、そうせずには居られなかった。
ソファで、牧瀬奈々子は泣いていた。
「行こう」
彼女の手を取って、倒れたまま笑いを続ける兄を残して、家を飛び出した。
どこをどのように走り回ったのかはわからない。全然知らないところに着ていた。
「待って!」彼女が後ろから叫ぶ。「止まってよ!」
それで、立ち止まった。
息が切れ切れで、苦しい。
すっかり夜で、暗かった。
「痛い」そう言って、彼女はずっと握ったままだった僕の手を離した。「痛いよ」
「ごめん」
彼女を見ると、どこで落としたのか、それとも最初からちゃんと履けていなかったのか、片方、靴がなかった。靴下は薄汚れて、少し破れているように見えた。
何をやっているんだ。そう、自分に怒りが湧いた。
何をしてるんだ僕は。
「帰る」
彼女がそう言い、どうしてか、
「待ってよ」
今度は僕がそう言っていた。
牧瀬奈々子はこちらを見た。
「何?」
なんだろう。
彼女を引き止めて、僕はどうするつもりだった?
最初から危惧していた通り、僕は彼女を傷つけた。
綺麗だと褒めてくれた彼女の父との思い出を、兄に切らせてしまった。
兄のことを知りながらも、彼女に紹介したのは僕だ。
その僕が、彼女を傷つけたこの僕が、一体、彼女に何を言うんだ?
「好きだ」
考えとは裏腹に、言葉が落ちる。
彼女は僕を見たまま、黙っていた。
「君のことが好きだ」
僕も、彼女を見た。
牧瀬奈々子は近づいてくると、何度も、何度も、僕のことを叩いた。冗談や、照れなんかじゃない。本気で、何回も叩いた。
「わかんないよ! そんなこと言われても、わかんない!」
そして、泣き出した。
僕は、今、目の前に居る彼女のことを、抱きしめることもしなかった。
「ごめん」
どれだけ情けないのか、笑えてくる。
泣いている彼女を引き離して、
「送るよ」
そんなことを言っていた。
このままどこかへ逃げようか。
そんなチープなことは、やっぱり彼女は望んでいないのだろうし、言えなかった。




