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十八

「どうだった」

 帰り道、駅までを隣に歩きながら、牧瀬奈々子に声を掛ける。

 彼女は思いのほか、元気がなさそうに見えた。

「ばっちりだよ」それでも声音だけは楽しそうに、「向こうから連絡先を聞いてくれた。完璧だね。どうもありがとう」

 僕は何も気がついていないようなふりをして、

「それは良かった。思い通りだ。あとは二人で、うまく出来ると思う。僕とは別れよう」と言って、おかしくなった。「もともと、付き合ってなんかいなかったけど。学校では、そういうことにしよう」

「なんて言うの?」

「何でもいいよ。僕はどうせ居なくなる身だから、悪者にしてくれて一向に構わない。何が一番いいやり方か、せっかく参謀がいるんだ。考えてもらおう」

 彼女はしばらく僕の顔を見て、

「うん」

 呟くと、それから、無言だった。

 もう、話すことなんてない。

 当たり前のことだった。


 翌日、ゆかりんに教えられたとおり、僕たちは交際の終わりを周囲に嘯いた。結局、平行して僕が学校を辞めることを告げなくてはならないが、「ここから居なくなるくせにいつまでも自分に縛り付けて置けないから」というセリフで破局を伝えるのは、どこか英雄みたいで格好いいのかもしれないと、うぬぼれてみたりした。

 そういう、こちらからの別れであれば、交際していた僕に似て、さらにこの地に残っている兄に牧瀬奈々子が惹かれていくことも、納得させることが容易になるはずだとゆかりんは言った。彼女は酷く、つまらなそうな顔で、伊達眼鏡の奥の目は、僕にも、牧瀬奈々子にも向いていなかった。

 全てを把握している田中氏も同様で、そんな話でクラスメイトたちが僕のもとに群がっていても、山下隆二との、冗談のように言えば「決闘」のときのように、話に乗ってくることはなかった。僕は愛想笑いでクラスメイトたちに事情を説明した。誰も、別れを惜しむようなことは言ってくれなかった。

 父と学校の間で話し合いが持たれ、僕は離別の一週間前には学校を自主退学することになった。つまり、彼らと会うのは残り三週間弱ということになる。大した付き合いはなかったが、それでも少しは、寂しく思った。

 一人校内を巡り、この学校で過ごしたことを頭に刻み込んでいく。最後までここにいられなかったこと自体に後悔はなかったが、名残惜しさは確かにある。せっかく、最近は少し来るのが楽しくなっていたのにと、思わないことはなかった。いや、強がりをやめて言えば、ゆかりんや田中氏などの、関わっていた人間たちと離れることが、寂しい。牧瀬奈々子の顔を見れなくなることが、つらい。

 最初に彼女を呼び出した空き教室で、寝転がった。よくも悪くも、全てはここから始まった。思えば彼女の無理やりなやり方も、可愛いものだ。

 それからゆかりんと出会い、田中氏と話し、牧瀬奈々子の過去を知った。

 濃密だった。ここ数ヶ月が、僕の人生のうちの、青春なんだろうと、そう思う。

 謳歌できたかはわからない。後悔ばかりが募っている。でも、彼女との偽物の付き合いは、純粋に楽しかった。変なことに固執しないで、もっと素直に自分を認めていれば、今の形も違ったのだろうか。そんなことは考えても仕方がなく、それも、後悔として処理する。

 このまま授業をすっぽかそう。どうせここで何を学んでも、次のところで意味を為すかは微妙なところだ。考えることに疲弊し、眠たかった。

 扉が開いて、驚いた。

 一瞬、牧瀬奈々子かと思った。

 でもそれは、全く見ず知らずの男女のカップルだった。

「すみません」

 男のほうが申し訳なさそうにそう言い、行こう、と女生徒の手を取った。なるほどふしだらな噂なんて簡単に巻き起こりそうな場所だな、なんて、自分は無関係を装って考えた。

 そのまま茫漠とした思いを抱え目を閉じていると、バイブレーションに邪魔される。

 メールで、牧瀬奈々子と兄が連絡を取り合っているようだと、ゆかりんから知らされた。授業中であろうと構わず、机の下にスマートフォンを隠してやり取りしているらしかった。

 そうか。とだけ返事をして、携帯電話の電源を落とした。

 チャイムが鳴って、教室に戻る。

 田中氏がこちらに気付き、

「どこ行ってたんだ?」

 そう聞いたが、僕はそれに対しての返事をせず自分の鞄を手にすると、

「帰るよ」

 一言だけで済ませる。

「おい、ちょっと」そう言って彼は手を伸ばしかけたが、「わかった、先生には言っておくよ」

 そのまままた、空振りに終わった。

「ありがとう」微笑みかける。「このまま、もしかしたら学校には来なくなるかもしれない。うまく言っといてくれると嬉しい」

「うん」言って、「大丈夫か?」

 僕はそれに頷いた。

「野球、がんばれよ。好きなら」

「わかってるよ。お前も」と続けたが、彼は明言しなかった。「またな」

「うん。じゃあ」

「おう。じゃあ、な」

 教室を出るまで、僕は振り返らなかった。


 家には誰も居なかった。制服が皺になるのも構わず、リビングのソファに寝転がり、きつく目を閉じた。いろいろな思いが頭の中を駆け巡っていくのがわかる。それを拾い上げることはあえてせず、ただただ感じるだけに留めた。

 玄関口が開く音が聞こえる。

 顔を出したのは母だった。

「おかえり」

 寝そべったまま言うと、彼女は返事をしなかった。もののついでに産んだ息子に、こうやって引っ掻き回されるなんて、彼女は思ってもいなかったのだろう。大抵、何が自分に影響を及ぼすのかなんてものは、わからないまま、手探りで生きていかなければならない。僕もそうだ。こんなに周囲の人間に振り回されるとは思っていなかった。

 自分の部屋に戻る。こことも、しばらくしたらお別れだ。荷物をまとめておかなければいけないのかと考え、少し辟易とする。必要なものは多くない。ただそれを選別するのが面倒だった。壁にも、天井にも、もちろん机や雑貨にも、思い出がある。

 少し、感傷に浸る。これが大事な時間に思えた。

 しかし、それをぶち壊すのは、いつも兄だった。

 扉を開けて入ってきた彼は、さぞ楽しそうな表情をしていた。

「牧瀬さんだったか?」言葉を投げてくる。「お前の、彼女の」

「ああ。そうだよ」

「あの子良い子だよなあ」にやにや顔に吐き気がする。「どうやら俺のことが好きなんだってよ」

「そうかい」

「良いのかあ?」

「もう、別れたんだよ、僕と彼女は」

 兄は大仰に笑い声を立てた。

 そして打って変わって、凶暴性を発露し、僕に蹴りを入れる。無防備でそれを受け、咳き込む。

「何が奪ってみろだよ。何を勝った気になってるんだよ。お前馬鹿か? 俺に勝てると思ってるのか? お前のものを全部奪ってきたのは誰だと思ってるんだよ。生意気なんだよ。愚図が。誰もお前なんて必要としてないんだよ。大好きな彼女まで奪われた気分はどうだ? おい、なんか言えよつまんねえな。おら、悔しいんだろ? 泣けよ」

 兄の怒号のほとんどを僕は聞かなかった。当然泣きもしなければ、怒りもしない。ただ、蹴られた腹を抱え、彼のことを見ていた。

「あの子も俺のものにしてやるよ。残念だったな、お前本当に馬鹿だよ。え? 泊まりでも何もしなかったんだってな。俺がちゃんとあの子を可愛がってやるよ」

 おかしかった。

 滑稽だった。

 腹を抱えたまま、くつくつと笑い声を立てる。

 彼もさすがに不審を覚えたらしい。

「何笑ってんだよ」

 もう一度蹴りをくれ、なおも笑い続ける弟を、彼がどう見たかはわからない。

「牧瀬さんが、お前のことを好きだって?」

「そうだよ。お前は振られたんだよ。負け犬が」

「お前のことを好きな牧瀬さんは、じゃあ、きっと何でも話してくれるんだろうな」

「当たり前だろ」彼も笑った。「お前に出来て、俺に出来ないことが今までにあったかよ」

「ポニーテール」

「あ?」

「彼女がポニーテールである理由、知ってるか?」

「そんなもん知るかよ」

「聞いてみろよ」

「ああ?」怪訝そうな声を出した。「それを聞いて何があるって言うんだよ」

「もしそれを答えてくれなかったら」なんと続けるか、瞬間だけ悩んだ。でも、これしかないと、僕の中の誰かが言った。「彼女が本当に好きなのは、お前じゃなくて僕ってことだよ」

「はあ?」

「僕は彼女からその理由を聞いて知ってる。振られた負け犬の僕でも知っていることなんだ、当然、好かれてるお前にだって話すんだろうね」

「当たり前だろうが」

「じゃあ、聞いてみろよ。もしお前がそれを牧瀬さんに聞いて、答えてくれなかった場合」

 そのあとの言葉で、躓いた。

 でも、誰かが、後押しをしてくれる。

 それは僕自身だったのか、ゆかりんだったのか、田中氏だったのか、あるいは牧瀬奈々子だったのか、わからない。

「なんだよ」

「もし、答えてくれなかった場合」兄を、じっと見た。「彼女のことは返してもらう。それは、お前の負けを意味する。わかるよな、純」

 兄は、また、大きく笑った。

 僕はその声をシャットアウトする。

 勝てると、思っている。彼は、僕なんかに負けるだなんて思っていない。

 牧瀬奈々子。頼むよ。

 僕と君の、偽物の日々に、何の意味も価値もなかっただなんて、思わせないでくれ。

 どうか約束どおり、僕に勝たせてくれよ。

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