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十七

 水曜日。

 牧瀬奈々子は朝から緊張の面持ちで、授業の大半も上の空だとゆかりんからメールがきた。僕は二つ隣の教室にいる彼女のその様子を想像しながら、小さく笑った。

 放課後、喫茶店で待ち合わせると少しだけ歓談をし、僕と牧瀬奈々子の二人を見送る形で、ゆかりんが手を振った。「行ってくるよ」と振り返して出たところで田中氏と鉢合わせたが、彼は「がんばれ」と一言だけ告げてゆかりんのもとへ歩みを進めた。僕たちは、駅に向かう。

 道中、彼女はほとんど話をしなかった。僕はそれを直視せず、流れていく景色に視線を向けていた。

 このままどこかへ逃げようか。

 チープなセリフは言葉にならず、そんなこと、彼女は望んですらいないのだろうと考えた。

 駅を出て自宅へ向かう。人を呼ぶのは久しぶりで、変な心地だった。十五分ほどの道のりを、僕は彼女に目印となる建物を教えながら歩いた。今後は、二人でこうして家に向かうことなどないだろうと考えてのことだった。

 玄関の前で、彼女は僕を止めた。

「ちょっと待ってね。ちょっとだけ」

 そう言って深呼吸を繰り返す彼女は、見るからに緊張しているようだった。

 五分ほどして、落ち着きを取り戻したと言うので、ついに自宅へ招き入れた。

「ただいま」

「お邪魔します」おずおずと隣で声を出す牧瀬奈々子は、縮こまっていて情けなかった。「やばい」

 靴をそろえ、リビングへ向かう。

 兄はソファで、普段見向きもしない新聞を広げながら、いかにも何気ない風を装ってこちらを見た。

「ただいま」

「おう、おかえり」白々しい。「そちらは?」

「恋人の牧瀬さん」

「牧瀬奈々子です、こんにちは」上ずったような声で続ける。「お兄さんですか?」

「うん、そう。いつも弟が世話になっているね。どうぞ、ごゆっくり」

 そうして席を立ったが、結局、部屋には戻らず食卓に場を移しただけだった。宣戦布告が効いているのかもしれない。

「今お茶でも出すから、マキーはソファ座ってて」

 そう言って手で示し、キッチンのほうへ歩く。牧瀬奈々子に対しては新聞を隔て顔を隠し、兄はこちらに視線をくれる。にやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべている。

 コップを二つとオレンジジュースのパックを手に、ソファに戻る。

「あ、ありがとう、コヤー」

 ぎこちないながらも、決めたとおりの呼び名で呼び合う。

 兄はくつくつと笑い声を立てた。

「何?」

 振り返り、殊更白々しく言った。

「面白いねお前たち。そんな名前で呼び合ってるのか」

「そうだよ」照れた様な顔を見せるのは、あくまでも牧瀬奈々子は僕たち兄弟の確執に関してまるで知らない、という前提に立っているからだ。「悪い?」

「いいと思うよ」

「笑うなよ」

 仲のいい兄弟を、それでも演じられてしまう僕たちは、少なからず、本人たちの感情や態度に関係なく兄弟であることに間違いないのだろう。

 僕と牧瀬奈々子は一度、目を合わせて、頷きあった。ここからだ。

 牧瀬奈々子との会話には、あえて今まで行ったデートの詳細を詰めた。「幸いにして不幸」がどうであった、あの店の服はこうだった、カラオケは楽しかったね、などと、さもひけらかすように話題を転ずる。

 一時間もした頃か、兄が一度席を外した。トイレか何かはわからないが、この隙にと、顔を近づけ声を潜め、今後の打ち合わせをする。

「僕はこの後、お菓子を買いに行くだとか何とか言ってわざと席を立つ。その間に多分、兄のほうから接触があると思う。牧瀬さんは牧瀬さんの思うように、彼と会話をしてくれていい。連絡先なんかも交換しておいたほうが手っ取り早いかもしれない。僕はわざと大きな音を立てて帰ってくるが、その際、兄が席を立とうとしても無理やりに会話を続けていてくれ。僕は君たちの姿を見て、ちょっと気まずそうな顔をする。それで、今日は帰ろう」

「わかった」

「十五分くらいで戻るから」

「ありがとう」

 扉の開く音がして、僕たちは身を離した。

 兄がリビングに戻ってくる。

「それでね、前の席の野球部のやつが言うんだよ。お前、馬鹿じゃねえのって」わざとらしくならないようにすればするほどわざとらしく見えてしまいそうで、この辺りが難しかった。「くりくり坊主に言われたくないよなあ」

「くりくり坊主関係ない」牧瀬奈々子は声を立てて笑う。緊張は解けただろうか。「その人だってがんばって生きているんだよ」

「その言い草も酷いな」

 兄は背後でまた新聞を広げたようだ。どうせ読んでいないくせに、大したやつだな。

 僕は壁に掛けられた時計を見上げ、

「まだ帰らないよね?」

 牧瀬奈々子に聞いた。

「うん。もう少しいたいな」

 彼女がそう返す。

「ねえ」兄に声を掛けた。「お菓子って、あったっけ?」

 彼は新聞から顔を上げると、それがこちらに仕組まれたものだとも知らず、

「なかったと思うぜ」

 そう言って笑った。

「じゃあ買ってくるか……」牧瀬奈々子を見る。「すまないけど少し待ってくれる?」

「うん、大丈夫」

「ごめんね」また、兄のほうを見る。「ちょっかい掛けるなよ?」

「何言ってんだよ、馬鹿だなあ」兄はまるで舞台俳優然として大仰に言った。「早く行って来いよ」

 もう一度、牧瀬奈々子を見た。

 リビングを出る。

 これでよかったと、多分、今、そう思わなくてはならないタイミングだ。


――


 古屋敷くんが出て行ってすぐに、私は時計を見上げた。今から十五分。そのカウントを始める。

 私から声を掛けるのは不自然だろうか。彼の言うとおりになるならば、お兄さんのほうから声を掛けてくれるのだが、どうだろう。手を握ったり開いたりしながら、考えていた。

「ねえ」

 すると、お兄さんの声がして驚いた。

 確かにお兄さんの声音は、古屋敷くんのそれに似ている。

「はい」

「牧瀬……さん? だっけ?」そう言って彼はソファのほうへ近寄ってくると、躊躇いもなく隣に腰を下ろした。「弟とは、どれくらいなの?」

 突然のことに軽いパニックに陥って、私が何も返せないでいると、

「いやあ、兄弟の間でこういうことを話すのって、なかなか照れくさくてね。でも興味があるんだよ。あいつが家に人を、しかも恋人を連れてくるなんて、思っていなくてさ。どんな交際をしていたのか、相手はどんな人なのか、恋人の前でのあいつはどんなやつなのか、純粋に興味があるんだ」

 微笑まれる。

 私は彼から視線を外した。

「えっと……」どう言えばいいのだろう。「付き合い始めたのは、確か、ふた月くらい前です」

「へー、意外と短いんだね。そんなものなんだ」驚いたように身を引いた。「あれ、でも、泊まりにも行っていなかったっけ?」

「違うんです」私は慌てて両手を振った。「やましいことは何もなくて、その、ただ、泊まっただけなんです」

「照れてるの?」笑みを崩さず、彼は重ねる。「それとも、本当に?」

「本当です」自分の声が小さくなるのを、自覚した。「本当に何もなかったんです」

 お兄さんは大きく笑って、

「あいつ、度胸ないなあ」そんなことを言った。「女の子と、しかも彼女と一緒で、何もしなかったのか。そりゃ不甲斐ないことをしたね。俺から謝るよ。せっかくだったのにね」

 こうして話をしていると、古屋敷くんが彼のことを「大嫌い」になる理由なんて、ないように思えた。彼はそのところの、詳しい説明を私にはしてくれていない。

「いえ、とんでもないです」

「女の子にしてみたら、失礼に当たることだと思うよ」

「いいんです」もともとそんな目的なんてなかったのだから。「それより、お兄さん」

「ん?」

「弟さんのこと、好きですか?」

 私の問いに、彼は面食らったように呆然とした。

 私自身、どうしてそのような言葉を繰り出したのか、判然としない。

「そりゃ」言いよどんでいる。「弟だからね」

 そしてどうしてか、明言はしなかった。

 視線が、宙を彷徨う。でも、変に会話を途切れさせてはならないと、

「そうですよね。兄弟ですもんね」

 慌てて重ねる。

「牧瀬さんは?」彼は、ニコリと微笑む。「弟のこと、好きかい?」

 すぐに、はい、と言えるほうが、多分自然だったのだろうと後になれば思う。

 ただ私はこのとき、少し悩んでしまった。

 僅かながら間を持った後、

「もちろんです」

 そう答えたが、お兄さんは表情を曇らせ、

「もしかして、そうでもないの?」

 そう聞いてきた。

 わからなかった。

 時計を見る。半分くらい経っていた。

「時々でいいから、連絡頂戴よ」携帯電話をちらつかせて、彼は言った。「二人の交際に興味がある。それに、悩みだって聞くからさ」

 何も返せないでいると、

「ね?」

 と念押しをされ、私はスマートフォンを取り出して、お兄さんと連絡先を交換した。

 念願が叶ったはずなのに、なぜだか居心地の悪さも感じていて、早く帰りたいな、とどこかで考えている自分に、驚いた。

「ありがとう」お兄さんはそう言って、「これ、あいつにばれたら怒られるかもね」

 屈託のない笑顔でそう言ってくる。

「ばれないようにします」私の笑顔は、ちゃんと、笑顔だろうか。「任せてください。ありがとうございます」

 スマートフォンを揺らして見せる。

 予兆はなかった。

 お兄さんは不意に私の髪に手を触れ、

「綺麗な髪だね」

 そう、言った。

 私はそれを拒絶するでもなく、ただ、何も言えなくなって、彼の顔を見た。

「可愛いね、牧瀬さん。……なんて言ったら、やっぱり、怒られるかな」

 髪に触れたまま、私の顔をちゃんと見て、お兄さんは続ける。

 私は彼のことが好きだ。

 そう思うのに、どこかで泣きたくなっている自分の存在を、認めている。

 お父さん。

 そう思ったあと、自分がなんと続けようとしたのか、判然としないでいた。そこに、

「ただいま」

 古屋敷くんの一際大きな声が聞こえ、お兄さんは私の髪から手を離すと、おどけたような顔をして、人差し指を口に当てると、何もなかったかのようにもと居た位置に戻ろうとした。

 私は古屋敷くんに言われたことを思い出して、

「ここに座っていてください」

 そう言った。

 彼はどう思ったのか、にやりと笑って、私の隣に戻ってきた。


――

 

「ただいま、お待たせ」

 ビニール袋を掲げ、リビングに入る。牧瀬奈々子と兄は向かい合って、隣同士に座っていた。

 僕はそれを見て、思わず、袋を落とした。

「よう、おかえり」

 兄のそんな声と、こちらを向いた形容しがたい牧瀬奈々子の顔に、困惑していた。

 僕は今、この二人の姿を見て、何を思ったのだろうか。

 自分がそうさせたことなのになぜ、予期せず、袋を落としたのだろうか。

「ただいま」

 繰り返すことで、思考を中断させる。

「おかえり」牧瀬奈々子が言った。「お兄さん、素敵な人ね。お話させてもらっていたの」

 そんなことを言う。

 言わないでくれ。

 そんなこと、言わないでくれ。

 そう思う自分に、動悸が激しくなる。

「送るよ」どんな色の声を自分が出しているのかわからなかった。「今日はもう帰ろう」

「うん」

 そう言った彼女の顔が、何を考えているのか、わからなかった。

 兄だけが、愉快そうに、微笑みを続けている。

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