十六
遅れて登校し、職員室へ直行する。担任に事情を説明すると、四十代の彼は難しそうな顔をして、そうか、と一言だけくれた。それなりの歴があって、当然僕のような生徒も今までに居たのだろうが、彼は毎度こうして深入りしないような立場に居座っていたのかどうか、考えても仕方のないことを考える。
授業の途中であったが構わずに教室へ入り、担当教員に頭を下げる。クラスメイトの好奇の目に見られながら自分の席へ移動する。授業は、何事もなかったかのようにすぐに再開した。
田中氏はくるりとこちらに振り返ると、
「どうした?」
声を潜めてそう言った。僕はアメリカンホームコメディのような、嘘みたいな軽薄さで、肩を竦めてみせる。彼は眉を顰め怪訝そうな顔をしたが、その後は何も聞かず、前に向き直った。
どうしたものか。
昨夜あれから父と話をしたところ、彼はやはり僕と兄の確執を認知していたという。その上で彼の意向としては、兄の手の及ばぬところへ引っ越そうということだった。もちろん、今の高校に通い続けることは難しく、編入ということになるが、試験などが煩わしければ別にそのまま辞めてしまっても構わないと彼は言った。二言目には「お前には迷惑を掛けるなあ」と呟いている彼は、それでもどこか楽しげに見えた。
休み時間になると、教科書やノートをしまうよりも早く田中氏は後ろを振り向いた。
「どうした?」
そして先ほど同じことを繰り返す。僕は彼に立つよう促し、先に廊下に出た。
どこへ行くでもなく校内をふらふらと歩きながら、昨夜の一件を彼に話すと、驚いたような顔をしながらも、うんうんと聞いてくれた。
「引っ越すって、それ、牧瀬さんにはもう言ったのか?」
その問いに、首を振る。すると残念そうとも、呆れたというようにも見える顔で、彼は俯いた。
二人とも無言で、歩き回る。
「なあ古屋敷」
無駄な一周を終えて教室に入る前、田中氏は立ち止まって言った。
「何?」
こちらもそれに合わせて、半歩先から彼のほうを振り向く。
「お前はどうしたいんだ?」
彼の目は、しっかりと僕を捉えている。
どうしたいか。そんなことは考えるまでもない。
「父さんについていくよ」笑ってみたが、そう見えたかはわからない。「経済力もないしね。まだ僕は子どもだから。しばらくは金魚の糞だろうがなんだろうが、親についていくしかない」
「そうじゃないよ」田中氏も、笑った。「お前が、どうしたいかの話だ」
「どうって」
「俺、お前のこと、結構好きだったぜー」
さらりと言ってのける。
「うん。僕もだ。ありがとう」
笑って、彼は先に教室に戻った。僕も後を追って自分の席に着いたが、彼は振り返りもせず、当然何も言わなかった。
牧瀬奈々子と喫茶店で待ち合わせる。今日は二人きりだ。
コーヒーとメロンソーダを頼むのも、すっかり身に馴染んだ。ウエイトレスも、このカップル然とした二人の男女に微笑みをくれると、下がった。
彼女は退屈そうに足をバタつかせ、窓外に視線を向けている。届いたメロンソーダに口をつけると、明日のことで落ち着かないのか、しきりにそれを繰り返していた。
決まった数だけ砂糖を落としながら、どうやって切り出そうか考えていた。
彼女にしてみれば、明日を迎えれば僕の利用価値はなくなる。兄と会い、そして、彼らはうまくやるのだろう。もちろん、事前に話したとおり僕による妨害は行われるが、それによって砕けるのか、より強固になるのかは、未知なる事だ。その段階において、彼女にとっては僕の存在は過去のものとなっているであろうし、恋焦がれた兄に執着するのならば、妨害も、妨害とならない可能性がある。
彼女は強情で、周りのことを気にしない。
そぐわなければ轢き殺すとまで言っているのだから、結末によっては僕の顔など金輪際見たくもないと思うかもしれない。
彼女にとって僕はどんな立ち位置の人間なのか。
闇雲に考えてみたが、結局、すぐにやめた。
「話しておかなければならないことがあるんだ」
僕の声に、彼女は顔をこちらに向ける。
足も、大人しくなる。
「何?」
それでもまだ考えながら、言葉を選びながら、彼女の顔を、目を、しっかりと見つめる。
吸い込まれてしまいそうだった。
「僕は来月には、学校から離れる」
驚きは、純然たる物だった。
「どうして?」
「離婚するんだ、親が。僕は父についていく。細かい今後のことはまだなんとも言えないけど、今の学校から離れることは、もう決まったことなんだ」
「え、ちょっと待ってよ」
右手で頭を抱えるようにして、彼女は空いた手をこちらに向けた。彼女がどれだけ考えたとしても、ここまでの事実はどうしても変わらない。僕は牧瀬奈々子がなんと言うのか、それを待った。
「お兄さんは? どうなるの?」
そしてその関心がまず、兄に向いたことに、安心した気持ちもあるし、寂しさも覚えた。
何者でもない僕は大げさに微笑んで見せ、
「彼は今の家に残るよ。いや、もしかしたら一人暮らしを始めるのかもしれないけど、この地を離れることはないと思う。父が、彼に母を任せたからね」
混乱を極めたような様子で、彼女は首を振る。
それを見て、悲しい、と思った。
「明日のことも、うまくやるよ」コーヒーを一口飲んで、「大丈夫。君があの人のことを好きなのは十分にわかってる。今更、それ自体をやめたりしないよ。むしろ最後だからこそ、ちゃんとやる。君とあの人をくっつけて、僕個人の目的も果たす。君は僕のことは気にせず、ただ思うままに行動したらいい。うまくいってもいかなくても、それで僕たちの関係は解消される。付き合っている振りも、もうおしまい」
言葉にして、自分自身にダメージを受けていることを、自覚していた。
つらかった。彼女のどんな顔をももう見れなくなるのかと思うと、ただひたすらにつらかった。
最後に彼女を傷つけるかもしれない。それも、考えるだけで胸が痛んだ。
ゆかりんの言葉を思い出している。兄の粗悪さから、僕のよさに気付いて、僕のところへ戻ってくれることを彼女は望んでいた。僕も今は、純粋にそうなればいいと思う。
でも、そうなったとしても、僕はもうここにはいられないし、彼女が傷つくことに変わりはない。
もう全て投げ出してしまおうかとも思った。
哀れなキューピットを演じて、そのまま去ってしまう。それでも良いのではないかと思った。彼女のことを好きであることはもう隠せない。目的を完遂することでそれを打ち消そうと思っていたが、そうしなくたって良くなった。もう彼女と僕は、離れ離れになる。偽の恋人関係も、楽しかったデートも、もうこの先には用意されていない。
ならばただただ彼女の幸せだけを願っても、僕が馬鹿な男だったというだけで、終わる。誰も傷つかず、全て終わる。
それでも、いいんじゃないのか。
「ちゃんとやってね」
吐き出した言葉とは裏腹に、僕がどんな顔をしていたのかはわからないが、牧瀬奈々子は一際厳しい声音で言った。
その目の威圧感を、肌で感じる。
「私を轢き殺す結果になったって、ちゃんとやってね。居なくなるなら、ちゃんとそうして。それが君の意思なんでしょ? 貫いてよ。逃げないで。私は大丈夫だから」
まるで全てを見透かす、射るような視線は、胸に痛かった。
君は多分、僕の事を嫌いになるよ。
そんな女々しさは、口には出来なかった。
兄からの暴力も、あと少しで終わる。
腹を蹴られても、肩を殴られても、痛いとは思わなかった。
「お前がちくったんだろ? ふざけやがって」
兄がどんな思いで今の家庭環境を見ているのかはわからないし、興味がなかった。ただその「何か」が、拳やつま先に乗せられていることだけは、わかった。
一通り憂さを晴らし終えると彼は部屋を出ようと背中を見せた。
そこに、
「なあ、純」久しく呼んでいなかった兄の名前を告げる。「明日、彼女を連れてくるよ」
「ああ?」振り返った彼の顔は酷く醜悪だった。「何だって?」
「僕の、彼女だよ」
「彼女だあ?」
「なあ、純」半身を起こし、彼の顔を見た。「奪ってみろよ。僕から、彼女のこと。最後にさ。今までどおり、奪ってみろよ」
舌を鳴らし、振り上げた拳を、彼は僕の頬にぶつけた。
「黙れ屑が。生意気言ってんじゃねえ」
ベッドの上で頬を押さえ身を伏しながら、これで、準備が全て終わったと、ほっと息を吐いた。
あとはただ、明日を迎えるだけだ。
彼女と兄を、引き合わせるだけだ。




