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十五

「おう、コヤー、マキー」

 薄ら笑いを浮かべながら、いつもの喫茶店でゆかりんは手を挙げた。僕と牧瀬奈々子は二人でこの店までやってきたところで、彼女の周囲を憚らない声量に困惑を隠せなかった。

「やめてよ、恥ずかしい」

 席に着くなり牧瀬奈々子はゆかりんのボブカットを掻き乱した。笑みを続けながら、ゆかりんは揺らされるままに身体を前後させる。

「良いじゃないの。なあ、コヤー」

「うん、そうだね」

「……まあまあ、落ち着けよマキー」

「やめてって」

「わかったわかった、奈々ちゃんやめてー」咳き込みながら牧瀬奈々子からの攻撃を阻止しようと手を伸ばしている。「素敵ヘアが崩れるー」

 ようやく出会い頭の絡みが一段落すると、ゆかりんは髪の毛を手櫛で戻しながら、

「さていよいよ本番を間近に控えたわけだけど、具体的にいつを決戦の日にするの?」

「うん」投げかけられた僕は彼女のほうを見て答える。「うちの兄、今は水泳もやってないし、大学も行ったり行かなかったりなんだけど、毎週水曜日なら僕が帰る頃には家に居るよ。だからそこで僕は牧瀬さんを、あ、マキーを、家に招こうと思う」

「というと、あさってだね」今日は月曜日だった。「どうよ奈々ちゃん、今の心境は」

「うーん、どきどき」言葉とは裏腹にどこか落ち着いているような印象を受けた。「どんな声してるんだろう」

「そうか、そこからして知らないのか」僕は毎日のように兄と顔を合わせ暴力を受けているから彼のほぼ全てを知っているが、名前と顔しか知らない彼女にしてみれば、そんな些細なことでさえ新鮮に映るものなのか。「普通だけど」

「普通って」キッと睨み据えられる。「コヤーの基準とか知らないし!」

「声は割りと僕に似ていると思うよ」

「ダンディじゃーん」どうでも良さそうにゆかりんが言った。「低めなんだね」

「そうだね。身体もがっしりしてるから、威圧的に見えるかもしれない」でも根は良いやつだよと褒められない兄を持ったことを、今は悔やんでいる。「ついに念願叶うわけだね」

「コヤーにしてみたら、その先に目的があるわけでしょ?」殊更なんでもないように、メロンソーダを飲みながら言う。「私が本当に、思い通りに動くと良いね」

「そうだね、君の言葉を信じて、そう願うよ」

 僕たちの間に流れた微妙な空気をゆかりんが察知しないわけがなかったが、彼女は何も言わなかった。僕もコーヒーを啜って間を取った。

「順風満帆に行くことを祈るよ」

「心にもないことを良くいけしゃあしゃあと」言葉だけ見れば怒っているようだが、彼女は笑っていた。「コヤーってやっぱ友達居ないの頷ける性格してるよ」

「余計なお世話だよ」

 彼女はこれから当初の目的に達する、というにはもちろん気が早かったが、兄が興味を示さないはずもないだろうから、それはほとんど確定的なことと言って良い。それに対して僕が思うのは、ただただ後悔だけである。

 最初から、彼女に声を掛けなければ良かった。

 大人しく旅でも何でもして居ればよかった。

 ゆかりんを巻き込まなければ良かった。

 彼女との偽の交際に価値を見出さなければ良かった。

 田中氏と話をしなければよかった。

 山下隆二に殴られたことも、あるいは芽生える要因にあったかもしれない。

 デートなんてしなければ良かった。

 彼女に服を選んでもらわなければ良かった。

 泊まりになんて行かなければ良かった。

 彼女を好きにならなければ良かった。

 最低限、それを認めなければ良かった。

 一度きりの青春にもうこれだけの後悔が山積みになっている。

 そして多分これから僕は最大の後悔をするのだろうなと思っている。

 彼女を傷つけると言う、その事実が、見える。

 田中氏の言うように、ここで引き止めるべきなのだろうか。嬉しそうに笑う彼女を前にして、兄の愚図さ加減を暴露すれば、彼女は兄に対する憧れなど捨ててくれるのだろうか。でもどうして、そのあとに自分がその位置につけると思えるのだ。

 多分、父を持たない彼女にとって、年上の男性というのはそれだけで良く見えるものなのだろう。恋焦がれ、ついに機会を手に入れ、それを弟である僕がどれだけ否定しても、その目はこちらに向くことなどないだろう。

 今、目の前に居ても、彼女の目に映るのは僕じゃない。幻想だろうとなんであろうと、彼女の中心に居るのは憎き兄であることに変わりはない。

 僕はせめて、僕の利益を完遂する。そうすることでこの彼女への想いを完全に断ち切る。彼女はやはり道具でしかなく、僕には関係のない人間だったのだと、再認識する。

「聞いてた?」

 思考に没頭していたせいで、牧瀬奈々子の話を全く聞き逃していた。

「何?」

「だから、どんな服で行けば良いかなって」

「服?」そんなもの、と考える。「制服じゃないのか?」

「えー、初めて会うのに制服ってどうなの?」

「学校帰りなんだから制服で良いでしょ。ばっちり決めた勝負服で来られても、僕が困るよ」

「今コヤーは関係ないでしょー。お兄さんってどんな服装の子が好みなんだろうなあ」それは僕に向けられた質問ではない。僕は彼女に対し「兄が大嫌いだ」と宣言しているのだから、質問を向けるわけもなかった。「年下感を売りにしたほうが良いのかな」

「らしくないね」僕は言う。「君は、君を貫くんだろ。自分らしく行って、認めさせろよ」

 彼女に最初に言われたことを、今、僕が彼女に言った。

「うるさいなー」

 そっぽを向いた。

 その後は他愛もない話に終始する。あさっての勝負を前に、あえてその話題に集中しないよう、ゆかりんが先導したように見えた。

 買い物を頼まれていたと言う牧瀬奈々子が先に場を辞し、タイミングを逃した僕はゆかりんと二人向き合っていた。

「で、実際どうだったわけ? 泊まりは」

「どうもなにも」二杯目のコーヒーに砂糖を落とす。「何もないよ」

「何も? またまた。シメジンは嘘が下手だよね」

「なあ、ゆかりん」

 僕はあえて、コーヒーから視線を逸らさなかった。

「ん?」

「君は一体どこからどこまで仕組んでいたんだ?」

「仕組む?」

「思い返せば映画を観に行ったときからそうだった。彼がその情報を持っていることが不自然なんだよな。なあ、田中氏は君の手先と考えて良いんだろ?」

 言うと、ゆかりんは大仰に笑った。

「ばれた?」

「別に今更、どうでも良いんだけどさ」

「どうでも良いってことはないだろー。参謀として評価してくれよ」

「はいはい。うまくやったよ君は」

「でも田中氏の細かい言動までは、私のものじゃないよ」コップを包み込みながら、そこについている水滴を見つめている。「先輩に呼び出された君の様子を見に行ったのも、君にいろいろ熱っぽいこと言ったのもね。彼が君の事を考えた結果だよ。いいやつだよ、あいつ」

「知ってる」言ってから、「多分僕はあいつに殴られるんだと思う」

「どうして?」

「不甲斐ないからね。これから、多分、そうなるんだ」

 しばらく黙って僕を見ていたゆかりんは、また、水滴に視線を戻して、

「ねえ」

 声を掛けてきた。

「何?」

「奈々ちゃんのこと、好き?」

「うん」

「今でも?」

「ちょっと、迷っているよ」

「そっか」

「遅かった」

「本当だよ」

「ごめん」

「何が?」

「それでも僕は多分」

「やるのね」

「うん」

「わかった」

「止めないんだな」

「うん」

「どうして?」

「それが君の意思なんでしょ」

「まあ」

「なら止める理由がないよ」

「そうなるのか?」

「やりたいようにやれば良い」

「うん」

「奈々ちゃんが気付いてくれると良いね」

「どうかな」

「どうか」

「ん?」

「本当の意味で、お兄さんに勝ってね」

「……うん」


 家に帰り着く。

 すっかり遅くなってしまって、慌てて自室で着替えを済ませて食卓に行ったが、僕の分のご飯は用意されていなかった。

「あれ」

「食べるかどうかわからなかったから作ってないよ」母は呆れたような声を出す。「遅くなるなら言ってよ」

「ごめん」謝ってから、「買いに行くよ」

「そうして」

 彼女はこちらを見ずにそう言って、兄の分の白米をよそっていた。兄は僕のほうを見て舌を出した。馬鹿にしているのだろう。

 玄関先で靴を履いていると、父がちょうど帰宅したところだった。

「どうした?」

「いや」

「走りに行くのか? 飯は?」

「今から買いに行くんだ」

「買いに?」そう言って父はリビングのほうへ向かった。「どうしてあいつの分がないんだ?」

 遠くに声を聞く。

「あいつが連絡しなかったんだ」兄の白々しい声がする。「母さんは悪くないよ」

 靴紐を結ぶ。

「お前には聞いてないよ」父が、厳然と言った。「なあ、おい」

 それは、普段聞かないような声音だった。

「なによ」

 母は不服そうにそう言う。

 履いたばかりの靴を脱いでリビングに戻った。

「俺の息子は二人居るんだが、お前の息子は一人しかいないのか?」

 父はそう言って、母を見ていた。

「なに言って……」

「前から思っていたことなんだよ」父はネクタイを外しながら、またいつものような間延びした声音に戻る。「俺たちもう終わりにしよう。こんな家族ごっこにはほとほと嫌気が差した。お前は純の世話をしてくれ。俺はこいつの世話をするから。いいよな、純。お前になら母さんを任せられると、そういう意味だと思ってくれ」

 そう言って僕の肩を、父は取った。

 まさか彼自身が、全てに終わりをつけるとは思わなかった。

 母はヒステリックを起こしたが、父の頑なな態度に最後には頷いた。母が泣いているのを久しぶりに見た。多分、怪我で兄の水泳が駄目になったとき以来である。同じことを想起したかは判然としないが、最後の情けとして父はこの家を二人に譲り、ひと月後には、僕は父とこの家を出ることになった。

 兄が僕を睨みつけている。

 僕は、今までと同じように、何も言わなかった。

「まあ、そんなわけだ。お前には迷惑掛けるなあ。また巻き込んでしまった。学校も変えることになってしまうかもしれないが、お前ならどこでもうまくやれると俺は思っているよ」

 父は僕に向け、笑みを見せた。

 母が、兄に似た顔でこちらを見ていた。

「うん」

 僕は小さく、父にだけ返事をした。

 状況が、整理できずに居た。

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