十四
「そ、そんなわけないだろ」
言葉になったのはそれだけだった。頭の中では思考が氾濫していたが、後が続かない。
牧瀬奈々子がどんな表情をしているのか、見ることが出来ない。
誰かに使い古されたベッドが軋む。
「そっか」落とされた声音の色も探る余裕がなかった。「そうだよね」
「そうだよ」
繰り返すしか出来ない。
「変なこと聞いてごめんね」でも、と続けた。「ほら、大事なことだから」
「うん。大丈夫、わかってるよ」
妙な間が生まれてしまった。
僕が牧瀬奈々子のことを好いているかどうか。それは何回も繰り返し考えたことだった。結論は結局いつも「彼女は武器である」というそれだけで、それで無理やり納得していたような気が、不意に、頭に落ちてくる。
首を振った。
違う。気のせいだ。そんなものは思い違いだ。大丈夫だ。
考えて、ほら、また、と誰かが言った。
いつまでそれを繰り返す? いつまで僕を無視する? お前の大事にしたがっていた意思を、どうしてないがしろにする? 水泳みたいに、自分よりうまくやれるであろう兄に、自分の好きなことを譲り渡すのか? また諦めるのか? お前は、どうしたいんだ? どう思っているんだ? この、目の前の人を。
うるさい。頭の中がうるさい。
「大丈夫?」
牧瀬奈々子が顔を見せた。困惑の色を成している。
「大丈夫」また、言い聞かせる。「なんでもない」
「そう」
居心地が悪い。
牧瀬奈々子が兄のことを好いていることは前に彼女本人の口からちゃんと聞いた。病に伏せ、いろいろ考えた結果そこにたどり着いたのだと、彼女は言った。そこにどうして僕が入り込めると思っていた? 無駄なんだ。僕がどう思うかなんてことは、世界にとっては些末な問題で、関係がないことなんだ。僕は、路傍の石。踏まれても、蹴飛ばされても、痛がりもせず、泣きもしない。そういう存在だ。
意思を見せると言ったのはお前だ。楽しかった事実も蓄積している。そうだろ? もう目を閉じるのはやめろよ。早く彼女の顔をちゃんと見ろ。ちゃんと見て、どうしたいのか話をしろよ。
対立する僕の中の僕たちを、無理やり追い出す。
考えることを放棄する。
「聞きたかったことって、それだけ?」
「うん……」依然困惑したように、牧瀬奈々子は言った。「違うなら、良いんだ」
「わかった、それじゃあ続けるよ」
「うん」
「僕が聞きたいのはひとつだけ。前に聞いて怒られてしまったことだから、ちょっと躊躇いがあったんだけど、もう良いかなと思う。これが僕にとって兄より優位に立てる知識だと思う」あのときのように浅墓になれば良い。「牧瀬さんはどうしてポニーテールにこだわっているんだ」
これを前に聞いたとき、彼女は僕を睨み「教えて何か意味があるわけ?」と言い放った。そして怒って帰り、ゆかりんが慌て、事実その後連絡も取らなくなり、ゆかりんが取り持ってくれなければこのような場に居ることもなかっただろう。ゆかりんにして「そのことには触れちゃ駄目だ」と言わしめる情報のひとつを僕が彼女から渡されていれば、これは兄にはない武器になろうと思う。
単純な計画だった。単純だが、単純な兄にはこれで良いと思っている。
牧瀬奈々子は、ひとつ息を漏らした。
「そのことか……」予想していなかったわけではなかろう。「うーん」
「兄に会うためならなんだって話すんだろ?」
そう言うと、彼女は手を振った。
「違うの」
「違う?」
なんと言ったら良いかな、と考えながら、牧瀬奈々子は続ける。
「話すこと自体は良いんだ。古屋敷くんにしても、ああなんだそんなことだったのかって言うような理由しかないんだもん。むしろ聞いて、その幼稚さにがっかりするかもしれない。ただね」ここから先、彼女は言いよどんでいた。「古屋敷くん、ゆかりんと仲良いでしょ?」
「仲が良いと言えば、そうかもしれないね。君たちの間ほどではないだろうけど」呼び名も戻り、会話もぎこちないような気がするのを、あえて見過ごす。そしてあまつさえ皮肉っぽく、「僕は他人だから」
牧瀬奈々子はそこを言及しなかった。
「古屋敷くんには何でも話すと約束したから、教えるけど、それがゆかりんの耳に入るのは避けて欲しいの」
「どうして?」
ふう、と殊更強調して息を吐き、彼女はそこで決心したようだった。
――
私とゆかりんが異母姉妹であると知ったのは、小学生に上がってからだった。それまでにも父親が居ないことへの疑問や蔑みはあったが、子どもの作り方なんて知らなかったし、うちはたまたま母親一人で子どもを作ったのだと思い込んでいた。
小学生になってゆかりんと出会い、親しくなって家に招待すると、母は彼女を見て露骨にぎこちなくなった。親たちの間でそうと口に出して関係を結んではいたが、実際に娘たちが仲良くなるとは思っていなかったのだろう。歓迎すべきなのか、無関心で居るべきなのか判断が付かないようだった。
その夜、私は全てを説明された。といえども、まだ小学生の頭で、それを十全に理解できるはずもなく、ゆかりんと私は仲良くしていて良いんだ、と純粋にそう思ったことを覚えている。
ゆかりんの母親も比較的あっけらかんとした人物で、私が遊びに行くと持て成してくれさえした。彼女はもう元夫のことなど気にしていないようなそぶりで、どうやらそのときには新しい男の一人や二人持っていたらしい。
正直に言えば、私がいつまでもゆかりんやゆかりんの母親に迷惑を掛けたことで負い目を感じているわけもなかった。何よりそんなことは親世代の話であって、私には関係がない。ただ、私の親が「自分」というものを持たず言い寄ってきた男に身を預けたと言うそれは、許せなかった。私はそうありたくないと思っている。
強情と呼ばれるような性格になったのは、恐らくこのあたりに起因するのだろうと思うが、それは今の話に関係がないのでひとまず置いておく。
私がゆかりんに負い目を感じているのは、私は、私の母を含んだ関係者の誰にも黙って、父に会っていたからである。
それはもう、もちろん現在進行形の話ではないが、小学五年生の頃から中学二年まで、半年置きくらいに顔を合わせていた。
最初に接触を試みてきたのは当然父のほうからだった。良くも悪くも引越しをしなかったせいで、彼にしてみれば娘の姿を見る機会は多大にあった。小学校からの帰り道、僅かな差でゆかりんと別れてから彼に声を掛けられた。
「奈々子ちゃん?」
どうして名前を知っているのだろうかと不審に思うよりも何よりも、もっと、言葉で説明するには難しい何かによって、私は彼に警戒心を抱かなかった。
「そうだよ」
なぜポニーテールにこだわっているのかと言えば、私はたまたまこのとき、父の前でその姿で居たからである。彼はそれを褒めた。綺麗な髪だとかなんだとか、今になって思えば拙くチープなものだった。でも私にはそれが嬉しかった。
場を公園に移して、自分こそが君の父親であると名乗った彼を、私は拒絶も否定もしなかった。そうだったんだ、と感心したくらいである。
なぜ父がゆかりんではなく私を選んだのか。想像することは出来ても、はっきりしたことはわからない。私にとってそれを父に聞くことは禁忌のように思えたし、彼もそんなことを聞かせまいとする言動を取っていた。
何をきっかけに会わなくなったのかはわからない。彼から連絡があって待ち合わせ場所に行ったが彼が居なかった。それで、連絡を返してみたが不通。現在の行方も詳細も、わからなくなってしまった。
ただ今でもこうしてポニーテールを続けることで、街ですれ違った彼が、私に気付いてくれるかもしれないと、そんな淡いことを、考えている。
――
話し終えた牧瀬奈々子は、自分の仕事をきっちり完遂したように清清しい顔をしていたが、僕にはひとつ疑問があった。
「じゃあどうしてゆかりんはあの時、あんなに焦ったんだ? ゆかりんだって、君がお父さんと会っていたことは知らないんだろ?」
「それは」忘れていた、というような仕草を見せる。「私はゆかりんに嘘を吐いているから。私がポニーテールを続けるのは、私が母に対して過去を忘れるなって抵抗している印だって話しているから。水商売をしていたとき、母はこの髪型をしていたみたいだからね」
なるほど二人の間柄も過去も知らなかったあのときにおいては、そういう背景であってもタブーになっていただろう。
「つまり牧瀬さんはあの時、ああいう演技をしたっていうだけなんだね」
「そう言っても良いかな。どう説明をすれば良いかわからなかったから、近寄らないようにした。あれが良かったのかどうかはわからないけど」
「そうか……」
「ゆかりんには言わないでね。お父さんと会っていたなんて。誰にも言っちゃだめだよ」
「うん。約束するよ」代わりに、と続けた。「僕の兄にも、その話はしないでくれると嬉しい」
「しないよ!」両手を振った。「古屋敷くんなら良いかなと思ったんだ。私とゆかりんの関係も知っているしね。そんな、誰にも彼にも言うような話じゃないから」
返事をしながら、良かった、と思った。
それは兄に話さないから自分の立場が崩れないことにあるのか、一時でさえ、自分が「特別」のように思えたからかは、わからない。
ただ、ともかくこれで、兄と戦う支度は整ったといって良い。急に身体が弛緩していくのを自覚していく。大きく溜息が漏れた。
それをどう捉えたのか、
「ごめんね、重い話だったよね」
彼女は謝った。
「いや、自分で聞いたことだから」言いながら、立ち上がる。「なんだかおなかが空いてきたよ」
作り笑顔に気付いたかどうか、
「私もー」
軽薄さを意識したように言うので、彼女の弁当を温めてやる。
同時進行でお湯を沸かしてカップ麺も作り始める。
待っている間、会話は特になかった。
「いただきます」
「いただきます」
なんだかこうしてちゃんと誰かと向き合って食事をするのは酷く久しぶりな気がした。家での食事はこれと比べればもちろん「手料理」には違いないが、結局、一人と一人が同じテーブルについているだけに過ぎない。味なんて大してしなかった。
父のことを思った。彼は多分ちゃんと全てを見ていた。知らないで居てくれたほうが、手を出してこないことに対して理由が付いたが、父の性格からしたら仕方のないことなのかもしれない。彼と僕はよく似ている。彼のやり方が正しいのかはわからないが、言葉はちゃんと受け取った。
全てが壊れてしまったら、まず、彼に謝ろう。
そんなことを考えながら、麺を啜っていると、
「どうしたの?」
彼女が声を掛けてきた。
何のことかわからずそちらを見ると、
「泣いてるよ」
彼女は手を伸ばして僕の頬に触れた。
自覚がなかった。
「大丈夫だよ」
拭ってくれる。
僕はその手を、自ら離した。
彼女の顔は見ない。
「食べたら、寝ようか」
「うん」
それぞれの食事を終え、彼女はベッドに、僕はマッサージチェアに身を預ける。
「別に良いけど」と隣を勧めてくれはしたが、これ以上、彼女に近づいてはいけないのだと、自分を戒めた。
ごめん。
心に芽生えたものは、花を咲かせていた。
歯向かってきていた一人の僕が、天下を取った。
牧瀬奈々子のことが好きだと、ようやく僕は、はっきりと自覚した。
でもそれはもう、遅いことだった。




