十三
シャワーを浴びながら考える。
ゆかりんから、出発前に言われていたことがひとつある。
泊まりに行って来いと彼女が言ったとき、同時に古屋敷くんに対して「シメジンだって話したいこと、あるんじゃないの?」と聞いたことに関して、のちにメールで真意を問うと、
「彼は奈々ちゃんに決定的なことを聞くと思うよ、多分ね。細かい内容までは想像するしかないけど」と返ってきた。「でも、答えてあげることが奈々ちゃんにとっても、彼にとってもいいことなんだと私は思う」
「ゆかりんはそれに対して心当たりがあるの?」
「なくもない、という感じかな。これかもしれないと思っていることはある。彼は単純だからね。そう何個も何個も道筋を立てられるようなタイプじゃないから」
それがどういう意味かはわからなかったが、
「とにかく私は、そこで聞かれたことに対して素直に答えれば良いのね」
そう言うと、
「そう。必ずしも冷静で居られるような質問かどうかはわからないけど、なるべくならそうしてあげて」それから、と文が続く。「出来ればそれを聞かれる前に、奈々ちゃんからひとつ、質問をしておいて欲しい。そろそろこれが、大事なことなんだ」
ゆかりんがその次に書いた文章に、彼女がどういう意味を持たせているのかはあえて考えなかった。
ただそれは、私にとっても、聞いておきたいことのひとつに違いなかった。だから、了承の旨を返した。
シャワーを浴びながら考える。
それを聞いて、私と彼の関係はどうなるのだろうかと。
その返答次第で、私の気持ちは変わるのだろうかと。
それを、考えていた。
身体を拭き服を着る。古屋敷くんはマッサージチェアに座って、目を閉じて手探りにポテトチップスをかじっていた。余裕があるのかないのか、分からない人だなと思う。
私はベッドに腰を落ち着け、テレビを点けた。何も音がないというのが嫌だった。下らないバラエティ番組を眺めるともなく眺めて、時間を潰す。
緊張していた。
――
ポテトチップスを摘みながら、踏ん切りのつかない自分のことを罵っていた。
簡単な言葉じゃないか。簡単に聞けたことじゃないか。
相手に気持ちがあるからややこしい。そう思うから面倒くさい。彼女は武器でしかないと、繰り返し自分に落とし込むが、その考え自体が彼女を「人間」と認識している何よりの証拠だ。田中氏の言うように、人間であれば恐怖もあるし、意思や理念、感情がある。嫌悪に転ずるかもしれない。
この泊まりを終えればついに僕は牧瀬奈々子を兄に譲ることになる。もちろん行動としては我が家へ招待すると言うそれだけのことで、兄がどのような行動を取って牧瀬奈々子を奪いに来るかは、僕の与り知らぬところである。どんな方法かはともかく、それで牧瀬奈々子は念願をかなえ、兄はまた僕に勝った気になるのだろう。それなら、嫌われたって構うことはない。
僕の目的は兄が勝った気になっているという状況を一転させることにあるのだから、牧瀬奈々子は関係がない。
そう。そのはずであった。
もやもやと考え続けていても仕方がない。
ポテトチップスの袋をテーブルに放って、
「牧瀬さん」
声を掛ける。
彼女はこちらを見ないまま、
「何?」
答える。
「それじゃあそろそろ」
そう言って、洗面所で手を洗ってからベッドに近づくと、まるで事に及ぶみたいな仕草だと思った。
隣に腰を下ろしたとき、タイミングが悪く彼女のスマートフォンが鳴った。
「ごめん」そう言って身を離しそれを取る。「ん、ゆかりんからだ」
「なんだって?」
安堵かどうか、溜息をひっそりと漏らす。
「えーっと、呼び名は決めたのか? だって」
ああ、すっかり、失念していた。
そんなことを考えている余裕は残念ながらなかった。
「どちらでも良いんじゃないかな」
投げやりに答えると、
「でも帰って、いつもの癖で牧瀬さんとかシメジくんとか呼んでたら、ゆかりん怒るんじゃない?」
「怒られる筋合いもないけどね……」間を外されて、意気消沈したのを自覚する。「どうしようか」
「うーん」彼女は考えながら、「やっぱり奈々ちゃんと呼ばれることだけは避けていただきたい……」
どんな理由かはわからないが、頑なな人だ。
「それは、別に構わないけど、そうなるとなんだろうね。どういう呼び方をすれば親しく見えるんだろうか」
「シメジくんって、下の名前なんだっけ?」と問われ、答えると、「うーん、くん付けで呼ぶにはちょっと呼びづらいね」
苦笑された。
僕も苦笑を返しながら、
「だから昔からあんまり下の名前で呼ばれたことはないんだ。あだ名らしいものも特になかったな」
「友達が居ないからでしょ?」
あっけらかんと言うので、怒る気力も湧かない。
「なんと言うかな」言葉を選ぶ。「確かに僕には親しい人間は居ないが、それは向こうが何かを思ってのことというよりは、僕が求めなかったんだと思う。それをうまく頭の中では誤魔化していたけどね。だから、友達が居ないと言うか、作ったところで意味なんてないと思っていた、が正確かな」
「どうして?」
と聞いた彼女に、答えることが出来なかった。
そんなものは、兄に奪われるからに決まっている。
沈黙が居心地悪く、
「でも家で古屋敷くんって呼ぶのも変な感じだよね」話題を戻した。「うちにいれば、みんな古屋敷さんだからさ。兄のことも最初はそう呼ぶんだろうし」
「そうだねえ」気にしないように努めているように見える。「じゃあー」
と言って彼女が捻出した呼び名は「コヤー」だった。どういうセンスかはちょっとわからない。
ただそこに活路を見出し、
「じゃあ牧瀬さんはマキーだね」
「マキーって」牧瀬奈々子は笑った。「ハーフタレントみたい」
「じゃあマイキー?」
「それだともはや別物じゃん! マネキンじゃん!」
「シメジだって別物だよ、きのこだよ」
そう返すと、楽しそうだった。
くつくつと笑いを続けながら、「マキーとコヤーって呼び合うことにしたよ」とゆかりんにメールを送ると、彼女からは「なんだよそれ! どこのマジシャン師弟だよ!」のあとに笑っている顔が必要以上に付いた返信が着た。その画面を見せられる。
数分考えていたようだが結局、牧瀬奈々子はそれに返事をしなかった。
そしてスマートフォンから手を離し、こちらに向き直り、
「さて、それで?」
畏まったような聞き方をする。
「うん、これから質問をさせてもらうけど、どうか怒らないで聞いて欲しいんだ。大事なことだから」
「怒るかどうかは聞いてみないとわからないよ」そう言って彼女は手をひらひらとさせ、「もしかしたら怒ってぼこぼこに殴って警察沙汰になってラブホテルに行ったことが周知のことになって学校に行けなくなっちゃうかもしれない」おどけてみせる。「まあ、そんなことはしないけどさ。ねえコヤー」
こちらを見ないままに彼女は続けた。
「ん?」
「ついでに、私からもひとつ質問しても良いかな?」
視線を合わせないようにしている、と感じた。
「牧瀬さんから?」
「マキーね」ぎこちない笑みだった。「今から呼んでおかないと慣れないよ」
「ああ、ごめん。でもなんか、真面目な感じというか、緊張感が、薄れる」
「薄れてくれたほうが良いじゃん」
「まあ、そうかも」いざ言おうとすると言いよどむ自分にとっては、ある程度気軽な雰囲気を作ってくれたほうが良いのだろうとは、確かに思う。「それで? 質問って?」
「うん」言いつつも、彼女のほうこそ緊張しているように見える。「あのね」
僕は多分、彼女が次に言った言葉に、豪く衝撃を受け、阿呆のような顔を晒したことだと思う。
答えるよりも、何を考えての質問なのかを考えるよりも、まず、頭の中が真っ白になった。
たちの悪い下らない冗談のような気がしたのは、呼び名のせいかもしれない。そんなどうでも良いことだけが頭を過ぎった。
「コヤーは、私のこと、好き……、なの?」
――
「そう。必ずしも冷静で居られるような質問かどうかはわからないけど、なるべくならそうしてあげて。それから出来ればそれを聞かれる前に、奈々ちゃんからひとつ、質問をしておいて欲しい。そろそろこれが、大事なことなんだ」
「質問?」
「うん。出来ればさらっと、私のことを好きか、って」
奈々ちゃんにそう返すと、ややあって、彼女からは了承の返事が着た。
私はそれに対し何も返さなかった。
多分シメジンは、そんな質問をされても否定するだろうと考えている。当然だ。彼にとっては、奈々ちゃんは道具でしかない。そんなそぶりを周囲に振りまいて、自分で防護壁を組み立てたつもりになっている。見え透いた嘘や冗談で誤魔化しているが、そんなもの、拙すぎて話にならない。見え見えだ。
私からその質問をしても良かった。でもそんなことをしても、彼は頑なに否定し、より一層殻に篭もり、自分の気持ちを打ち消すことになるだろう。
奈々ちゃんから持ち出すから意味がある。お互いを好き合っていないというスタート地点から、お互い好き合っているかどうかなんて気にしていないはずの相手に、そのことを聞かれる。それが大事なことなのだ。
そろそろ彼には自覚してもらわないと困る。
これまで、田中氏を唆して探りを入れたことは何度かあった。でもそれも無駄だった。
だから、ぼっちは嫌いだ。
自分の気持ちの所在もわからない、いや、知ろうとしない、あえて把握しないようにしている人間に誰が寄り添ってくれると言うのだ。
自分を見つめ、それをさらけ出すから交友関係は円滑に進む。
もうお前、違うだろ?
スマートフォンを放る。
ま、参謀は参謀らしく、ひとまずはまた、今後の状況を静観しますか。




