十二
結局、ゆかりんには甘い牧瀬奈々子と、流されるままに身を任せるタイプの僕がゆかりんの指示を断ることなどできようはずもなく、満足そうに微笑みを見せるゆかりんに、さてどんな仕返しをしてやろうかと考えていた。
「私、特に行きたいところとかないけど」
それでも牧瀬奈々子のほうでもいつまでも嫌々という態度を見せてこないことは救いだった。ゆかりんの強引なやり方で仕方なくとはいえ、それを諦められる程度には僕のことを嫌ってはいないらしく、どうこうなるつもりの有無はともかく、このふた月余り、ただ命じられるがまま出かけていただけではなかったのだろうと思えた。思えたのと同時に、だからどうした、と考える。
主張を続ける僕の中のある分野の僕を、他の全員で抑え付ける。
「浅草あたりとか行けばいいんじゃない?」
ゆかりんは人差し指を立てて提案を寄越す。
「浅草かー」牧瀬奈々子は思案顔。「あんまり興味ないなあ」
「落語とか見聞きしたいけどね」僕が殊更さらりと言ったのは、当然こんな意見などピックアップされるとも思っていなかったからだ。「じゃあどこにしようか」
「大体私あんまりお金ないんだけどなー」
「僕も最近ちょっと使いすぎて余裕ないな」
「じゃあ渋谷で良いよ仕方ない!」
「渋谷?」泊まりに行く、という名目にしては近すぎたし、余りそういうイメージの場所でもなかった。「渋谷って、渋谷?」
「そうだよ、渋谷だよ。サッカーの時期にはそれと無関係の若者たちが入り乱れるあの魔の都渋谷だよ」
「まあ買い物とかは出来るけど……」牧瀬奈々子もその微妙な土地に困惑しているようだった。「泊まるような場所あるの?」
「そんなもんラブホテルで良いじゃない。安いよ」なんでそんなことをゆかりんが知っているのか疑問だったが、追及はしない。「何より普通のホテルとかより従業員と顔を合わせる機会も少ないし、堂々としてれば高校生だとばれないでしょ」
「うーん」ラブホテルの響きに抵抗があるらしい。「友達に見られても困るしなあ」
「なんか変なこと言うやつが居たら私が取っちめてあげるよ」もちろん、と続ける。「何かあっても私は良いと思うけどね」
「おいおい」
「冗談だよ。つまり冗談でこんなことを言える程度にはシメジンのことを信頼していると思ってくれ。何もないと思っているからこその発言だよ」
うまく誤魔化されたような感は否めなかったが、そう言われるとこちらも何も言えない。
その沈黙を了解と取ったのか、
「じゃあ場所は渋谷に決定ね。別に買い物なんてしてもしなくても良いから後のことは二人に任せるよ。ともかく適当なホテルでツーショット写真撮って私にメールしてね」
「今度の連休、泊まりに行くから」
母ではなく父にそう告げたことに深い理由はなかった。少なからず、母のほうが僕に対し無頓着であるのだろうと感じられることは確かだったが、一方で父は親身になってくれるかというと、そういうわけでもなく、結局のところ大差はないのだろうとは思う。
「おう」テレビを見ながら、こちらを見ずに言う。「わかった」
「うん、そういうことだから。母さんには父さんから言っておいて」
「わかったよ」
父はテレビをそのままに、テーブルの上に置いてあった煙草と携帯灰皿を手にすると掃き出し窓を開け、サンダルを履く。会話は終わったものと判断し自室に戻ろうと背を向けたところで、
「ちょっとおいで」
父がそう言った。
「何?」
「良いから、良いから」
仕方なく、同じようにサンダルを履いて庭に出る。
庭の隅に幼少期からずっとそこにある木のベンチが半ば朽ちかけた顔をこちらに見せている。父は躊躇いもなくそこに腰を落ち着けると、僕にも座るよう促すでもなく、煙草に火を点けた。
煙が揺れる。父は空いたほうの手で足を掻いていた。
「何?」
もう一度聞くと、彼は僕のほうをじっと見て、
「お前も大きくなったなあ」
そんなことを呟いた。
「まあもう、十七になりましたよ。おかげさまでね」
「お前には苦労掛けるなあと思っているよ」父は何気なくそう言って灰を落とした。「うちの家族はみんな弱いからなあ。お前だけちゃんとしてるんだろう。優しい子だよお前は」
父は何をも明言はしなかった。
僕も返事をしないでいた。
「泊まりでも、何でもしておいで。別に、帰ってこないでも良いよ。お前のしたいようにしていい。お前の人生だし、何よりその権利が、お前にはあるからなあ」
投げやりにも聞こえるその声音の真意を、僕は正確に捕捉出来たのかどうか、わからなかった。
父は煙草を仕舞うと、立ち上がってお尻を叩いた。
「まあ、そんなわけだ」
曖昧な笑みを見せて、先に中へ戻ってしまった。
当日は夕方に待ち合わせた。
雑多な人の群れの中で、牧瀬奈々子の姿を探すのは一苦労だったが、ハチ公前で、彼女のほうが僕に気付いてくれて何とか合流できた。
「それ」僕の服装を見て彼女は微笑む。「一緒に行った時のやつか」
今日はショッピングモールで牧瀬奈々子に選んでもらったセットを着ていた。意図したかどうかで言えば、半々と言ったところで、洗濯物の都合もあったし、泊まりという未経験のことに対する緊張で、今こう言う風に会話のきっかけになればと思っていたのも事実である。
「うん。せっかくだからね」
並んで歩き始めながら、道玄坂を登っていく。ゆかりんに教えてもらったのは、ここからわき道に入ったところにあるホテルだった。連休だから空室があるかどうかは微妙なところだと言っていたが、幸い空きがあった。
どぎまぎしながら受付を済ませ宛がわれた部屋へ向かう。全体的に薄暗く天井も低いような印象を覚える。洞穴だ。
部屋は広かった。
「なんだかカラオケボックスみたいな感じだね」ひとまず難を乗り越えて安堵したのか、大きなベッドに弾むようにして腰を下ろした牧瀬奈々子が言った。「薄暗くて、防音で、よくわからない絵画が飾ってあって、鏡がある」
「まあ、言えなくもない」
案外、入れと言われて入ってみると、簡単なものだなと思う。あるいは二人にとって本来的な目的がないからこそなのかもしれない。
牧瀬奈々子は視線をぐるぐると回したあとに、シャワーとトイレの位置をそれぞれ確認していた。その際、よからぬものでも見たのか、たまに「ぎゃ」と言う声が聞こえてきて、おかしかった。
すぐ隣の部屋ではカップルか、デリバリーか、あるいはその目的のためだけに付き合っている友人たちが情事に及んでいるのかと思うと、不思議な心地だった。結局人間は、自分の部屋のことしかわからない。すぐ隣であろうと、何キロも先であろうと同じで、他人の部屋を覗き見ることは難しい。
探検を終えると、彼女はまたベッドの上に戻り、今度は大の字に寝そべった。今日はチェックのシャツとデニムパンツを合わせている。だからこその無防備だろう。
「なんと言うか、思ったより普通のホテルって感じ」大きく溜息を吐く。「うちより寝心地は良さそう」
「でもそこ、つい何時間か前まで誰かと誰かが」
冗談で言うと、彼女は飛び上がり、
「最低」
言って、笑った。
「とりあえずコンビニでも行こうか。ご飯、買っておいたほうが良いよね」
「途中で抜けられるものなの?」
「うん、さっき受付で言ってた」
下手糞な尾行でもしているようにこそこそと周囲の視線を気にしながらホテルを抜け、近くのコンビニに乗り込む。一仕事終えたように額を拭う彼女の演劇チックな仕草がおかしく、真似をすると彼女も笑った。
カップ麺とお弁当、翌朝の分にパンを、さらにお菓子と飲み物をいくつか調達し、かさばるビニール袋を両手にホテルに戻った。
荷物をテーブルに預け、異様な存在感を放つマッサージチェアに腰を落ち着け、ベッドのほうに座った牧瀬奈々子を見た。
「とりあえずあれだ、写真撮っておこう」
「そうだね」スマートフォンを取り出し、「これやらないとゆかりん怒りそう」
よっぽど彼女のほうが強情だ、と言ってみようか迷って、やめた。似ていることへの理由は、もうわかっている。何より彼女は、強引、が相応しい。
思えば周囲には強い人間ばかりだ。
牧瀬奈々子の、強情。
兄の、強欲。
ゆかりんの、強引。
田中氏は、強靭。
山下隆二は、強要と言ったところか。
それでは僕に、強い部分はあるのだろうか。父は、僕をどう評価しているのだろうか。
牧瀬奈々子はこちらに歩み寄ってくると、スマートフォンを構えて、顔を近付ける。慣れたようにピースサインを作っている。
「撮るよー」
「もしかしてこんなに安いのはこの部屋の中で自殺があったからでは……」
カメラのシャッター音が鳴る。
「えー、もう何、そういうこと言わないでよ!」
「撮ったやつを見てみよう、そこに真相が」映っていたのは、ぶれぶれの僕と牧瀬奈々子だけだった。「なんて」
「本当に陰湿だな君は! もう一回撮るからね」
誤魔化したのは、なぜだろう。
次はちゃんと、カメラを意識して、終える。
「じゃあこれ送っとくからね」
「うん、よろしく」
溜息を吐きながら、操作をしている牧瀬奈々子を、見つめた。
二人きりのこの場所で、外との連絡ツールは携帯電話のみ。僕がその気になれば「強姦」だって出来るし、それを証拠に「強請」に転じることも出来る。僕が、強ければ。
僕の強さはどこだろうか。
「牧瀬さん」
「何?」
「僕、先にシャワー浴びてしまうよ」
「え、お、うん、はい」やましいことなどしないのに慌てている。「私はテレビを見ています!」
おかしかった。どうでも良かった。
シャワーを浴びる。変にガラス張りでないところは良心的というか、一般的だった。僕が見られることはともかくとして、彼女は見られるのを嫌がるだろう。
意識の照準を合わせる。
今日この場で、僕は彼女を武器に変える。聞いておくべきひとつの疑問を解消し、それで兄を唆す。大丈夫。簡単なことだ。もし返答を拒否されても、ここに逃げ場はない。なんとしても答えさせる。大丈夫。
シャワーを終える。バスローブがあったが、結局は元々着ていた服を着る。
「さっぱりした」
夢中になったフリなのだろうが、テレビの前で体育座りをしている牧瀬奈々子に声を掛けた。どんな姿でいることを想像しているのか、こちらに顔を向けないまま、
「そりゃあよかったよ」
「牧瀬さんも、入ってきなよ」わざと声を落として、囁くように言った。「僕、待ってるから」
「ひゃえー!」悲鳴を上げて身を抱える。「何する気!」
我ながら馬鹿みたいな笑い声が出た。多分、緊張の裏返しだ。
「何もしないよ」彼女に自分の姿を見せる。両手を広げる。「最終確認をしておこう。僕と君は一応付き合っていると言うことになっているけど、お互いにお互いのことは好きじゃない。君は僕の兄に近づくために僕を利用したに過ぎず、今のところ僕もそれに協力している形だ。はっきり言えば僕はそれに価値を見出している。目的がある。君が僕を利用するように、僕も君を利用しようと思っている」
こう、はっきりと伝えたのは初めてだった。
でも彼女のほうでもそんなことは当然のように悟っていたのだろう、何も返してこない。
「この際だから包み隠す必要もないと思う。僕は兄のことが大嫌いだ。理由までは語らないが、彼のことを壊してしまいたいとさえ思っている」と言っても、驚いた表情もない。「これから僕は君にひとつだけ質問をする。その知識の有無が、僕と兄に差をもたらすと、そう思っている。もちろん、かといって、牧瀬さんが兄から同じ質問をされたとき、答えてくれたって良いんだ。そのとき、僕は明確に、彼に負ける。唯一と思っていた手だからね。これが駄目だったらまたしばらくは復帰できそうにない。ここまでは良い?」
「うん」
体育座りのまま、彼女は答えた。
「で、その質問というやつなんだが」ここまで言いかけて、彼女の目を見てしまった。「心の準備が出来たら聞くから、質問があることだけ把握しておいてくれ」
「わかった」
全てを見透かされたような気がして、熱いシャワーを浴びたばかりなのに薄ら寒くなった。
あるいはここに、誰かの魂でも彷徨っているのだろうか。
大丈夫。
聞く。今日こそはちゃんと聞く。
そしてそれで、僕は兄の上に立つんだ。




