十
「そっか、わかった」
落とした言葉にどんな感情を乗せたのか、自分でも判然としない。頭の中はぼやけて、でも妙に目の前のものはクリアに見える。牧瀬奈々子の表情には一点の曇りもなく、きれいだった。
状況だけを考えれば、目的に向かってこの上なく前進したと言っていい。兄が好きで兄に会うためならばなんでもするという彼女を、要するに僕は思い通りの武器に変えられる。今までの関係であれば僕の目的を悟られないように遠回しに行動を起こさねばならなかったが、これからは「会うためだから」と言えば済ませてくれると、そう解釈すれば、これは最上の条件が整ったと言っても、過言ではない。
強欲な兄は僕と牧瀬奈々子が家で楽しそうにしていれば、必ず彼女、もっと端的に言って「僕のもの」を奪いに来るであろうことは、当初牧瀬奈々子当人やゆかりんに話したとおり、想像に難くない。そうさせるべくもう少し恋人のふりを続ける必要があるように思われる。お互いの不可侵領域もわからず、この間のようにトンとそこに踏み入れてしまわぬよう、お互いへの知識は深めておく必要があるだろう。
そうやって必死にこの先のことに考えを巡らせていた。
熱っぽい顔でこちらを見るジャージ姿のポニーテールを、直視しないように。
「あ、ごめんね引き止めて」照れくさそうにしてコップを片付けに立った。「お見舞いありがとね」
「いや」僕も立ち上がり、玄関口へ進む。「また学校で会おう」
「うん。多分明日には出れるよ」
「わかった。じゃあ」
「うん、じゃあ」
駅までの道を歩く。
心の内のもやもやは、潰し損ねた芽が成長したせいだろうか。
思考を停止させる。
振りあがった拳を見上げて、振り下ろされた拳を受ける。
押し出すように繰り出される蹴りをまともに食らった。
兄は少し息を荒げた。水泳から離れて、ほとんど身体を動かすこともせず、煙草や酒ばかりやっているからだろう。元強化選手の現在において、せいぜいの運動が実弟を甚振ること、というのも、滑稽な話だった。
彼と僕は一体何が違うのだろうか。同じ親から生まれ、同じようなことをして育ってきたと思っていた。でも彼は僕よりうまくやれる。その差は、どこに起因するのだろうか。
兄は舌をひとつ打つと、何かをぼやいて出て行った。好きなように殴り、そのうえ勝手に機嫌を損ねられても、僕には手の打ちようがない。
半身を起こし、ベッドによじ登る。劣化したスプリングが軋んだ。
結局僕はこの部屋の中からは出ることが出来ないのだ。手を伸ばしても、足を伸ばしても、天井にさえ届かない。じたばたしたってせいぜいベッドが軋むだけ。そういう枠の中で、生きているに過ぎない。
電話が鳴った。
田中氏からだった。
「はい」
「おうおう古屋敷ー」
いつもの気楽な物言いに、辟易としている自分を悟られまいとする。
「どうしたの」
「いやあのなー」彼は楽しそうだった。「お前が帰ってからなー、しばらく野田さんとお茶してたんだけど、とんでもない情報が舞い込んできたぜー」
「何?」
「知ってたか?」わざと声を潜めているようだ。「牧瀬さんってまだ誰とも付き合ったことなかったんだ、つまり彼女は処」
通話を切る。
が、すぐに掛かってきた。
一度ため息をついてから通話ボタンを押す。
「切るなよ」けらけらと笑っている。「俺これ、大事なことだと思うんだよなー、結構」
「田中氏の性的嗜好なんて興味ないよ」
「そうじゃないよ」トーンは変わらない。「それが、お兄さんに奪われるかもしれないってとこの話だよ。古屋敷は自分のやろうとしていることの大きさがわかっていないんじゃないのかって、俺は思うんだよなー」
「別に」と言ってから、瞬間、どのように続ければいいか迷った。「別に、彼女はあの人のことを好きなんだから、良いんじゃないのか。それこそ初めてが好きで好きでたまらない人なら、問題は何もないだろ」
卑屈そうな声音にならなかったか、心配だった。
田中氏は構わず続ける。
「俺はさー、お前のお兄さんのこと何にも知らないからイメージでしかものを言えないんだよ。でもさ、それって牧瀬さんも同じだろ? お兄さんのことをイメージでしか好きじゃないんだよ。幻想だな幻想。それがトントントーンと付き合ってみてから、なんか違う、でも断れないし、って状況になって初めてを終えてしまったら、彼女、傷付くんじゃないかなー?」
「彼女なら断るだろ、嫌なことはしないと思う。それであの人のプライドがずたずたにされれば僕にしてみれば万々歳だね」
「古屋敷」すとんと落とされた言葉は、重かった。「牧瀬さんは女の子なんだぜ。道具じゃないんだ、恐怖だって感じる。お前こそがお兄さんの嫌な面を知っているんだから、ちゃんと想像しろよ」
田中氏は楽観的でありながらも、その実直さで伝えたいことは伝えてくる。
彼の言わんとしているところは理解できないでもなかったが、あえて耳をふさいだ。
「田中氏は何で牧瀬さんのことが好きなんだ」
「へ?」唐突な話題の転換に彼の頭は一時機能を停止した。「そんなこと言われてもなあ」
「理由があるんじゃないのか」
「古屋敷、お前、本当にそこにこだわるよな」
「そこ?」
「牧瀬さんが強情って呼ばれている理由、きっかけ。そんなことも聞いてきてたろ。野田さんにだって、彼女には強情にならないのはなぜなんだーって。それってさ、俺、どうでもいいことだと思うんだよ、本当に。俺が野球部を辞めないでいることもそうだけど、ただそこにそういう自分がいるって、どうして理解できないんだ? 何か理由がないといけないのか? お前はいちいちそんなことを気にして、立ち止まって、熟考しないと前に進めないのか? 今のお前は、何をしたいと思っているんだ? お前の意思は、どっちに向いてるんだ? 俺が話しているのは、そういうことだよ」
意思。
僕に意思はない。
本当に、ないのか。
病に伏せる牧瀬奈々子の家を訪れたのは、なぜだろうか。僕が、そうしたいと思ったからか。それは、意思ではないのか。
何人かの僕が自問自答を繰り広げる。収拾がつきそうにない。
喚きたてる僕を一人ずつ、殺していく。
「僕は兄に、抵抗を示したい。それだけだよ」
「なあ。本当にそこに、牧瀬さんは必要なのか?」
「もちろん。彼女が、彼女こそが兄を破壊してくれると思う。思い通りにいかないことがあるんだと、しかもそれが蔑んできた弟の手になるものだと、兄が知ったとき、僕は初めて彼に勝てるんだ」
「古屋敷」田中氏は僕の名前を呼んだ。「わかったよ。俺はもう何も言わないよ。傍観者を務める。どうなっても知らない。ただ、牧瀬さんが泣いたら、お前を殴るよ」
「保障は出来ない。でも、僕に暴力は無駄だよ」
「それでも、殴るからな」
今度は彼のほうから通話を切った。
どうしたいか。そんなのは最初から決まってるんだよ、田中氏。改めて考える必要なんてないんだ。最初から最後まで、牧瀬奈々子は道具でしかないんだ。
そう。そうなんだよ、田中氏。
君も、ゆかりんも、僕に何か変な期待をしているだけなんだ。
喫茶店で、僕とゆかりんと牧瀬奈々子の三人で顔を合わせる。田中氏も誘ったが、乗ってこなかった。
「とりあえず」コーヒーを啜りながら、眼前の二人を見据える。「二人の関係について、すっきりさせておきたいんだけど」
そういうと、何も聞いていなかった牧瀬奈々子は呆けた顔をしてゆかりんを見た。ゆかりんは頭を掻きながら、えへへと笑い、それだけで察したのか、牧瀬奈々子は大仰なため息をついた。
「何でも話すんでしょ?」
その様を見て、やや高圧的に言ってみると、
「別に大した話じゃないよ」
牧瀬奈々子はポツリと言った。
「二人は本当に異母姉妹なのか?」
「そうだよ」諦めからか、口が軽かった。「私のお母さんと、ゆかりんのお父さんが不倫してた」
「うちの両親がちょうど結婚三年目だったかな」ゆかりんが隣から補足する。「端的に言えば、飽きてきてたんだね」
「それで水商売をしていた私のお母さんのところにお客さんとして来ていて、流されるまま、お母さんは関係を持った」
「それでどうして、牧瀬さんがゆかりんに甘くなる理由になるんだ?」
「この子ってば」ゆかりんが隣を見る。「なんだか知らないけど負い目を感じているわけだよ」
「そりゃ、私のお母さんがしっかり自分の意思を持っていれば、ぐだぐだとはしなかったからね。ゆかりんの家には迷惑を掛けたから」
また、意思か。
「そんなの、奈々ちゃんが気にすることじゃないのにね」同意を求めるようにこちらを見たが、反応できなかった。「たまたま同時期に、両方の女に子どもが出来てしまった。それが私たち、というわけです」
おどけたように言う。
「なあ、それでいて、今でもあんなに近くに住んでいて、しかも出入りもするんだろ? どうしてそんな気軽なんだ」
「うちの両親はもう別れてるし、親たちも馬鹿じゃない。当時色々噂が立ったようだけど、ここで本当に引越しでもしてみたら、そうですその通りですと宣言しているようにしか見えない。引っ越した側には問題はないけど、残ったほうはやっぱり白い目で見られることになるよ。かといってどちらにも引っ越す金があるかというとそんなわけでもなかったからね。何より母親たちの中で悪いのはお父さん一人で、自分たちも、当然娘も、被害者だと思っているからね。逃げるなんて、負けたみたいじゃん。むしろあんな男に引っかかってお互い災難でしたわね、なんて言えるくらいには、今では関係も良好だよ。そういう親たちを見れば、噂も簡単に風化するよ」
なんとも簡潔に説明をくれるが、実際はもう少し複雑なのだろうとは思う。他人に言うのを憚るようなことは、誰しも抱えているものだし、そこまでも土足で踏み入る気にはなれなかった。
「ともかくいろいろあって二人は生まれたわけね」殊更軽く言ってみる。「しかし負い目を感じるっていうのがよくわからない」
「それはだから、迷惑を掛けたからで」
「でも、親同士だって変な話和解しているわけだろ? 娘だって被害者だって話なら、二人がそういう感じになっているっていうのは、なんと言うか、腑に落ちない。そこまで露骨にしているわけではないだろうけど、親だって気付きはするでしょうに」
「そんなことを言われても、本当にそれだけだから」
牧瀬奈々子はそう言うと、むっつり黙り込んでメロンソーダを飲んだ。多分、本当にそれだけの理由なのか、あるいは今この場で話す内容ではないと判断したのか。追求するのはやめた。
ゆかりんとて、全てを知っているわけではなかろう。
「わかった」それからゆかりんのほうを向き、「とりあえず僕と彼女は今後何をしたらいいと思う? ひとまずはまた、周囲に自分たちの関係を提示していくことになるかと思うんだが。やはりデートというのはよくわからなくてね。頼むよ参謀、アイディアをくれ」
参謀のワードに目を光らせ、ゆかりんは嬉しそうにした。
薄い胸をトンと叩き、
「考えてあるわ」
「それは頼もしいね」
「この間の映画デートのときの感想を奈々ちゃんに聞いた限り、やはり次はショッピングがいいと思う」
これは、僕は、馬鹿にされているのだろうか。
そう思っているのが顔に出たのか、
「服装がダサいとかそういうことは言っていないからね」とまさしく今言った。「映画に行って半券を持って、その感想を諳んじられたとしても、それじゃあまだ友達と変わらない。友達同士でも映画くらいならまあ行くでしょうから」
「そんなものなのか?」
牧瀬奈々子を見るが、首をかしげた。
ゆかりんは構わずにどんどんと続ける。
「やっぱり女が出来たら服が変わらなくちゃ。趣味をガラッとチェンジすれば、こいつ誰かに選んでもらったのかなって思うはず。香水なんかを付け始めるのも良いかもね。シメジンがまず自分では選ばないような、というより興味も抱かないようなものを身に着け始めるのは、効果的だと思う」
そこまで聞けば、一理あるかなとは思う。
「そうやって兄に対して、僕は女の存在を主張すればいいと」
「そうね。そうすればきっと興味がわくはずよ。それではっきり宣言せずとも、明日友達が来るからとか何とか言って奈々ちゃんを家に招待すれば、あの友達のいない弟のことだから、きっと連れてくるのは彼女に違いないってなりゃ、顔も見たくなるでしょう」
「わかった」言い回しが気にはなるが、突っ込みはしなかった。「じゃあ次は買い物に行こう。牧瀬さんもそれでいい?」
「うん。これからそうやってデートを重ねるなら、身だしなみは私好みにしておきたい」
「はいはい」
少し、以前のような関係に戻った気がする。
ただそれを、どこかで良しとしない自分がいるのも、確かだった。その根幹がどんな思いによるものなのかを、僕はあえてうやむやにした。
でもそれもそろそろ、難しくなってきているのかもしれない。




