蝶が海を越えない理由
人はおらず、他と変わらない平凡な島だ。
しかし、変わった蝶がいるのが目に留まった。
上陸三日目、私はこの島の蝶をまだ一度も飛ばせていない。
羽はある。大きさも形も、一般的なそれと変わらない。捕獲して指先で軽く放ってみても、落ちる。羽ばたこうとはするが、数センチ浮いてすぐに諦めるように草の上に戻る。
風が弱いからではない。むしろ、海風は強い。にもかかわらず、彼らは風に乗らない。
同じように、この島の鳥は鳴かない。喉はあるし、開こうともする。だが音は出ず、代わりに甘い匂いが漂う。個体ごとにわずかに異なるその匂いは、どうやら意思疎通に使われているらしい。
さらに奇妙なのは、小型哺乳類だ。捕食者に追われても、逃げる素振りを見せない。観察を続けるうちに、彼らは“逃げる”という行動自体を持たないのではないかと考え始めている。
どの生物にも共通点があった。
島の外へ向かうための機能が、どこか欠けている。
飛ばない蝶。鳴かない鳥。逃げない獣。
この島の生き物は、どれも「ここから出る」ことを想定していない。
四日目、海岸線の調査に出た。沖へ出るための小型ボートを用意し、機材を積み込む。出航は短時間の予定だった。
しかし、出発の直前、妙な感覚に襲われた。
胸の奥がざわつき、足が前に出ない。軽い吐き気と、耳鳴り。波と心臓の音以外感じ取れないほどの不安。
体調不良として処理し、その日は中止にした。
五日目、再び試みる。同じ地点、同じ準備。
ボートに足をかけた瞬間、昨日と同じ症状が現れた。むしろ強い。視界の端で、何かが動く。
振り向くと、蝶がいた。
一匹ではない。いつの間にか、足元から肩口まで、数え切れないほどの蝶が集まっている。どれも羽を閉じ、じっとこちらを見ているように見えた。
それ以上進めなかった。
その場に座り込み、しばらくして症状は収まった。蝶はいつの間にかいなくなっていた。
六日目、私は海に近づくのをやめた。
代わりに内陸の観察を進める。匂いで会話する鳥は、どうやら特定の方向にのみ強い反応を示す。島の中心部だ。そこへ近づくほど、匂いは濃く、複雑になる。
小型哺乳類も同様に、中心へ向かうほど個体数が増える。捕食者と被食者の区別は曖昧で、同じ水場で共存している様子が見られた。
「逃げない」のではなく、「逃げる必要がない」環境。
この島は、すべてが閉じている。
???日目
この島には人はいない。
「家族のことは思い出せるかい?」
この島の住人だ。
「……家族のことも、仕事のことも」
思い出そうとすれば思い出せる。
「そうかい」
それはただの情報。
「会いたいかい」
おばあちゃんが聞く。
「いや、別に」
帰還という行動に、意味を見出せなくなっている。
一日目、記録用の通信機器を確認した。外部への送信は行われている。少なくとも、ログ上は正常だ。
だが、返信は一度も届いていない。
二日目、海岸線に立った。
波は穏やかだった。風も弱い。体調に異常はない。
それでも、足は動かなかった。
動かそうとする理由が、見つからなかった。
足元に、蝶が一匹とまっている。
羽は美しい。だが、やはり飛ばない。
必要がないからだ。
この島では。
——おそらく、私にも。
記録は以上。
なお、ここに来てから、「帰りたい」と思ったことは一度もない。
この島は無人島だ、もちろん、全て含めて。




