03 テアさん
すでに正午は過ぎていたものの、空を明るく染める太陽はまだまだ高く、灼熱の日差しに焼けた砂浜の香りを鼻先まで運んでくる夏の風は蒸し暑かった。
凪いだ海を手漕ぎの船で渡り終えた私たちは対岸に着くや否や、数年ぶりの自由を手に入れた脱獄囚のように元気を取り戻した。
「おじさん、ありがとうございました」
「おお、おお! それじゃあああ、またなああああ」
「はい、では」
おじさんと別れた私はイルと二人、そろって町へと歩く。たった一日ではあったけれど、二人きりで過ごした小島での出来事は忘れられない思い出になったと確信した。
「やっぱり日中の外を徒歩で移動するのはきついよね」
「うん、特に日差しがね」
あまりの暑さとまぶしさがそうさせるのだろうか、なだらかな道の果てには、もやもやと陽炎が浮かんでいた。あまりに頭がぼうっとしてきたせいだろう。どこの誰だか知らないが、人がすぐ近くまでやってきている気がした。
「へーい、君たち! ちゃんと帽子を被らなきゃ、熱中症がひどいよっ!」
実際に誰か人間が近くに来ていたらしく、私たちとすれ違う瞬間に相手の男性が声を上げた。子供のように飾らない笑顔を浮かべて、私たちにピンと向けられた人差し指。
見るからに年上のはずだが、背丈は私よりも若干低い。
「あ、はい。忠告ありがとうございます。でも帽子は持っていないんです」
「へーい、君! それじゃあ、いい物をあげよぉっ!」
声の大きい彼はイルの言葉にすばやく反応すると、背負っていたリュックを勢いよく地面に落として、その場でしゃがんで何やらごそごそと取り出した。
「ほれ、これだ。これぞ万能、新聞紙!」
くしゃくしゃになった新聞紙を二枚、一枚ずつ私とイルに無造作に渡される。
「まさか、これを頭にかぶれっていうんですか?」
「パーフェクト! パーフェクトだよ君!」
「わかりましたから、そんなに騒がないでくださいよ」
あまりに高いテンションの彼に驚きつつも、とりあえず言われた通り、しわだらけで破れそうな新聞紙を帽子のようにして頭に被る。
なるほど、こうしてみれば確かに少しだけ涼しい。
「うーん、教え甲斐があるっていいねぇ」
ぼそぼそと頭をかきながら喜ぶ彼。
「あの、教えるのが好きってことは教師か何かなんですか」
「ノォォォ! ただ教えるのが好きなテアさ」
「テアさん、ですか」
「パーフェクト! そのとおりだよ君! 見れば君らは暇のようだが、よろしければ私の教え子になってみないかっ!」
何の教え子だ。なんだか怪しげな気もするのだが、ちょうど夏休みで予定はない。ここはとりあえず一度だけでも彼の話を聞いてみるのも面白いかもしれない。
何かをするにあたって二の足を踏んでばかりで冒険をしないのでは、勇気を抱えて旅に出た意味がないのだ。
「そうですね、とりあえず今日一日だけでもお願いします」
「本当にいいの、ポー? 何を教えてもらえるのかはわからないけれど、つまり勉強するってことだよ」
「まあまあ、テアさんはあんまり厳しそうな人じゃないし、とにかく面白そうじゃないか」
後ろ向きでない私の発言に気をよくしたのか、テアさんは上機嫌でこう言った。
「そうそう! 君たちは勉強熱心なようだから私の家に招待しましょう!」
そう言うとテアさんは私たち二人の手を引いて、町へと急ぎ足で進んでいった。
遠慮を知らないのか意外にも強い力で引っ張るテアさんの手に引かれて町に着くと、足取りの軽いテアさんは大通りではなく、町の小道をつかつかと進んでいく。その先で、いかにも小ぢんまりとした古い木造の一軒家にたどり着いた。
どうやらここがテアさんの自宅らしい。
人一人がやっと通れる小さな玄関は年季によって入った傷が目立ち、今にも外れてしまいそうな扉には鍵がついていないらしかった。
「久しぶりーの、来客さーん」
切り立った岩山にぽっかりと穴が開いた洞窟みたいな狭い玄関は、照明の足りない細長い廊下へと続いていた。いそいそと靴を脱いで上がってみると、薄氷が割れるようにピシピシと床がきしむ音が響く。
その音を右足と左足で演奏して楽しんでいるかに見えるテアさんは壁すれすれに先頭を歩き、その奥、とある部屋へと入った。
「どうぞっ! 入って、入って!」
内側から歓迎されるように入った部屋は、外側から見た期待を裏切るほどにきれいだった。この空間を作るために廊下を犠牲にしたのかと思えるほど広い部屋の中には、学校の教室にあるような生徒用の机が六つ並べてある。
「ポー、どうせなら最前列に座っちゃおうよ」
「いや、それだとかえって話が聞きづらいと思うけど。真ん中くらいでいいよ。何事にも適切な距離ってものがあるからね」
「まったくもう、本当に臆病だなぁ。絶対に前のほうがいいよ、前が」
イルはそのまま意地になって一番前の席に座ったので、ある程度の距離を取れる中間くらいの席に座りたかった私も彼の隣に座らざるを得なくなった。
「君たちっ! ……やる気があるねえ」
教師として教壇に立つテアさんは最前列に座った私たち二人を見比べると、熱心な生徒を見て感心したようにうなずく。
「はい。やる気ならあります。それで、僕たちに何を教えてくれるんですか?」
「まあまあ、あせらない、あせらない」
テアさんは本当にゆっくりとした動作でかばんをあさり、しわくちゃになった新聞紙を数枚ほど取り出した。
「へーい! この町について教えてあげよおっ!」
すっかり上機嫌のテアさんは右手の人差し指でイルを、左手の人差し指で私を指差しながら高笑いした。
私たちは向けられた指を呆然と見つめていたが、ひとまず小さな声で答える。
「そうですね、お願いします」
「この町は広いっ! 家もたくさんあって、暮らしている人もそこそこ多いっ!」
新聞をまじまじと見つめながら、テアさんはそんなことを言い出した。
本当にそんなことが書いてあるのだろうか。
「正確な数はわからないんですか?」
「ナンッ! そんなことはどうでもいいはずさっ!」
疑問に思えたので質問してみれば、一喝されてしまった。怒っているわけではないにせよ、これだけ近いとやはり迫力がある。
「そう、ですよね……」
大きな声で元気よく押し切られては納得するしかない。私たちはそう感じた。
「今日午後七時よりラジオニュースッ! 八時近くには天気予報ありっ!」
確かにそれは新聞に載っていることだろう。
「それ、ラジオの番組欄ですよね?」
「ナンッ! であるとしても、こういうことを知らずに何を判った気になるつもりかね!」
この人、さっきから叫んでばかりだ。
「すいません、うかつでした」
「わかればよろしーい」
満足したのかテアさんは大きくうなずいた。あまり口出ししないようにしよう。
「それからー! この町はー、わたしのー、ふるさと。生まれたころからー、ずっと住んでいるー!」
やはりテアさんは新聞をまじまじと見つめている。記事を読んでいるそぶりだが、あくまでもテアさんの個人情報なので、紙面のどこにも絶対にそんなことは書いてないはずだ。
「そうですか。覚えておきます」
こんな授業は一時間も続いたのだった。
頭がよくなるどころか、まともに聞いていれば頭が痛くなってくるようなテアさんの独特な授業が終わり、知識欲を満足させられぬものの、気分的には満腹になった私たちはテアさんの家を後にした。
もう外はベッドへ向かって背中を押すように暗くなってきていたので、寄り道せずに宿へ向かうことにした。
静まり返った宿に入ると今日は他に来客の姿もなく、おばさんが一人で椅子に座って居眠りをしていた。
「起こすのは悪いよね、やっぱり」
「まあ、一度許可は得ているから起こさなくても大丈夫だとは思うけど」
私たちはおばさんを起こさないように細心の注意を払いながら歩いていたが、イルに続いて私がおばさんの近くを通りかかったとき、急におばさんは顔を上げた。
「ああ、お帰りですかあ。どうぞどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「かまわんよう」
おばさんに軽くお辞儀をして部屋へ急ぐと、たまっていた疲れからか、すぐに眠たくなる。
ろくに食事もできていないけれど、食欲もなくなるほどに疲れてしまっていて、部屋に入った私たちはもう寝てしまうことにした。




