第1話 転生の係長
冥界の午前は、いつも淡い灰色だった。
湿り気を帯びた空気が、ゆっくりと静脈のように街路を流れ、
薄暗い事務棟へと吸い込まれていく。
オルド・アルヴァード、冥界魂管理課係長はいつものように重たい扉を押し開けた。
積まれていた。
机の上に、また申請書が積まれていた。
機材破損報告書
転生順番変更・理由書
有給休暇申請書
一枚一枚の紙に、サッと目を通す。
「……今日も地獄のようだな」
冥界なのだから当然なのだが、本人は軽く冗談を言ったつもりだった。事務室はまだ静かで、人の気配はない。
始業の合図と共にオルドは深く椅子へ腰掛け、淡々と仕事を始めた。
---
書類に触れるたび、魂の残響がふっと脳髄に触れる。
オルドは慣れた手つきで、魂の履歴書を覗き込み、
必要な部分だけを確認していく。
生前に抱えていた後悔。
未練。
残された歪み。
転生に支障が出ないよう、それらに軽い調整を加える。
これは冥界ではごく普通の“事務作業”だった。
たとえば今扱っている魂の履歴書。
──死因:過労死
──転生希望:未記入
「……未記入は困るんだがなあ」
彼は苦笑しながら、軽く修正印を押す。
そのとき、背後から誰かが駆け込んできた。
「オルド係長っ! 大変です!」
若い補助書記官の声だ。
息を切らせている。
「何かあったのか?」
「“上”の階層で事故が……! 魂の流れが乱れて、配置が滅茶苦茶に!」
「またか……。では人員の手配を――」
「いえ、あの……今回は、係長が……直接呼ばれています」
その言葉に、オルドは一瞬だけ眉を上げた。
係長が“直接”呼ばれるのは異例だった。
管理局は階層構造が厳しく、係長職は基本的に最前線に出ない。
嫌な予感が、冷たい影のように背中を這った。
---
数分後。
オルドは薄暗い階段を上がり、巨大な転送室へ入った。
そこでは、数名の監察官が蒼白な顔で事態を眺めていた。
「オルド係長、状況は見ての通りだ」
「……ひどい混線ですね。“転送流”が逆流している」
「ああ。それだけではない」
監察官の一人が震える指で、転送装置の中央を指す。
そこには──ひび割れた転生ゲートがあった。
本来、魂を送るための光の柱が、まるで壊れた灯台のように揺らぎ、 黒い靄を噴きこぼしている。
「ゲートの“番号ズレ”が起こっている。魂が誤って別の次元へ吸われかねん」
「……そんな現象、マニュアルにも載っていませんでしたが」
「載っていない。前例がないからな」
静まり返った空気の中、誰かが息を飲んだ。
「オルド係長、あなたの処理した魂が、最後にゲートを通ったようです」
「……つまり事故原因を調べろと?」
オルドは一瞬迷った。
危険すぎる。
ゲートに近づくだけで巻き込まれる可能性が高い。
だが、誰かがやらねばならない。
「……わかりました。やってみましょう」
静かにゲートへ歩み寄る。
ひび割れた光の柱から、微かな呻き声のような音が聞こえた。
先程ゲートを通過した魂だ。助けを求めている。
「大丈夫だ。すぐに助けてやる」
彼は手を伸ばし、ひび割れた光にかすかに触れた。
次の瞬間。
世界が、音もなく割れた。
視界が白く弾け、体が引きずられるように宙へ浮いた。
まるで無数の手が足首を掴み、奈落へ引きずり込むかのように。
「……ッ!」
反射的に何か掴もうとしたが、遅かった。
〈転生ゲート:誤作動〉
〈行き先:不明〉
〈送信対象:オルド・アルヴァード〉
淡白な冥界フォントのシステム表示が、視界の端に一瞬だけ浮かんだ。
「ちょっ……待て、なぜ私が送られる……!」
監察官たちの叫び声が、遠ざかっていく。
「係長が吸われたぞ――!!
止めろッ、ゲートを閉じろ!!」
オルドは落ちていた。
底のない深い穴へ。
霧と闇が混ざり合った不気味な奔流の中へ。
(……溜まっていた書類は……もう処理できそうにないな…)
皮肉にも、最後に浮かんだのは係長らしい感想だった。
---
光が消える。
世界がねじれる。
そして──
次の瞬間、世界が反転した。
ひやりとした土の感触が背中に伝わる。
薄い霧の匂い。
耳鳴りだけが残り、明るくなった視界はまだ揺れていた。
「……ここは……?」
ゆっくり上体を起こす。
周囲は森——のはずなのに、何かが違う。
葉のざわめきは知っているはずなのに、まるで聞いたことのない音の重なり方をしている。
胸のあたりがざわつく。
何かおかしい。何か決定的に。
——直前まで何をしていた?
明確に覚えているはずの記憶が、ところどころ雑音のように濁っている。
手違いだ、何かがおかしい、と叫ぶ感覚があるのに、理由が掴めない。
夢を見ていた? 違う。もっと現実的な、もっと深刻な——。
「……落ち着け。状況を整理だ」
周囲を見渡し、深呼吸する。
森は静かだが、不思議と生き物の気配を感じる。
立ち上がろうとした瞬間——
身体が軽い。
自分のものではないような筋肉の感覚。
長年馴染んだ動きの癖が、わずかにずれている。
「……どういうことだ?」
俺が状況を理解しようと必死に考えを巡らせていると、
カタカタ…カタカタ…
遠く、馬車が走る音が聞こえる。
声までは届かないが人であることは間違いない。
森の異様な静けさよりも、人の存在の方がはるかに安心できた。
俺はゆっくり、慎重にそちらへ歩き始める。
歩くほどに、森の空気が少しずつ薄れ、草の匂いと土の湿気が感じられなくなっていく。
ようやく木々を抜けると、視界が開けた。
落ち着こうと深呼吸したそのとき、
林の向こうから、人の話し声が近づいてきた。
数人の旅人らしき影が浮かび上がる。
俺も安堵し、彼らの方に目をやった。
「おい、大丈夫か?」
「こんなところで何してるんだ、坊主。迷子か?」
……坊主?
思わずまばたきをする。
「……坊主、とは?」
「はは、強がるなよ。親とはぐれたんだろ? 怪我はしてないか?」
心臓が一拍遅れて跳ねた。
——自分が“子供”だと?
理解できず、言葉がすぐに出てこない。
旅人は優しく俺の肩に手を置いた。
その手がやけに大きく感じられるのはなぜだろう。
「……自分は、迷子ではない。それに……子供でもない」
「はは、言うねぇ。まあ、街までは一緒に来な。この辺で子供一人は危なすぎるぜ」
旅人たちは疑う様子もなく、当然のように子供に向ける調子で声をかけてくる。
自分の腕を見下ろした。
細い。
記憶にあるより短い。
体の動きすべてが軽い。
——これは、いったい?
混乱は深まるばかりだったが、この場に独り残る選択肢はなかった。
旅人たちの後ろにつき、歩き出す。
木々を抜けると、視界の先に明かりが見えた。
崩れかけた外壁が遠くに影を落とし、しかし人の営みの息遣いは確かに存在する。
——知らない街だ。
その名の知らぬ街へと足を踏み入れながら、胸の奥でひとつだけ確信していた。
自分に起きているこの異変は、単なる違和感ではない。
混乱は収まらない。だが立ち止まっていても始まらない。
ゆっくりと灯りの方へ歩き出す。
この街での出会いが、後に自分の運命を変えるとは——
まだ何も知らなかった。




