②
俺とエリカが出会ったのは、約1年前。
俺が樫並交番に勤めて、半年ほどがたったとき。
「すみませ〜ん」
本部からの電話を受けて、ちょうど通話を切ろうと受話器を置いたときだ。
下校途中だろうか、黒のランドセルを背負った男の子がやってきた。
「やあ、こんにちは。なにか用事かな?」
俺はにこやかに微笑みながら、男の子の背丈に合わせるようにして屈んだ。
背中がランドセルで見えなくなるほどの小柄な男の子は、おそらく今年の春に入学したばかりの小学1年生だろうか。
黄色い帽子もゆとりがあって、被っているというよりは被されていると表現したほうが正しい。
「あの、お巡りさん。落とし物拾ったんですけど」
「落とし物?わざわざ届けてくれたのか。ありがとう」
男の子を交番の中へ案内し、パイプ椅子に座らせる。
「で、なにを拾ったんだい?」
「これ」
そう言って、男の子が差し出したのは鉛色に輝く鍵だった。
形からして、おそらく家の鍵。
大ぶりなクマのマスコットのキーホルダーがついている。
なくさないようにとつけたのだろうけど、それで落としてしまっては本末転倒だ。
「どこで拾ったとかいろいろと聞かせてほしいんだけど、いいかな?」
俺の問いに、男の子はこくんとうなずいた。
俺は男の子の話を聞きながら、代わりに拾得物件預かり書に記入していく。
「拾った場所は?」
「そこの公園の入り口らへん」
「じゃあ、ついさっき拾って持ってきてくれたのかな?」
「うん」
――大ぶりのクマのマスコットのついた鍵。
見るからに、この男の子と同じような小学生が落としたのだろう。
ピンクのリボンを首に巻いた白色のクマからすると、落とし主は女の子。
落としたことにも気づかずに、そのまま帰ってしまったか。
今頃鍵がないことに気づいて、家に入れずに困っているに違いない。
かわいそうに。
「よしっ、ありがとう。この落とし物は、お巡りさんが責任持って預かるね」
「落とした人…見つかるかな?」
「手元にないことに気づいたら、この交番まで探しにきてくれるんじゃないかな。キミが拾ってくれたおかげで、きっと持ち主に返せると思うよ」
俺の言葉に、男の子は照れたようにニッと笑った。
こうして、幼い頃から正義の種を育てるのも警察官の立派な仕事だと自分に言い聞かせる。
いいことをしてお巡りさんに褒められた。
そんな自信が表情からうかがえる男の子の姿が小さくなるまで手を振って、俺は中へと戻った。
「あ〜、暇っ」
しっかりとドアを閉めたのを確認してため息をつく。
先輩は交通事故の処理で呼ばれ、30分ほど前から出かけていて今ここにいるのは俺だけ。
だれかが訪ねてきたと思ったら、鍵を拾った小学生の男の子。
…つまんねぇ。
毎日昼寝休憩があってもいいのではと思うほど、樫並区は本当になにも起こらない平和な街。
この時間、机に突っ伏して寝たいところだが、ドアを閉めていてもガラス戸のため外からは丸見え。
仕方なく、なにか作業をしているふうを装うため雑務の書類を整理していた。
――そのとき。
「すみません」
だれかがドアを開けた。
なんだ?また落とし物か?
そう思いながら、俺はゆっくりと顔を上げると――。
その瞬間、稲妻が脳天を貫くようなそんな衝撃が全身を駆け巡った。
どう表現したらいいかわからないが、“ビビッときた”とはまさにこのこと。
俺が1人でいる交番にやってきたのは、サラサラと流れる黒髪ストレートのロングヘアの女性だった。
目鼻立ちがはっきりとした、俺好みのキリッとした整った顔。
ボディスタイルがはっきりとわかるノースリーブのタイトなワンピースから生えるほどよい細さの腕と長い脚。
顔とスタイル含めても非の打ち所がない、まさに“絶世の美女”と呼ぶべき女性がそこにいた。
その女性を見た俺は、一気に心拍数が上がる。
このまま激しい動機でどうにかなってしまうのではと思うほど、胸の鼓動を抑えられない。
これが、俗に言う『一目惚れ』というやつだと思った。
『好きです!付き合ってください!』
そんな突拍子もないような言葉が口をついて出てきそうになったのをなんとか飲み込む。
…危ない、危ない。
突然なにを言おうとしてんだ、俺は。
でも、それが本音だった。
「…ど、どうかしましたか?」
飲み込んだ言葉の代わりに、業務的な言葉を投げかける。
しかし、その声は緊張で上ずっていた。
「えっと…、たぶんこの近くで落とし物をして。こちらに届いていないかと思いまして」
「そういうことでしたら、遺失届をご記入いただくことになります。どうぞ、こちらにおかけください」
「はい」
黒髪の女性は、少し安堵したように表情を緩ませ会釈する。
気が強そうな顔立ちにも見えるが、そのしおらしい態度のギャップが男心をくすぐる。
彼女がパイプ椅子に腰掛け、俺が机を挟んだ向かい側に座る。
「こちらが遺失届になりますので、この太枠内をご記入ください」
「わかりました」
細くて長い指で、俺が手渡したボールペンを握る彼女。
距離が縮まったことで、彼女からフローラルのような甘い香りが漂っていることにも気づいた。
彼女は俺に言われたとおり、遺失届を上から順に書いていく。
名前は、堤絵梨花。
“エリカ”っていうんだ。
きれいな響きだな。
スマホの番号は、080ー256――。
はぁ〜…。
今すぐこの番号に電話したい。
それで食事に誘って、何回かデートを重ねたのち、ゆくゆくはお付き合いたい。
こんな自分の理想を形にしたような人、もう二度と巡り会えないだろうから。
エリカの住所も連絡先も俺の視界内にあるというのに、見ているだけのお預けだなんてなんという仕打ちだろうか。
このまま、交番を訪ねてきた一般市民とその交番でたまたま対応したただの警察官という関係で終わりたくない。
どうにかしてエリカと接点を持ちたい。
そして…、繋ぎ止めておきたい。
「ちなみに、なにを落とされたんですか?」
「鍵です」
「…鍵?」
「はい。家の鍵なんですけど、白いクマのマスコットをつけてて…」
それを聞いて、俺はごくりとつばを飲み込んだ。
なんという偶然だろうか。
そのクマのついた鍵なら、さっき少年が届けてくれたばかりだ。
特徴からしても、ほぼ間違いないことだろう。
「よかった!それなら、少し前に小学生が拾ってここへ届けてくれましたよ」
と言うのが警察官としての俺の責務だろう。
そうして、エリカは安堵した表情を浮かべ、俺にお礼を言って――。
なんていう、めでたしめでたし!チャンチャン!な平和な幕引きにするわけねーだろ。
心の中の悪魔の俺がニヤリと微笑む。
「残念ながら、まだこちらには届いていません。家の鍵となると、ないと困りますよね。お家へは入れますか?ご家族とご一緒だとか」
「私、一人暮らしなんです。このあと、マンションの管理会社に電話してみる予定です。それでなんとかなるとは思います」
「そうですか。それならよかったです。見つかり次第、こちらの番号にご連絡させていただきますので」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
エリカは礼儀正しく俺にお辞儀をすると、こぼれた黒髪を指ですくって耳にかけて微笑んだ。
俺は、笑顔でエリカを見送る。
しかしこの笑顔は、『俺が必ず探し物を見つけてあげるから』という自信に満ちあふれた意味合いではない。
中へ戻ると、さっそく俺は拾得物を保管している棚を開けた。
そこにある拾得物は1点のみ。
そう。
先程、小学生の男の子が届けてくれた白色のクマのマスコットがついた鍵だけだ。
そのとき、窓の外に事故処理の現場に向かっていた先輩が原付で帰ってきたのが見えた。
先輩が原付を止めようとしてこちらには一切目を向けていないことを確認すると――。
俺はそっと、その鍵をズボンの右ポケットに忍ばせた。
「お疲れ、井岡」
「お疲れさまです。意外と時間かかりましたね」
「そうなんだよ。たいした事故じゃなかったけど、運転手がお互い譲らなくてそっちの対応に時間食った」
「それは本当にお疲れさまっす」
やれやれとため息をつく先輩を見て、俺は苦笑いを浮かべる。
「それはそうと、こっちは?なんかあった?」
先輩の問いかけに、俺は一瞬心臓が跳ねた。
チラリとズボンの右ポケットに視線を移す。
「なにも。相変わらず平和で助かってます」
「だよな。悪いな、オレがいない間に雑務させて」
「いいえ。そんなことないっす」
俺はニッと口角を上げる。
そして、先輩が奥の部屋へ向かった隙に、さっき小学生に聞き取りをして俺が記入した拾得物件預かり書をシュレッダーに書けた。
その日のうちに、エリカが書いた遺失届は警察署へと渡った。
しかし、おそらく遺失物と同一のものであろうものが記載された拾得物件預かり書は、今ではバラバラになった紙くずとなり、さきほど可燃ごみとしてまとめて出したところ。
あの少年がしゃべらない限り、この交番に鍵は届けられていないことになる。
それでいい。
そもそもそんなもの、届いていないのだから。
それから数日後。
交番にエリカが現れた。
「こんにちは、お巡りさん」
「こっ…こんにちは!今日はどうされましたか?」
「実は、あのとき落としたと言っていた鍵が見つかって。お礼を言いたくてきました」
エリカは、目を細めて笑った。
笑った顔はさらに素敵だ。
「それはよかったです。ぼくは遺失届を書いてもらっただけで、なにもしていませんよ」
「そんなことないです。交番に入るの…初めてだったので緊張していて。同じ歳くらいのお巡りさんに対応してもらえて、とっても話しやすかったです」
…なっ。
なんていいコなんだ…!!
顔よし、スタイルよし。
おまけに性格までよしとなると、そんな完璧な人間が存在するのかというほうが疑わしい。
しかし、現に俺の目の前に存在する。
「あの日は、管理会社から合鍵を預かって入ることができたんです。でも、1週間たっても鍵が見つからない場合は鍵ごと交換する必要があると言われて…。なので、早く見つかってよかったです!」
「そうだったんですね。それは本当によかったです」
見つからなかった鍵ごと交換?
そんなの、たまったもんじゃないな。
――なぜなら。
エリカの部屋の鍵は、俺もおそろいで持っているというのに。
俺はあの日、エリカの遺失届だけを提出し、拾得物件預かり書はなかったことにした。
鍵はまだ届いていないとするため。
そして、その日の帰りに鍵屋へと立ち寄り、届けられたエリカの鍵の合鍵を作った。
「彼女と同棲するんです。だから、俺の部屋の鍵を彼女に渡そうと思って――」
と、聞かれてもいない話を鍵屋のおじさんに話して。
そんなふうにして、俺用のエリカの部屋の鍵を作ることはさほど難しいことではなかった。
その次の日、俺は先輩がいない間に今日の日付で拾得物件預かり書を書き直した。
もともと、俺が少年の代わりに書いていたから筆跡はどうでもいい。
ただ、重要なのは日付。
本来であれば、鍵が届けられたあとにエリカが鍵を探しにやってきた。
しかし、それをエリカがやってきたあとに、少年が鍵を届けたように日付を細工した。
日付か1日違うだけで、こうも意味合いが変わってくる。
…が、これでいい。
この鍵が俺とエリカを繋ぐ唯一の証なのだから。
それから、遺失届に書かれていたエリカのマンションの住所は記憶しておいたから、アプリのマップで探し出して行き方を調べた。
非番の日に行ってみると、樫並区の隣『橋間区』にある駅から徒歩10分ほどのところにある12階建てのマンションだった。
賃貸マンションにしてはきれいに整備された外観に、どこか高級感漂うエントランスで、一見分譲マンションと見間違うほど。
そのためか、出入りする入居者は女性が多いような気もする。
ただ、こんなに整ったマンションだというのに、まさかの玄関がオートロックではなかった。
とは言っても、オレンジ色の温かみあふれる照明に包まれたエントランスに、マンションとは無関係な人間がなに食わぬ顔で入るには抵抗がありそうな雰囲気はかもし出されていた。
しかし、そこをなに食わぬ顔で入ってしまうのが俺だ。
「こんにちは〜」
エントランスですれ違う住人に対して、笑みを見せながらペコリと頭を下げる。
いいマンションに住んでるんだな、エリカは。
さすがに今日は下見だけなのでエレベーターに乗って上には上がらず、エントランスで引き換えした。
この辺りは住宅街で、戸建ての家もたくさん並んでいるが、至る所にマンションもある。
エリカのマンションの通りを挟んだ目の前にも、少し築年数が経過していると思われるマンションがあった。
その足で、駅前付近の広告でお馴染みの不動産会社へと入った。
「すみません。この辺りで賃貸マンションを探しているのですが」
そう言って訪ねた俺を担当者はすぐに案内した。
聞くと、エリカのマンションはこの辺りの家賃相場よりも2万円近く高かった。
しかし、それでも満室状態の人気物件。
一方、その向かいのマンションは平均的な金額の家賃。
むしろ、わりときれいな外観の雰囲気からするとお得にも感じる。
「あの、このマンションが気になるんですけど、空き状況って――」
俺は、エリカのマンションの向かいのマンションに写真を指さした。
しかし、調べてもらった結果、こちらも空きはなし。
あからさまにショックを受けた。
「ですが、2ヶ月後に退去される予定のお部屋が一室ございます」
「本当ですか!?」
担当者の言葉に俺は目を輝かせる。
それが、俺が今住む9階の部屋だった。