①
薄暗い部屋に鳴り響くインターホン。
俺は両耳を塞ぎ、その絶え間なく繰り返される機械音に怯えながらカタカタと震えて床にうずくまる。
「もうやめ……。…やめてくれっ!」
まるでだれかに鷲づかみされたかのように心臓が苦しく、不規則な呼吸をゼェゼェと繰り返し、極度の緊張感に顔からは脂汗がにじみ出る。
インターホンを押しまくるだけでは飽き足らず、ドアをガンガンと荒々しく叩き始めた。
だからといって、…絶対に出てはいけない。
なぜなら、あのドアの先にいるのは――。
女神の顔をした悪魔だから。
* * *
俺の名前は井岡昴大。
26歳、職業は警察官。
ファミリー層に人気の街、樫並区の駅前にほど近いところにある樫並警察署本町一丁目交番に勤務する巡査だ。
樫並区は治安もよく、事件なんてめったに起きない。
たまに通報があって駆けつけたとしても、小さな交通事故の処理や酔っぱらい同士の喧嘩くらい。
日々の仕事と言えば、交番前を通りかかる市民のみなさんへの挨拶から始まり、地域のパトロール。
まれにやってくる迷子の応対や落とし物の書類処理。
他の地域の交番に配属された同期たちからは、口を揃えて『平和でうらやましい』と言われる。
俺も地域に密着した仕事がしたかったから、今のこの感じが合っていると思う。
「お巡りさ〜ん、あっちの木に風船が引っかかっちゃった〜…!取って〜!」
という子どもの頼み事。
「お巡りさん、すみませんがね。ここへ行きたいのですが、どのように行けばいいですかえ?」
というお年寄りへの道案内。
自分でもこの街は本当に平和で、いい意味でなにもないと思っている。
そんな街の平和を守り続ける樫並警察署の交番警察官であることに俺は誇りを持っている。
「よう、井岡」
「おお、高橋!」
今日は座学研修で本部にきていた。
昼休憩のとき食堂でからあげ定食を食べていると、警察学校で仲よくなった同期の高橋に声かけられた。
「ここ、空いてる?」
「おう」
俺の返事を聞くと、焼き魚定食ののったトレイを持った高橋が俺の向かいに座った。
「どう?樫並は?…って、聞かなくてもわかるわ」
「じゃあ、聞いてくるなよなー。で、高橋はどうなんだよ?」
高橋は、ホストクラブやキャバクラといった飲み屋街が多くある街の交番に勤めている。
「毎晩ってくらい、未成年を補導してるよ。それに、ドラッグ使用者も多い」
「マジか。こっちじゃありえねぇよ。少し離れてるだけで、こんなにも違うもんなんだな」
「そうだな。オレも樫並みたいにのほほんとパトロールができる地域がよかったなぁ」
「いいぞー、樫並は。何事も平和が一番だよ」
そのあとは、あの同期が振り込め詐欺を未然に防いで受け子を捕まえたとか、またあの同期は交通違反の取り締まりにひと役買っているとかの話を高橋から聞かされた。
実績を積んで早く昇進できるようにと志の高い同期が多く、俺の向かいに座る高橋もまた、この前の初めての昇任試験で見事巡査長に昇格した優秀な人材だ。
「すごいな、高橋は」
「そんなことねぇよ。それに最近、オレも井岡みたいに地域に密着できる仕事もいいなと思い始めてるから、このまま交番勤務を続けることも考えてる」
「そっか。いいよな、交番!」
「だな!」
俺と高橋は笑い合う。
それから数日後。
今日は久々に大学のときのサークル仲間と飲む約束をしていた。
場所は、駅前にある居酒屋。
1年前にふらっと立ち寄った店で、料理はうまいし値段はリーズナブルで、店長やアルバイトスタッフのコの愛想もいい。
1人で飲めるカウンター席もあれば、半個室もあり、だれかとの飲みで俺が店を決めるとなったらいつもここにしている。
半個室に集まったのは、俺を含めた男3人と女1人。
大学の頃は、よくこの4人で遊んだりしていた。
「「カンパ〜イ!」」
注文したドリンクが揃い、さっそくみんなで乾杯。
「それにしても、ご無沙汰だよな?」
「そうだな。なんだかんだで、1年近く会ってねぇもんな」
「ちょうどみんな、仕事が忙しくて予定が合わなかったもんね」
「そうそう。最後に会ってからもう1年とか、マジで早ぇわ」
俺たちは注文した料理をつまみ、世間話をしながら酒を飲み進める。
近況報告もしたが、俺と隣に座るやつはとくに以前と変わりなかった。
しかし、向かいに座る2人は――。
「実は…」
「オレたち、結婚することになりましたー!」
予想もしていなかった突然の報告に、思わず枝豆を喉に詰めそうになった。
「…けっ、…結婚!?」
「は…!?お前ら、付き合ってたの!?」
なにも知らない俺たちは口をあんぐりと開けて驚いた。
聞くと、去年の4人で会った最後の飲み会のあとからそういう雰囲気になったらしい。
それで、この前プロポーズしたらしく、今日報告しようという話をしていたんだとか。
たしかに、やけに距離が近いとは思っていたが。
「なんかいきなりでビビったけど、おめでとう!」
「ありがとー!」
「ありがとう」
隣のやつがそう言い出したから俺もはっとした。
まずは祝いの言葉だと。
「お、おめでとうっ」
「昴大もありがとう!」
「式の日取りが決まったら連絡するから、きてくれよな」
「当たり前だろ!」
間髪入れず隣のやつが言うものだから、俺もブンブンと首を縦に振る。
「それにしても、26で結婚か〜。早くね?」
「そう?サークルの同期の中なら、結婚してもう子どもいるコだっているよ〜」
「マジで!?」
「まあもちろん、まだ独身のやつのほうが多いけどな」
恋愛に奥手な俺からしたら、『結婚』ですらパワーワードだというのに、それに加えて子どもまで…。
そういえば、半年前にも3個上のいとこが入籍したところだし、来月には職場の先輩の結婚式の予定もあった。
年齢的にも、最近周りで『結婚』という言葉を多く耳にするようになった気がする。
そんなことを考えながら、俺は静かに3人の話を聞いていた。
「で、昴大は?なんかないの?」
いきなり俺に話が振られて我に返る。
「へっ…!?なんかって?」
「彼女とか!いないの?」
俺がぼけっとしている間にそういう話になっていたらしい。
ちなみに俺の隣にいるやつは、先月新しい彼女ができたとか。
「あ〜…、俺は――」
「お待たせいたしましたー!焼き鳥の盛り合わせです!」
そのとき、俺たちの席に元気な声でボブヘアの小柄なスタッフがやってきた。
胸元の手書きのネームプレートには、デカデカと【ミク】と書かれてある。
「ミクちゃん、今日入ってたんだ」
「本当は大学のレポートに追われてて、今日は休みの予定だったんです〜。でも昴大さんの予約見つけて、店長に無理言って今日シフト入れさせてもらって、昨日徹夜でレポート終わらせてきました!」
ミクちゃんは舌をペロッと出しながら、かわいく敬礼をしてみせる。
「徹夜したの?べつに今日じゃなくたって、俺1人でならまたちょくちょく飲みにくるのに」
「ダメなんです!昴大さんがお店にくるときは、ミクは絶対なんです!」
ミクちゃんは無邪気な笑みを見せると、あとの3人に愛想よく会釈をして仕事に戻っていった。
ミクちゃんの後ろ姿が見えなくなったとたん、3人が一声に俺に目を向けた。
「はは〜ん。昴大、そういうことか」
「そういうことって?」
「さすがのオレも、それくらいわかるわ」
「だから、なにがだよ?」
「ごまかさなくたっていいじゃないっ。今のコ…、彼女でしょ?」
「はぁぁあ!?」
…なにを言い出すかと思えば。
俺は危うく、飲みかけていたビールを吹きそうになった。
「ミクちゃんが…、彼女!?」
「だってそうでしょ。今の感じ見てたら」
「ないないない!ミクちゃんは、ここのスタッフってだけだから!」
1年前、俺が初めてここへきたときから社交的に話しかけてくれた女の子。
この前、二十歳の誕生日を迎えたと話していた今どきの女子大生だ。
成人しているとはいえ、6つ年下の女子大生に手を出すのは…さすがに俺の中の倫理観が許さない。
「そんなに否定する?かわいいコだったじゃない」
「だよな!同じ大学だったら絶対狙うわ〜」
たしかにミクちゃんはかわいいと思う。
実際に俺がここで1人で飲んでいるときも、男性客から声をかけられているのはよく見る光景だった。
「でも俺、ミクちゃんはタイプじゃないんだよな」
俺は、“かわいい女の子”よりも“きれいな女の人”が好み。
ミクちゃんは完全に“かわいい女の子”に分類される。
「昴大って、大学のときからそうだよな。理想が高いというか」
「だよね。月9に出てたあの女優がタイプとか言われても、そんなの現実にいるわけないじゃんって思ってたもん」
「昴大、顔は全然イケてるほうだから、選ばなきゃすぐに彼女だってできるのに〜」
3人は酒のグラス片手にケラケラと笑う。
俺に彼女がいないからって好き勝手に言っている。
余計なお世話だ。
いいじゃねぇか、美人女優が理想だって。
「女のほうからしても、そんなに理想高い男は引くって!だから、昴大はいつまでたっても彼女が――」
「彼女ならいるけど?」
俺のそのひと言に、この場の時間が一瞬止まった。
3人とも身動きひとつしない。
その代わり――。
「「えぇぇぇぇぇぇえええ!?」」
とっさに顔をしかめたくなるくらいの耳をつんざく声量で発狂する3人。
半個室だから当然隣の席にもうるさい声が聞こえているわけで、俺は両隣の席に仕切り越しにペコペコと頭を下げた。
「…そんなに驚くことかよ」
「だって、だって…!あの昴大だよ!?」
「なんだよ。お前らから聞いてきたくせに、俺に彼女がいちゃダメなのかよ」
「べつにそういうことを言ってるわけではないけど…」
「写真とかねぇの?」
「見たい!見たい!」
3人が俺の彼女のことで、こんなにも驚くとは予想外だった。
俺だって、彼女の1人や2人くらいいる。
顔認証でスマホのロックを解除すると、写真の保存アプリをタップ。
その中から1枚の写真を見つけ、3人に見せつけた。
「これが彼女」
俺のスマホの画面に映し出されたのは、前髪をセンター分けした、握り拳で表されるような小顔の美女。
どこか妖艶さ漂う切れ長の目に、鼻筋の通った非の打ち所のない鏡に映したような左右対称の顔つくり。
染みひとつない色白の肌によく映える、絹のような滑らかな黒髪ストレートのロングヘアが特徴的。
ノースリーブから覗かせる、ほどよく筋肉のついた細すぎないくらいの二の腕。
写真には上半身しか写ってないが、当然スタイルがいいであろうことは容易に想像ができる。
「…えっ。こ、これが…昴大の彼女!?」
「すっげー美人…!!」
「こんな人…、一般人で存在する!?」
彼女の写真を見た3人は、想像をはるかに越える美女に息を呑んでいる。
まさに、俺の理想をかたちにしたような人。
驚くのも無理はない。
「なにしてる人…!?モデル?」
「そうそう。高校生の頃から読者モデルとかしてたみたいで」
「やっぱそうだよねー。こんなに美人でスタイルがいいんだから」
完璧すぎる容姿の彼女は褒めるところしかないが、それでもやっぱり褒められるとうれしい。
「名前は?」
「エリカ」
「うわー!全然名前負けしてないっ」
彼女については、聞かれない限り言わないつもりでいた。
エリカは俺のものだから、できればだれにも見せたくないというか。
でも、こいつらの反応を見たらとてつもない優越感に浸れて。
隠し玉を持っておいてよかったと思った。
「前世でどんな徳を積んだら、こんな美女と付き合えるんだよー!」
「どこで知り合ったんだ!?」
「交番で。エリカが家の鍵を落としたって言って、俺が対応したのがきっかけ」
「さっすが、警察官!こんな美女と出会えるなら、オレも警察官になればよかった〜」
「あんたは無理でしょ。昴大と違って頭悪いんだから」
そのあとも、話題はエリカについて。
アルコールが入っているということもあって、俺も饒舌にエリカとの馴れ初めを語る。
「お待たせしましたー。レモンサワーですっ!!」
そのとき、俺の目の前にジョッキに入ったレモンサワーがテーブルにドンッと叩きつけられるようにして置かれた。
その反動でグラスから飛び出したレモンサワーがこぼれた。
おそるおそる見上げると、荒々しくレモンサワーを置いたのはミクちゃんだった。
「あ…ありがとう、ミクちゃん」
「どういたしまして〜」
ニッと白い歯が見えるくらい口角を上げて応えるミクちゃんだけど、目が笑っていない。
なんだか怒っているようだ。
「な、なあ…。ミクちゃんってコ、さっきまでと態度違うくない?」
「だよね。明らかに怒ってたよね」
「もしかしてオレたち、いい歳して…騒ぎすぎた?」
ミクちゃんの姿が見えなくなったあと、3人はヒソヒソ話をしていた。
それから1時間くらいして、そろそろ店を出ることに。
「このあと、行くよね?」
「おう!だからこそ、明日休み取ったからな」
4人で飲むときは、2軒目に行くことは定番化している。
なんだったら、3軒目、4軒目まではしごすることもある。
「昴大は、次何系がいい?」
「あ〜、俺は…」
そうつぶやきながら、チラリとズボンのポケットに入れていたスマホに目を移す。
「ごめん。俺はパスで」
「えっ、なんで?」
「実は、エリカが熱出してて。今日は早めに帰って様子を見に行くって伝えてあるから」
「そういうことなら、エリカちゃん優先にしてやれよ!」
「悪い、ありがとう」
久々に会うこいつらともう少し話したい気持ちはあるが、それよりも風邪で寝込んでいるエリカのほうが大事。
「同棲はしてねぇんだっけ?」
「ああ。でも、俺が住んでるマンションのすぐ近くだからいつでも会いにいける距離」
「それなら、いっしょに住めばいいのに〜」
「そんなの、結婚したらずっといっしょにいられるんだから、今はそれぞれの時間を大切にしたくてあえて別で暮らしてる」
「へ〜!結婚も視野に入れてるんだ」
「当たり前だろ。世界のどこを探しても出会えねぇよ、エリカみたいな人間なんて」
今すぐじゃなくたっていいから、いつかはエリカと――。
とはちゃんと考えている。
「市民の平和を守る警察官で、公務員だから将来も安泰。おまけに彼女は超美人って、リア充すぎるだろ〜!」
「ほんと、それな!」
「うちらとはまた集まればいいから、早く彼女のところ行ってあげて」
「ああ、ありがとう」
俺は3人に手を振ると、エリカのマンションへと急いだ。
時刻は22時。
エリカの部屋の合鍵を使って、そっとドアを開ける。
エリカの部屋には30分ほどいて、再び鍵を閉めてマンションの外へ出ると――。
なにかを察して、俺はすぐに辺りを見回した。
まるで粘着質な視線で見られているような…嫌な感覚。
突如、足音が近づいてきてはっとして振り返る。
そばにやってきた人物を見て驚きつつも、知った顔に少し安心した。
「どうしたんですか〜、昴大さん。そんな顔して」
それは、行きつけの居酒屋のスタッフのミクちゃんだった。
「なんだ…ミクちゃんか。脅かさないでよ」
俺は冷や汗のにじみ出た額を指で軽く拭い、ほっと胸をなで下ろす。
「ごめんなさい〜。そんなつもりなかったんですけど」
ミクちゃんは、かわいげに舌をペロッと出す。
そんなミクちゃんを見ながら、俺はふと思った。
…どうしてミクちゃんがこんなところに?
「えっと…、ミクちゃんって家こっちだっけ?」
「いいえ、違いますよ」
あっけらかんとして答えるミクちゃん。
前に、ミクちゃんが住んでいるあたりの話になったことがあったけど、居酒屋を中心としたらミクちゃんの最寄り駅は俺のところとは真逆だった。
そっちはあんまり行ったことがないって話をしていたけど、…じゃあミクちゃんはなにしにここへ?
「昴大さんの忘れ物を見つけて、早めにシフト上がらせてもらって追いかけてきたんです」
「俺、忘れ物なんてしてたっけ?」
自分ではまったく心当たりがなかった。
財布やスマホなどの絶対に必要なものは持っていたから。
「どうせまた店には行くし、そのときでよかったのに」
「ミクが直接昴大くんに渡したかったので!」
そう言って、ミクちゃんはバッグから出したなにかを俺に差し出した。
見ると、それはくしゃくしゃに握り潰されたカードだった。
「え…、これは…」
思わず言葉に詰まった。
ミクちゃんが差し出してきたのは、一度行っただけの美容院のポイントカードだった。
飲んでいる最中にそんな話になり、『もう行かないからいらない』と言って、俺がポイントカードを財布から引き出し、くしゃくしゃに丸めて紙ナプキンのゴミといっしょにテーブルの上に置いて帰ったものだった。
だれがどう見てもゴミだとわかるとは思うけど、それを拾って、しかも自分の家とは真逆のこんなところまで…届けてくれたってことか?
「ご…ごめん、ミクちゃん。言ってなかったんだけど、それゴミなんだ」
「え?そうなんですか?」
「ああ。だから、悪いんだけどそれはもう捨ててもらって――」
「じゃあ!ミクがもらってもいいですか!?」
予想もしていなかった発言に、思わず俺はミクちゃんの顔を二度見した。
そんなミクちゃんは、目をキラキラと輝かせている。
「昴大くんがいらないなら、べつにミクがもらったってかまわないですよね!?」
「え…。でも、…ゴミだよ?」
「いいんです!昴大くんのものならなんでも!」
ミクちゃんは丁寧にポイントカードのシワを伸ばすと、大事そうに自分の定期入れの中にしまった。
「ありがとうございます、昴大さん!大切にしますねっ」
ミクちゃんは満面の笑みで俺にお礼を言うと、くるりと回れ右をして帰っていった。
その足取りはとても軽やかで、スキップしている後ろ姿が徐々に小さくなっていく。
「な、なんだったんだ…?」
顔をしかめながら首を傾げ、俺は自分のマンションへと戻った。
そして、シャワーを浴び布団の中に入って寝ようと思ったが、やっぱりさっきのミクちゃんのことが気になった。
自分で言うのもなんだが、おそらくミクちゃんは俺のことを気に入ってくれていると思う。
それは、他の男性客に対する接客を見ていたら、なんだか俺だけ特別感があるような気がするから。
タイプじゃなかったとしても、女の子に特別扱いされることは決して嫌なことではない。
だから、これまで深くは考えていなかったが――。
さすがにさっきの出来事は、ちょっとおかしい…よな?
なにか被害を被ったわけではないが、家族でも友達でも彼女でもない相手に家の場所を知られるのはやはり抵抗があった。
だからといって、なにもないとは思うけど。
しかし、この日を境に俺の充実した毎日が徐々に歪み始める。
あの夜以降、じとじととした粘着質な視線を頻繁に感じるようになった。
交番にいるとき、パトロールしているときは遠くから俺のことを見ているような。
日勤で仕事が終わって家に帰るときなんて、ずっと背中に視線が刺さっているような感覚がする。
まさかとは思うが、どうやら俺はストーカーされているっぽい。
心当たりがあるとすれば、…やっぱりミクちゃん。
最近は予定があって飲みにいけていなかったが、ストーカーの相手がミクちゃんだったとしたら、もうあの居酒屋へは行かないほうがいいと俺の中の信号がそう警告している。
あの居酒屋は気に入ってはいたが、店ならまた他を探せばいい。
困ったことといえば、エリカに会いにいけないこと。
監視されている以上、迂闊にエリカの部屋に近づくことはできない。
もしエリカの部屋番がバレて、エリカに危害を加えられるようなことがあれば――。
しかし、俺がストーカー被害を訴えたところで決定的な証拠もないし、現役警察官なら己で対処しろとか言われそうだし。
かと言って、このまま解決できないままエリカと会えないのも困る。
だから、俺は決心した。
自らの手でストーカーを捕まえると。
その日、日勤を済ませた俺は駅前の居酒屋で飲んでから帰った。
背後にあの視線を感じたまま。
普段のように最寄り駅で降り、俺は気づかないフリをして自分のマンションへと入った。
しかし、いつもならすぐにエレベーターに乗り込むところを俺はすぐさま非常階段の陰へと隠れた。
ストーカーが俺を家までつけてくるときは、いつも決まってこのエレベーターホールまできていることは知っているから。
そして、今日もなにも考えずにマンションに入り込んできたストーカー。
俺がすぐそばで隠れているとも知らずに。
黒いパーカーを着て、すっぽりとフードを被っていて顔はわからない。
だが、小柄な体型は明らかに女。
あれくらいなら、俺1人で余裕で捕まえられる。
そう確信した俺は、非常階段の陰から飛び出した。
「おい!いつまでも俺を付け回してんじゃねぇよ!」
突然現れた俺に驚いたストーカーは、一目散にマンションから逃げ出した。
「逃がすかよ…!」
俺はストーカーのあとを追う。
警察官として一応体は鍛えているほうだから、どちらかというと体力には自信がある。
等間隔で街灯が並ぶマンション前の通りを駅に向かって必死に走るストーカー。
俺は、徐々にストーカーとの距離を詰めていき――。
「待てっ!もう逃げられねぇぞ!」
手を伸ばして、その腕をつかんだ。
俺に腕をつかまれた反動と、驚いて振り返った拍子にストーカーの顔を隠していたフードが脱げた。
ようやく露わになったストーカーの素顔を見て、ピークに達しそうだった俺の中の怒りの熱が徐々に下がっていくのがわかった。
なぜなら、怒りよりも呆れのほうが勝ってしまったから。
「…なにしてるの、ミクちゃん」
そう。
俺をマンションまでつけてきたフードのストーカーの正体とは、行きつけの居酒屋のアルバイトスタッフのミクちゃんだった。
やっぱり…というか、なんというか。
「びっくりしたー!でも、昴大さんに手握られちゃった♪」
「…握ってないよ。“手首をつかんだ”だけだから」
俺はため息をついてミクちゃんから手を離す。
「どっちだっていいですよ〜。昴大さんからミクに触れてくれたんですからっ」
「いやいや、好意があって触れたわけではなくて――」
て、違う違う。
なにミクちゃんのペースにのせられてんだ、俺は。
「とにかく、なんで俺のあとつけてたの」
「つけてたぁ?」
キョトンとして首を傾げるミクちゃん。
「つけてたでしょ。俺のマンションのエレベーターホールまできて」
「ああ〜!それは、今日たまたま昴大さんを見かけて、声をかけようと思ったらあんなところにまで行っちゃっただけです。昴大さん、歩くの速いから〜」
悪びれもなくそう話すミクちゃん。
「あのね。“今日たまたま”って言ってるけど、べつに今日が初めてじゃないよね?何度か俺のマンションまできてるの知ってるから」
「え〜、そうだったかな〜?」
「それに、俺が仕事してるときも遠くから見てるよね?気づいてないとでも思ってた?」
実際にミクちゃんの姿を捉えたのは、今この瞬間が初めて。
しかし、視線の感じが同じだから、普段から俺のことを見ているのもミクちゃんだという確信はある。
「そろそろ、やめてくれないかな。こういうことするの」
「こういうことってなんですか?」
まさかだと思うが、ストーカーしているという自覚がないのか…?
「隠れて俺のことじっと見てたり、あとをつけてくるようなこと!」
「なんで昴大さんが怒ってるんですか?好きな人を眺めていたり、好きな人のことを知りたくて追い求めるって、普通のことじゃなですか?」
「す、好きな人って…」
やっぱりミクちゃん、俺のことを――。
「そうだったとしても、俺には彼女もいるし、彼女も怖がるだろうから今後はもうしないでほしい」
「あっ、大丈夫です〜。見ているだけで、声をかけたりとかはしないので」
「…いやいや、そういう問題じゃなくて」
なにを言っても平行線で、ミクちゃんにはひとつも響かなくて俺は重いため息をついた。
もし、このストーカーがミクちゃんじゃなかったら、またあの居酒屋に飲みにいってもいいかなと思っていた。
だけど、こうなってしまったのなら仕方ない。
あの店にはもう行かないだろうし、そうなるとミクちゃんとももう会うことはないだろうし、ここではっきりと言わせてもらおう。
「…ミクちゃんわかってる?キミがやってること、“ストーカー”っていうんだよ?」
冗談だとかいって笑って流されないように、真顔で低いトーンで強い口調でミクちゃんに語りかけた。
さすがのミクちゃんもなにかを悟ったのか、驚いたように目を見開ける。
「俺は警察官だから仕方なく自分で対応してるけど、相手が一般の人だったら間違いなくストーカーで通報されてるよ」
「えっ、通…報?」
「そうだよ。ストーカーは犯罪。ミクちゃんが今日で付きまといもやめるっていうなら、俺も大事にするつもりはないからさ」
毎日誠実に仕事して、仕事が終わったらエリカの家に行って癒される。
俺はただ、そんな平凡な生活を取り戻したいだけ。
ミクちゃんのストーカーに気づいて、エリカとはまったく会えていないし、エリカも寂しがっていることだろう。
ミクちゃんも、俺みたいなおじさんに付きまとってないで、早くいい人に巡り会えるように。
そんな思いも込めて言った。
ミクちゃんならきっとわかってくれる。
好きな人に対して突っ走ってしまうところがあるかもしれないけど、根は悪い子じゃないはず。
俺はミクちゃんから反省の言葉が出るのを待っていた。
すると、うつむくミクちゃんの肩がピクピクと小刻みに震えだす。
「ミ…ミクちゃん?」
心配になって顔を覗き込むと、にんまりと口角の上がった口元が見えた。
そして、不気味な笑い声も漏れる。
「…ククククククッ。ミクが…ストーカー?」
顔を上げたミクちゃんの顔は、気色悪いくらいに微笑んでいた。
その恐ろしさに、思わずつばをごくりと飲む。
「“ストーカーは犯罪”…?なに言ってるの、昴大くん」
「な、なにって、俺は事実を言ったまでで――」
そのとき、突然ミクちゃんが俺の両腕をつかんできた。
その力は、本当に小柄な女の子なのかと思うほど強く、がっちりとつかんで離さない。
そして、驚くべきことを口にする。
「昴大くん、わかってる?ストーカーしてるのは、昴大くんのほうでしょ?」
ニヤニヤとしながら、俺の反応を楽しむミクちゃん。
「は…はぁ?俺が、ストーカー?」
「そうだよ。さっき『気づいてないとでも思った?』って言ってたけど、そもそも昴大くん全然気づいてないじゃん」
「気づいてないって…、俺がなにを…」
「やっぱり知らなかったんだ〜」
小馬鹿にしたように、クスッと笑うミクちゃん。
そうして、目一杯背伸びをして顔を近づけると俺の耳元でささやく。
「ミク、昴大くんをずっと見てたのは、ここ最近の話なんかじゃないんだよ」
思いも寄らない発言に、俺は一瞬息をするのも忘れていた。
「昴大くんがお店に初めてきてくれたときに『カッコイイー!』って思って、初めて昴大くんの家まで行ったのはそのときだよ」
ミクちゃんに心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。
予想もしていなかった展開に声が詰まって。
粘着質な視線を感じるようになったのはここ最近だったから、ミクちゃんが俺のストーカーになったのもそれくらいだと思っていたのに――。
本当は、もっともっと前から俺のことを見ていただなんて。
「だから、ミクは昴大くんのことならな〜んでも知ってるよ♪」
「…な、なんでも?」
落ち着け…俺。
声が震えていたら、動揺しているのがバレる。
だけど、このゾワゾワする気持ちを押さえることができない。
なぜなら、この場の主導権をミクちゃんに握られたと思わざるを得なかったから。
「エリカさんって彼女、美人だよね〜」
今までに感じた以上の粘着質な視線が俺を絡め取って離さない。
そして、ミクちゃんはこれでもかというほど目を見開け、そのまん丸い瞳の中に顔を強張らせた俺を捉えた。
「でも、彼女っていうのは嘘なんでしょ?夜な夜な昴大くんがエリカさんの部屋に忍び込んでるの、ミク…知ってるよ?」