8.彼の思い
私の声が、空しく広がって消えていく。私がいくら叫ぼうと、この林には何一つ影響がない。まるで今のシャルルのようだ。
もどかしい。私の声を、届けたい。そんなじれったさに突き動かされるがまま、もう一度声を張り上げた。
「私が……私がどれだけ苦しんでいるのか、分かっているの!?」
シャルルが変わってしまったことで、私はずっと苦しかった。戸惑って、混乱してばかりだった。
それなのに当の本人ときたら、腹が立つくらいに落ち着き払っていて、しかも私のことを守りたいだなんて言いだした。私の宿敵、憎いアイザックのくせに。
「私、あなたのことが分からない。今のあなたのことを知ろうと頑張ってはみたけれど、やっぱり無理だった」
そうやって叫びながら、頭の片隅で思う。そう言えば結婚した次の日の朝も、こんな風に言い合っていたな、と。
言い合っていたというよりも、私が一方的に叫んでいたというのが正しいけれど。
そしてもう一つ、気がついたことがあった。
あの時の私は、アイザックへの憎しみを振り払えずにいた。
けれど今の私は、彼への憎しみと同時に、ほのかな愛情のようなものも感じ始めていたのだ。
でもそのせいで、私は余計に戸惑うことになっていた。今のシャルルに思いを寄せることは、どこまでも優しかった以前のシャルルを裏切ることのように思えてしまっていたから。
だから今のうちに、離れてしまいたい。今のシャルルを愛してしまう前に。きっとそれが、私が突然屋敷を飛び出してしまった本当の理由なのだと思う。
「もう、いいでしょう……私は、あなたのそばにはいられない。あなたの近くにいると苦しいの。お願いよ、私をもう解放して、アイザック!!」
「できない」
シャルル、いやアイザック? 彼はあっさりと、私の言葉を拒んだ。予想はしていたけれど。
どうにかして、彼を説得しないと。焦りながら、必死に言葉を探す。
「でも前世で私たちは、ずっと互いの命を狙っていた。憎しみ合っていたのよ! こんな思いを抱いたまま夫婦であり続けるなんて、無理だわ!」
「憎しみなど、ない」
そんな言葉に、凍りつく。
前にも彼は、そう言った。でも、信じられない。
私は赤の国の騎士団長だった。私もたくさん、彼の配下を殺したのに。私のことを憎んでいないなんて、そんなはずはない。
混乱し切っていた私に、シャルルはひどく静かに、そっと言葉を投げかけてきた。
「……前世のお前、戦場でまみえたお前は、美しかった」
思いもかけない言葉に、頭が真っ白になる。どうして突然、彼はこんなことを話し始めたのだろうか。
「お前を見かけるたび、胸がざわつくのを感じていた。まともな感情など持ち合わせない俺を揺さぶるたった一人の存在、それがお前だった」
不意に、シャルルが黙り込む。その顔に、かすかな笑みが浮かんだ。子供のように純粋なさっきの笑みとは違う、陶酔するような表情。
「あの頃の俺は、あのざわめきが何なのか分かっていなかった。でも今なら、分かる……俺は、お前に恋をしていた。アイザックであった、あの頃から、ずっと」
「ちょ……ちょっと、待って」
必死に口を挟み、シャルルの言葉を遮る。私の声は、震えて裏返っていた。
「私はあなたが憎かった。私たちの赤の国を侵略し、踏みにじるあなたたちが。私はいつも、戦場で見かけるあなたに殺意を抱いていた。あいつさえいなければ、って」
だからきっと、あなたも私のことを憎いと思っていたはずよ。そう続けようとした私の言葉を、今度はシャルルが遮ってくる。
「分かっていた。お前が俺に向けていた、その思いを」
そしてまた、彼は無邪気に微笑む。話している内容とはちぐはぐなその笑みは、それでもやけに私の目を引くものだった。
「お前のそんな感情を独り占めできる、それは俺にとって心地のいいことだった」
「そんな感情って……憎しみ、なのよ? 本当に分かっているの?」
「ああ」
迷いなく答えた彼に、さらに困惑がつのっていく。
「俺はお前の憎しみが欲しかった。だからいつも、戦場でお前を探していた。お前を待っていた」
理解を超える言葉が、私の耳を素通りしていく。
「そうしてお前と相討ちになった時、俺は生まれて初めて喜びを知った。俺はお前の命を奪うたった一人の人間で、そしてお前が最後に奪う命になれた」
私は、前世の自分の最期を覚えていない。アイザックと一騎討ちになった、そこまでしか記憶にない。
けれどどうやら、前世の私と彼は相討ちになっていたらしい。
その結果に、まず驚いた。実のところ、ローラであった私は、アイザックに勝てるとは思っていなかったから。
あの時、確かに私は死を覚悟していた。刺し違えてでもこの男を倒すのだと、そう決意していた。
アイザックは化け物のように強かった。それに私は赤の国の騎士団長とはいえ、剣術の腕は彼には遠く及ばなかった。彼に一太刀浴びせることすら難しいかもしれない。そう思っていた。
私は非力さを足さばきで補うことで、どうにか騎士として恥ずかしくないくらいの戦いができている、その程度の存在でしかなかったのだ。
そもそも私は、自分で戦うのではなく兵を指揮するほうが得意だった。長く続いた戦争で人手が足りなくなっていたから、仕方なく最前線に出ていただけで。
「命のやり取りが、喜びだったの……?」
それ以上に衝撃的な彼の言葉に呆然としながら、そんなことを口にする。
「そうだ。だが、それは相手がお前だったからだ。俺にとって唯一の、特別な存在。そんなお前に俺の全てを与え、お前の全てを手にした。あの時の感情を喜びと呼ばずして、何と呼ぶ」
戦場での出来事を話しているとは思えないほど、彼の声は甘く優しかった。かつての彼、アイザックの記憶が戻る前の彼の面影が、ちらりと見えた気がした。
「……そうして俺は、シャルルとして生まれ変わった。アイザックだった俺が知らなかったたくさんの感情と、思いを告げる言葉を知った」
高らかに言い放った彼の目元に、苦笑のような表情が浮かぶ。
「まともな心を持つ人間となった俺は、そうとは知らずにお前と出会い、お前にまた恋をした」
その言葉に、かつてシャルルと過ごした日々を思い出した。甘くて柔らかな、ふわふわの砂糖菓子のような日々。
あの幸せがもう戻ってこないのだと思ったら、うっかり泣きそうになった。
シャルルがじっとこちらを見つめている。ほんの少し視線をそらして、何事もなかったふりをした。
「……そのまま、ごく普通の男として生きていられたら良かったのだが。お前には申し訳のないことをした。どうしてこんな記憶が戻ってしまったのか」
そう言って彼は、悲しげに目を伏せた。かつてのシャルルの泣き顔をどことなく思わせる、そんな表情だった。
「確かに、俺はアイザックだ。けれど同時に、シャルルでもある。二人分の記憶と人格が混ざったせいか、シャルルの面影は薄れているのだろうが……それでも、お前を愛しているという気持ちだけは、ずっと変わらない。昔も、今も」
そう言い切った彼の顔は、今もなお夕焼けに照らされたままだった。けれどもう、彼が血塗られているようには見えなかった。