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7.苦しくて、逃げ出して

 あのパーティーをきっかけとして、私はさらに考え込むようになっていた。自室に引きこもり、ひたすらに考え続ける。


 アイザックは、前世の私ローラの敵だ。私の中には確かにローラがいるし、シャルルの中にもきっとアイザックがいるのだろう。


 というかシャルルの場合、アイザックに乗っ取られてしまったと言ったほうが正しいのかもしれない。


 だから私は、今まで通りにシャルルを愛せなくなっていた。それよりも先に、ローラが抱いている怒りと憎しみにとらわれてしまうのだ。


 けれどシャルルは、アイザックになってしまったシャルルは、それでも私のことを守りたい、悲しませたくないと言っていた。そのために強くなりたい、とも。


 てっきりあの場をやり過ごすための嘘かと思っていたら、彼はそれが本心だと言い切っていて。


「分からない、やっぱり分からない……」


 分からないのは彼のことだけではなく、自分自身の心もだ。


 私は彼が憎い。でも、少しずつその憎しみが色あせていくように感じている。前世の彼の戦う姿は、まだはっきりと思い出せるのに。


 以前のシャルルが愛しくて、彼に会いたくてたまらないのに、今のシャルルにも目を奪われてしまう。


 そんな自分は、以前のシャルルを裏切ってしまっているのではないか。そんな風にも思えてしまっていた。


「……今のシャルルについて知っていけば、今の暮らしに慣れていけば、何とかなるかもしれないと思ったのに……」


 実際は、まるで逆だった。何とかなるどころか、日に日に苦しさがつのっていく。憎しみと愛情の間で、引き裂かれそうだ。


「……もう、駄目。限界よ。もうこれ以上、ここにいたくない……辛いのも苦しいのも、もう、嫌……」


 ぼんやりとそうつぶやいて、椅子から立ち上がる。内からこみ上げる何かに突き動かされるように、そのまま自室を出ていった。




 私は馬に乗り、屋敷を飛び出してただひたすらに駆けていた。


 どこでもいい、どこか遠くへ、シャルルのいないところに行きたい。頭の中にあるのは、ただそれだけだった。


 彼と離れれば、きっと楽になる。こんなに苦しまなくて済む。そんな希望にすがっていた。


 時々馬を休ませながら、さらに進む。どれくらい駆け続けているのか、どこを走ってきたのか、もう分からなくなっていた。


 けれどそのことに、ささやかな解放感を覚えてしまう。


 気づけば、私は明るい林の中にある、どこかの小川のほとりにたどり着いていた。


 疲れたよと言わんばかりに馬が鼻を鳴らし、ちらりとこちらを見るような動きをする。


「無理させて、ごめんなさいね。水も草もあるし、ここで休みましょうか」


 馬から降りて、手綱を引いて小川に近づく。


 そうやって馬に水を飲ませてから、手近な木に馬をつないだ。ロープを長く取って、ある程度好きに動き回れるようにして。


 私も小川の水を手ですくって飲み、ハンカチで汗を拭いてから、馬をつないだ木の根元に腰を下ろした。ドレスのスカートがしわにならないように気をつけながら。


 衝動的に飛び出してきてしまったので、乗馬服に着替える余裕すらなかったのだ。たまたま着ていたのが比較的細身の、動きやすいドレスでよかった。


 そうして木に背を預け、目を閉じる。すっかりこわばってしまった体に、そよ風が心地良い。


 木々のこずえが風にそよぐ音と、水の流れる音に耳を傾けていると、胸の中によどんでいたものがすっと軽くなっていくような気がした。


 思えばずっと、気を張っていた。そのことに、今さら気づかされた。


 結婚初日のあの夜、突然前世の記憶がよみがえってしまって。この世で一番愛おしい人が、警戒すべき相手に変わってしまって。


 こんなとんでもない目にあえば、ぴりぴりするのも無理はないと思う。


「私、本当に疲れていたのね……あの夜からずっと、混乱してばっかりで」


 そうつぶやいて、首をゆっくりと横に振る。


 もういい。前世の記憶とか、結婚とか、そんな悩みを蒸し返して苦しむには、ここはあまりにも素敵な場所だ。


 せめて今だけでも、忘れてしまおう。何も考えずに、ゆっくりくつろごう。


 そんなことを考えて、目を閉じた。




 そうして久しぶりに心地良い眠りの中をたゆたっていた私を、何かの音が現実に引き戻した。


 あの音は何だろう。穏やかな木々と水の音以外に、何か別の音がする。かつかつというその音は、どんどん近づいてくる。


 まだ半分眠ったまま、ぼんやりとした頭で目を開けた。何気なく、音がしたほうに目をやる。


 そこには、シャルルがいた。馬にまたがった彼の姿は、夕日に照らされて赤く染まっていた。戦場に立っていたアイザックの、血塗られた姿そのままに。


 冷や水を浴びせられたように、一気に目が覚めた。とっさに立ち上がり、身構える。


 さっきまで安らかだった私の心は、また激しく乱れていた。


 シャルルはそんな私の様子に気づいていないかのように、ゆったりと馬から降りてこちらに歩み寄ってくる。


「見つかってよかった、ディアーヌ。もう日が暮れる、戻ろう」


 ほっとした顔の彼からじりじりと距離を取りつつ、短く尋ねる。


「……どうしてあなたが、ここに? 私ですらここがどこなのか、分かっていないのに」


「お前が馬で飛び出したと、そう使用人が教えてくれた。だから俺も屋敷を出て、周囲の村人や狩人などに尋ねながら、ここまで追ってきた。……さすがに、時間がかかった」


 その言葉に、戸惑わずにはいられなかった。


 行先も告げずに飛び出した妻を、夫本人が探しにくる。平民ならともかく、貴族ではまずあり得ない。普通は、使用人たちに命じて探させる。


 もっとも、アイザックでもある今のシャルルは、普通の貴族とは違う考え方をするのかもしれないけれど。それでもわざわざ、夕暮れまで私を探し続けるなんて。


 呆然としていたら、シャルルがほんの少し目元をほころばせた。


「……その剣、持ってきていたのか」


 彼の視線の先には、私の手。その手は剣の柄にかけられていた。


 ドレスの上から巻きつけられた剣帯に提げられた、美しい銀の剣。以前彼からもらったものだ。


 どうやら私は屋敷を飛び出す時に、無意識のうちにこの剣を持ってきていたらしい。


「……これは……別に……何となく、よ」


 ぶっきらぼうに言葉を濁す。別にこの剣を大切に思っていたとか、そういうことではないのだと念を押すために。


 けれどシャルルは、微笑んだ。この上なく嬉しそうに。


 それは以前の彼がよく見せていた、穏やかで優しい笑みとは違っていた。


 もっと複雑な思いのこもった、奥の深さを感じさせる、そのくせ恐ろしいほど純粋な笑顔だった。


 それを見た時、私の中で何かがはじけた。ずっとこらえていたものが、ひとりでにあふれ出る。


「どうして……どうして、あなただけ平然としていられるのよ!」


 私の声は、赤く染まり始めた林の中に響いていった。

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