41.二人きりの優しい時間
それから私たちは大量の手紙を出したり、アルロー侯爵を探しに出ていた使用人たちを呼び戻したり、職人を呼んで屋敷の防壁を強化したりと、とにかくばたばたし続けていた。
そんなあれこれにも、ようやく一段落ついた。その間にすっかり疲れ果ててしまった私は、居間でぐったりしていた。書類を読んでいるシャルルに見守られながら。
シャルルも疲れているだろうに、そんなところはかけらほども見せない。しかも、私の分の仕事を肩代わりするつもりでいるらしい。
彼は、強いなあ。前世でも、今も。
小さくため息をついて、シャルルが温めてくれたいつものミルクをゆっくりと飲む。
そんな私を、向かいに座ったシャルルは切なげな、うっとりとした目で見つめていた。できることなら書類ではなく、私のことをずっと見ていたいのだと、そう全身で訴えているような表情だ。
嫌ではない。でも、くすぐったい。
「……あなたは、何か飲まないの?」
「いい。こうしていたい。この場を離れる時間すら惜しい。かといって、使用人に茶を入れさせたくもない。俺はこのひと時を、邪魔されたくもない」
「でも、温かいお茶を飲むと疲れがとれるわよ? 書類は置いておいて、あなたも休憩したら?」
「お前がいてくれる。ただそれだけで、疲れなどどこかに消し飛ぶ」
自信満々に、シャルルは言い切る。記憶を取り戻す前の彼とはまるで違う……とも言い切れない姿だった。
思えば、彼は前から愛が重ためで、しかも押しが強かった。以前はやんわりと優しく穏やかに、しかし確実に距離を詰めてきていた。
それに対して今の彼も、やはり愛は重たい。さらに、私以外のことはどうでもいいと考えているような節がある。正面切って尋ねたら、たぶん即座に肯定されるんだろうなという気もする。
そして今の彼は、堂々たる押しの強さを誇っていた。
アイザックだった頃のあの存在感に加え、シャルルの持っていた物腰の柔らかさをうまく使い分けるようになってきたのだから、手に負えない。
「私の旦那様は、本当に強いのね。しかも、どんどん強くなってる」
「お前のためだ。……お前のそばにいるためなら、いくらでも強くなる」
なんだか、その言葉通りになってしまいそうな気がする。強くなるのはいいのだけれど、彼にも少しくらい休んで欲しい。何か、いい口実がないだろうか。
そんなことを考えながら、ミルクを飲み終える。その時、あることを思いついた。
「ねえ、シャルル。ちょっとお願いがあるのだけれど」
「何だろうか。お前の願いなら、万難を排してでも」
「ああ、そんな大変なことじゃないの。……ちょっとだけ、目を閉じていて。いいって言うまで開けないで」
「分かった」
言うが早いか、シャルルは背筋を伸ばして目を閉じる。長いまつ毛の落とす影が、ひどく魅惑的だ。そうしていると以前の彼の、王子様のような雰囲気が戻ってくる。
見とれたくなる自分をせき立てるようにして席を立ち、急いで居間を飛び出す。自室の戸棚の中にしまっておいた小皿を手にして、また小走りで居間に戻ってきた。
シャルルは身じろぎもせず、静かに目を閉じて待っていた。椅子を動かして彼の隣に座り直し、持ってきた小皿をテーブルの上に置く。
「ただいま。それじゃそのまま、口を開けて?」
そう言うと、シャルルはためらうことなく口を開けた。そこに、小さな飴を放り込む。前に彼にあげたのと同じ、素朴な薬草飴だ。
シャルルは目を閉じたまま、飴を口の中で転がしている。その顔に、ゆっくりと笑みが浮かんでいった。
「前のものとは、少し薬草の配合を変えてあるの。疲労に効くんですって」
「この香り……夕闇草の花か」
「ええ。私、この香りが好きなの」
以前、彼のために薬草飴を作ってから、時々飴を作るようになっていた。ふと口寂しくなった時の、ちょっとしたおやつとして。
保存もきくし、薬草を代えたり果物の汁を足すことで味に変化もつけられる。あれこれ工夫するのは、結構楽しかった。
今取ってきたのは、その作り置きの一皿だった。私と同様に疲れているはずの彼をどうにかしてねぎらおうと考えた結果が、これだ。我ながら芸がない。
でも残念ながら、私は普通の令嬢のような細やかな気配りは苦手だ。前世も、今も。剣を取って戦っていた前世だけでなく、今の私もどちらかというと男勝りだし。
女性らしい気の配り方とか、もうちょっと学んでおけばよかったかも。そんな後悔を押し込めて、言い訳のようにつぶやく。
「……昔のシャルルが好きだったものだから、今のあなたに贈るのはどうかとも思うけれど……実際、前に薬草飴を贈った時は微妙な反応だったし」
「あれは、意識的に感情を隠していた。本当は、嬉しくてたまらなかった。泣きたいくらいに」
シャルルはそう言って、大きく笑みを浮かべた。目を閉じているせいか、その笑みはとても純粋な、優しいもののように見えた。
「もしあの時、俺が思っていたことをそのまま告げたら、お前は動揺しただろう。あの時のお前は、甘く優しいかつての『僕』を求めていた」
「……そうね。あの頃は、そうだったわ」
彼の言葉に、かつての自分を思い出す。前世の記憶がよみがえって、自分の夫が前世の宿敵なのだと知って。
そうして私は、彼を拒絶した。けれど彼は、そんな私に辛抱強く寄り添って、私が落ち着くのを待った。私がもう一度、彼のほうを振り向くまで待っていてくれた。
今こうして二人で語り合っていられるのは、全部シャルルのおかげだ。くすりと笑って、小声で付け加える。
「ところが今では、あなたの口から『僕』なんて言葉を聞くと、ひどく落ち着かない気分になってしまう。私も変わったものね」
「ああ。変わってくれて良かった」
シャルルの笑みが、深くなる。とても満足そうな顔だ。
「俺は前世の自分を思い出してしまい、結果として少々立ち居ふるまいが変わった。だが、お前への思いだけは何一つ変わらない。お前がいないと生きていけないということに変わりはない」
「少々……ね。かなり変わってしまったと思うけれど?」
しみじみと、それでいて熱く愛を語っている彼に、軽くまぜっかえしてみる。やっぱりちょっと照れ臭かったのだ。
「そうか? 俺は昔も今も、優しい男だ」
「あら、冗談まで言うようになったの」
「本気だが?」
そんなやり取りを経て、二人で同時に小さく笑う。和やかで穏やかな時間が、とても心地良かった。
「ところで、いつまで目を閉じているの?」
「お前に頼まれたからな」
シャルルは少しもためらうことなく、そう言い切っている。本当に、彼は私のこととなるとおかしくなる。けれどそれだけ、彼にとって私は特別なのだろう。
「ふふ、律儀なのね。もう目を開けていいわよ、シャルル」
笑いながらそう言うと、彼はゆっくりと目を開けた。姿を現した鮮やかな青に見入ってしまって、思わず息をのんだ。
彼の目から、視線が離せない。世界が青一色に染まったようにさえ思えてしまう。前にも、こんな風に感じたことがあった。あれは、いつのことだったか。
「……思い出したわ」
手を伸ばして、彼の頬に触れる。
「前世の私が最期に見たのが、この青だった。綺麗だな、って思った」
テュエッラの魔法でよみがえった、私の前世の記憶。けれど最期の記憶は、まだ欠けたままだった。それがようやっと戻ってきた。
「不思議なくらいに穏やかな気持ちだったわ。青の国への憎しみも、アイザックへの憎しみも、なぜだか忘れていた」
「……そうか」
「もしかしたらテュエッラは、わざとこの記憶だけ戻さなかったのかもね。私が、あなたへの憎しみを抱いていられるように」
ふとそうつぶやくと、シャルルが露骨に眉をひそめた。さっきまで嬉しそうに微笑んでいたのが嘘のようだ。
「……魔女の話はするな。思い出しただけで腹が立つ」
そう言って彼は、頬に添えられたままの私の手を取って、指をからめてきた。
「それよりも今は、お前に触れていたい」
「そうね。……こんな風にゆったりと語り合うのって、結婚したあの夜以来かしら?」
「今度は、拒まないで欲しい」
小さくうなずくと、シャルルが顔を寄せてきた。
私たちが夫婦になって初めてのキスは、甘くて優しい味がした。




