38.黒幕に引導を
「大丈夫か、ディアーヌ!」
私たちのいる二階の広間にたった一人で駆けつけてきたのは、シャルルだった。ひどく動揺していて、顔色が悪い。
「ええ、問題ないわ。見ての通り、この仕掛けが役に立ったから。ありがとう」
私がそう返事をする間にも、シャルルは大股に歩み寄ってくる。床に座った男性も、そしておそらくテュエッラのことも無視して、私の両肩をつかんだ。
「……首元に、傷が」
おそらく、さっきナイフを突き付けられている時についたのだろう。緊張していたから、傷を負っていたことすら気づかなかった。
シャルルはとても悲しそうな顔で、傷にハンカチを当ててくれている。
「ああ、それね。……さっきちょっと、拘束されてたから。でも、すぐに抜け出したのよ?」
しかしシャルルは聞いてはいない。彼の視線は、私の首の傷から、床に落ちているナイフの上を通り過ぎて、座ったままの男性のところで止まった。
次の瞬間、シャルルのまなざしが冷たく凍てつく。触れるだけですぱっと切れてしまいそうな、刃のような視線だった。男性が小さく悲鳴を上げてへたりこむ。
腰を抜かした男性に、シャルルは心底嫌そうな声で吐き捨てた。
「……状況から見て、お前が俺の妻を傷つけたのだな、アルロー侯爵」
「えっ、アルローって」
ある意味予想通りの、でも予想外の名前に面食らう。
アルロー侯爵、つまり彼はアデールの父親だ。アデールをひたすら甘やかしていて、そして自分の配下を増やすことに余念のない人物。かつてはブランシュ親子も、彼らと関わりがあった。
さっきから男性の話を聞いていて、条件としてはぴったりだと思っていた。でもまさか、侯爵本人が、わざわざ伯爵家の人間を自らの手で消そうとするなんて。
「あの、シャルル、この人が三人目の依頼人みたいなのだけれど……」
「ああ。俺もアデールから聞いた。そうらしいな」
アデール。その名前に、胸がちくりとした。シャルルのことを信じてはいるけれど、それでも小さな嫉妬の炎は消せない。
シャルルは私とアルロー侯爵の間に割って入るように立ち、うなるような声でアルロー侯爵に言った。
「俺を餌で釣ろうとしたり、アデールを無理やりあてがおうとしたり、とにかく俺はこいつにはいい思い出がない。ただ不愉快なだけなら、放っておいたのだが」
恐ろしいほど低い声で淡々と話しながら、シャルルは少し離れたところに落ちていたナイフを拾い上げ、じっくりと眺めている。目つきが怖い。
「……俺の妻に、たった一人の愛しいディアーヌに傷をつけるとは……許せんな」
そう言い放つシャルルの手は、護身用の杖をきつく握りしめていた。
戦場でも見たことがないほどの激情をたたえた目が、アルロー侯爵をしっかりと捕らえていた。侯爵は恐ろしくてたまらないらしく、青ざめて小刻みに震えていた。
そんなアルロー侯爵を横目で見ながら、小声でシャルルに尋ねる。
「ね、ねえ。あなたは確か、アデールと一緒にいたんじゃなかったの? いつもと様子が違ったから、気になっていたのだけれど……」
「作戦のうちだ。もう用は済んだ。これ以上あいつに構う必要もない」
その言葉に、アルロー侯爵が顔をしかめた。
「おい、娘をどうした!」
しかしシャルルの凍りつくようなまなざしを再度向けられて、彼は亀みたいに首を引っ込めた。
それを見たシャルルが、疲れたような顔で説明を始める。私に向かって。
シャルルが私と離れてすぐに、アデールが追いかけてきた。どうやら彼女は宴に忍び込み、シャルルを連れ出す機会を狙っていたらしい。
いつも以上に上機嫌な彼女の様子に、シャルルは何かがおかしいと感じた。
この宴は、シャルルと私が仲睦まじくやっていることを披露するための宴なのだから。アデールが不機嫌になるのならまだしも、上機嫌になる理由がない。
彼女が何を考えているのか、確かめておいたほうがいいだろう。
それに、彼女もまた三人目の依頼人である可能性があるのだ。
アデールは、庭の草地を歩くことすら嫌がるような令嬢だ。よほどのことがなければ、あの嵐の森まで行こうなどとは思わないだろう。
だがその点を除けば、おそらく彼女が三番目の依頼人に最もよくあてはまる存在だ。
そう考えたシャルルは、ひとまずアデールと二人きりで話すことにした。「君が何を考えているのか知りたい、話してくれるね?」と昔の優しい口調を思い出しながら言ったら、アデールはころりと参ってしまった。
「……あいつは、結婚直後の俺たちの様子を知っていた。『仲がいい振りなんてしなくていいんですのよ。わたくし、知っていますから。あなたがたが、形だけの夫婦だということを』などと言っていたな」
「彼女、前にも似たようなことを言っていたわ。それにこちらのアルロー侯爵も……」
「親子でぐるなんだ、こいつらは。俺の家の使用人をこっそりと買収していた。アデールが嬉々として語ってくれた」
アデールとアルロー侯爵がどうやって私たちの状況を知ったのか、それはずっと疑問だった。けれど、そういうことなら納得もいく。すぐ近くに裏切り者がいたという事実は、何とも頭が痛いけれど。
うんざりした声で、シャルルが続ける。
「アルロー侯爵。お前はこの宴を利用してディアーヌを排除し、その隙に俺とアデールを結び付けようとした」
それでも、アルロー侯爵は何も言わない。
「さっきのアデールの誘いは、今までで一番本気だったぞ」
何かを思い出しているのだろう、シャルルの声にかすかに笑うような響きが混ざった。
「ただ好いた惚れたを語るだけでなく、アルロー家とカリソン家が縁続きになることの利点を、それはもう丁寧に語っていたからな。情で駄目なら、利で押せといったところか」
しかしシャルルは、すぐに低い声で言い放った。
「だが、その前に自分の足元を見てはどうだ?」
ちょっと話の風向きが変わったようだ。小首をかしげつつ、話に耳を傾ける。
「ブランシュの父セニエ男爵は、人の良さと商売の才覚で有名な人物だった。そんなセニエ男爵が、アルロー侯爵の傘下を抜けることになった。しかもその理由が、アルロー侯爵親子の人柄に見切りをつけたから、だった」
シャルルはどう話を持っていくつもりなのだろう。見当もつかなかったけれど、ひとまずこのまま様子を見る。
「それを皮切りに、貴族たちの不満が噴出している。このままアルロー侯爵に従っていては、いずれ大変なことになるかもしれない。そんな貴族たちの噂話は、俺のところまで届いていた」
ブランシュがアデールを見限り、そしてセニエ男爵がアルロー侯爵を見限った。その結果、他の貴族たちもアルロー侯爵から離れつつある。そんなことになっていたのか。
たぶんアルロー侯爵は、セニエ男爵のことをあなどっていたのだろう。
セニエ男爵は位も低く、貴族でありながら商売などという平民の仕事についている、と。そのせいで、彼の本当の価値を見抜けなかったのだろう。人望、という。
「このままでは、お前の権力がいつまでもつか怪しいぞ。自分でも、薄々気づいているだろう? 俺たちから手を引いて、好きに権力闘争をやるがいい。あまりにしつこいと……俺にも、考えというものがある」
そこまで言って、シャルルは手にした杖をアルロー伯爵に突き付ける。部屋の片隅でテュエッラがわざとらしくおびえているのが見えた。
シャルルの杖と、私の剣。それらを交互に見て、アルロー侯爵は力なく息を吐いた。その恰幅のいい体が、一回り縮んだように見えた。
「……娘は、アデールは、どうなったんだ……」
「いい加減俺も、我慢の限界だったのでな。引導を渡してきた」
物騒な言葉をさらりと口にして、シャルルはさらに続ける。アルロー侯爵に口を挟む隙すら与えずに。
「俺は何度生まれ変わろうと、ディアーヌ以外の女性を愛することはない。お前が俺を追いかけるのは勝手だが、何を差し出されようとお前のほうを振り向くことはない。そう告げてきた」
「なんと、それではアデールは……」
「泣き崩れたから、そのまま置いてきた。ここで中途半端に優しくするほうが、かえって残酷だからな」
それは……確かにそうだと思う。シャルルは、何があろうとアデールの思いに応えることはない。だったらきちんと彼女を突き放すのも、優しさ……なのかもしれない。
「ともかく、これ以上俺たちの邪魔をするな。俺たちはただ二人で、静かに暮らしていきたいだけだ」
きっぱりと言い切ったシャルルの声が、急に低く恐ろしげなものに変わる。
「……なおも何か仕掛けてくるというのなら、俺はお前を敵とみなす。以後、一切手加減はしない。全力をもって叩き潰す。覚悟しておけ」
そう言ってシャルルは、アルロー侯爵に杖を突き付ける。かつてのアイザックをほうふつとさせるような純粋で鋭い殺意が、びりびりと広間の空気を震わせていた。
「わ、私を脅す気か! 私は侯爵だ、その当主を殺したりすればどうなるか分かっているのか!」
「殺す気はないし、殺したくもない。お前など、手にかける気にもならない」
シャルルが剣でもハルバードでもなく杖を手にすることを選んだのは、うっかり他人を殺さないためだ。
それは他人のことを思いやってのことではなく、最後に手にかけたのがローラだという事実を、彼がとても大切にしているからだ。
そんな事情を、ごく普通の貴族であるアルロー侯爵が理解できるとは思わない。だから私は、黙って成り行きを見守っていた。
そうしたら、シャルルがなんとも物騒な言葉を吐いた。
「殺しはしない。だが、二度と余計なことをできない体にしてやることはできるな」
……ほぼ脅迫だと思う。でも、止めない。シャルルの気持ちは分かるから。さっきアルロー侯爵に剣を向けた時、私の中に殺意に似た感情がなかったといったら嘘になる。
「俺は罪に問われるだろうが、そうなったらどこへなりと逃げるだけだ。ディアーヌがいれば、他に何もいらない」
「……そうね。そうなったら、一緒に逃げましょう。あなたがいれば、どこだっていい。あの旅の中で、実感したわ」
そっと小声で付け加えると、シャルルの声が柔らかくなった。こちらを見て小さく微笑み、また朗々とアルロー侯爵に告げる。
「そういうことだ。さあ、どうする?」
「……忌々しいが、負けを認めざるを得ないのだろうな。仕方がない、勝ちを譲ってやろう」
アルロー侯爵が、厳かにつぶやく。それは、明らかに他人に命令し、上からものを言うことに慣れ切った人間の口調だった。
ただ、腰を抜かして青ざめたまま言われても、いまいち格好がつかないけれど。
シャルルは目を細めて、短く問いかける。
「二言はないな」
「我がアルロー家の、歴史と名誉にかけて」
そこでようやっと、シャルルが殺気を引っ込めた。アルロー侯爵が、よろめきながらも立ち上がる。
彼はさっきまでとはまるで違った、打ちひしがれた表情をしていた。おぼつかない足取りで、私たちの横を通り過ぎて広間の入り口の扉に向かっている。
自分たちの平和を守るためとはいえ、少し心苦しいと思わなくもなかった。
そしてふと視線を下げた瞬間、叫び声が聞こえた。危ない、と。




