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37.三人目の依頼人

 少し遅れて、ようやく状況を理解した。さっきまで穏やかに話していた男性、彼が私の背後に回り、私の首元にナイフを突き付けていたのだ。


「シャルル・カリソンの妻、ディアーヌ」


 その声も、さっきまでの礼儀正しくも優しいものとはまるで違っていた。低くうなるような、強い怒りをはらんだ声だった。


「お前さえいなければ、全て丸く収まるのだ。お前さえしゃしゃり出てこなければ」


 そうして彼は、ぶつぶつとつぶやき出す。片手で私の肩をつかみ、もう片方の手でしっかりとナイフを握りしめたまま。


「私は、カリソン家をずっと狙っていた。カリソン家は数ある伯爵家の中でも力があり、財力、歴史とも申し分ない。カリソン家とつながりを持てれば、我が家はより栄えるだろう」


 どうして浮気の話から、こんな話になるのだろう。そう思ったけれど、黙って様子をうかがうことにした。


「それに、私の娘はシャルルに焦がれていた。娘がシャルルに嫁げば、何の苦労もなくカリソン家を手に入れられるし、娘も幸せになれる。そう思っていたのだが」


 ナイフの切っ先が、喉の皮膚にゆっくりと食い込む。まだ切れてはいないけれど、怪我をするのも時間の問題だろう。


 それは普通の令嬢なら震えが止まらなくなるか、気絶していてもおかしくない状況だった。


 けれど私は、ただの令嬢ではなかった。かつて戦場を駆けていた、赤の国の騎士団長ローラとしての記憶が、私に冷静さを与えていてくれた。


 まだ、大丈夫。背後にいる男性からは、殺気は感じない。それに、戦い慣れた者の動きでもない。


 むしろ、刃物を握ることすらめったにないのだろうと、そのぎこちない動きからはそう感じ取れた。


 意識を研ぎ澄ませて彼の動きに集中していれば、攻撃に移る瞬間をとらえて、逃げるなり反撃するなりできる。大丈夫、彼は脅威ではない。


 そうやって静かに状況を判断していると、彼は勝ち誇ったような声音でまくしたてた。


「ところがシャルルときたら、お前に一目惚れしたあげく、とうとう結婚してしまった。不仲だと聞いて安堵していたのに、『蜜月の宴』だと? 冗談ではない」


 そうして、ついにその言葉、願っていた言葉が聞こえてきた。


「まったく、魔女だか何だか知らんが、あの役立たずめ……わざわざ私が出向いてやったというのに、こやつらを別れさせろという、その程度の依頼すらまともにこなせんとは……」


 魔女。それではこの男性が、三人目の依頼人だったのか。さっきまでの混乱の名残を残した心の中に、一気に明るい光が差す。


「こうなったら、私自ら動くしかない。お前たちを離縁させ、私の娘をシャルルの新しい妻とする。そのために私はここまで来たのだ。お前たちの間の不仲をあおってやれば簡単だと、そう踏んだのだが」


 後ろから聞こえるその声は、心底忌々しいといわんばかりに低く、いら立っていた。


「ところがお前は、馬鹿馬鹿しいほどシャルルのことを信用してしまっている。……素直に私の言うことを聞いていれば、こんなことにはならずに済んだのだがな」


 ひとまず、彼の動機は理解できた。ならば次は、説得だ。へたに刺激しないよう、柔らかい声で呼びかける。


「あ、あの」


「黙っていろ。騒げば、すぐに首をかき切る。シャルルとの離縁を受け入れねば、ここでお前を消す」


 どうやら彼は、私の話を聞く気などないらしい。それどころか、たいそう物騒なことをつぶやき始めた。


「いや待て、もっといい筋書きがあるぞ? シャルルの不義について私から聞かされたお前は、逆上して私につかみかかってきた。やむを得ずナイフをちらつかせたところ、それを奪って自害してしまった。うむ、実によい筋書きだ」


 何が「実によい筋書きだ」よ。腹立たしいったらない。


 明らかに危険そのものの状況で、私は落ち着き払っていた。三人目の依頼人は、もう見つけた。これだけでも大収穫だ。


 ただ、そろそろ一度仕切り直したほうがいいかもしれない。


 どうも今の彼からは、これ以上話が聞けない気がする。いったん取り押さえるなり何なりしてから、尋問を……駄目駄目、アイザックの考え方が移っちゃったかも。


 ゆっくりと深呼吸して、身構える。すっとかがんで男性の腕から抜け出し、すぐさま立ち上がりながら振り返る。そのまま、彼の手首を手でぴしりと打った。


 私は素手だし、普通に打っただけでは痛くもかゆくもないだろう。けれど特定の場所を狙い打てば、少しの間手をしびれさせることくらいはできる。


「何をする、小娘!」


 男性がそう言い終わらないうちに、今度はヒールで足の甲を思いっきり踏んづけてやる。ぐあっ、という悶絶の声が男性の口からもれた。


 前世の私、ローラならもっと簡単にあしらえた。それこそ股間を蹴り上げるとか、腕をつかんでひねり上げるとか、相手を制圧する技をたくさん身につけていたから。


 でも今の私は、ごく当たり前の令嬢だ。記憶が戻ってからちょくちょく体を鍛えてはいるし、戦い方も知っているけれど、それを実行できるだけの筋力がないのだ。


 だから、弱い力でも相手に効率よく痛みを与えられる、こんな攻撃に頼らざるを得なかった。……この騒動が終わったら、本格的に鍛え直そうかしら。


 痛みにもがく男性を見すえながら、ドレスのスカートを思いきり跳ね上げる。ドレスの下から現れたのは、乗馬用のしっかりとしたズボンを履いた足だ。


 その太もものところには、革のベルトで銀の剣が固定されている。靴はドレスに合わせた華奢なものなので、剣のいかめしさが際立っていた。


 このとんでもない装いは、シャルルの提案だった。私たちはこの宴のために、どうにかして武器になりそうなものを持ち込もうと考えていた。


 最初私は、スカートの隠しポケットを大きめにして、その中に護身用の小さなナイフを忍ばせようと思っていた。


 けれどシャルルは、私のその案を即座に却下した。


 それでは、あまりにも不用心に過ぎる。俺と別行動をするというのなら、せめて剣を帯びていてくれ。彼はそう言って聞かなかった。


 でも、ドレスに剣なんて不釣り合いなことこの上ない。そんなものをぶらさげていたら、三人目の依頼人を油断させるどころか警戒させてしまう。


 そんなやり取りを経て、このような格好になったのだ。


 私の剣は細身で軽く、さほど長くもない。骨組みを入れて膨らませたスカートと、その下のふわふわのペチコートで、剣の一振りくらいなら隠せなくもない。


 デザイン画の段階では、とてもいい案だと思えた。ただ実際にこうやってスカートをまくりあげたら、さすがにちょっと恥ずかしかった。ちゃんとズボンを履いてはいるけれど。


 気を取り直して、男性に剣を突き付ける。ちょっとあっけに取られている彼に、恥ずかしさをごまかすように優雅に微笑んだ。


「動かないでくださいね? いきなりナイフを持ち出すような方とは、こうでもしないとまともに話し合えそうにありませんから」


 しかし男性は私の言葉など聞くつもりはないようで、すっと身をかがめて落ちているナイフを拾おうとしている。剣を手にしたところでしょせんは小娘と、あなどっているのかもしれない。


 あわてず騒がず、剣で彼の手をぴしりと打つ。うかつに傷つけないように、剣の平らな面を当てるようにして。そうしてそのまま、ナイフを離れたところに蹴り飛ばした。


「もう一度言います。動かないでください。あなたが私に敵意を持っていることは、先ほどの言動から明らかです。……テュエッラに私たちの不幸を願ったのは、あなただったのですね」


 ため息まじりにそうつぶやくと、男性の顔が真っ赤になった。


「どうして、お前が魔女のことを知っているのだ!」


「それは……色々と事情がありまして。私とシャルルは、その依頼人が誰だったのか、ずっと探っていたんです」


 ちなみにその魔女ことテュエッラは、いつの間にやらこの広間のかたすみにちょこんと立っていて、幼い顔にわくわくした表情を浮かべてこちらを見守っている。


 どうやら魔法で気配を消しているらしく、男性は彼女に気づいていない。彼女は私に笑いかけて、小さな手をひらひらと振っていた。


 ひとまず彼女は無視することにして、男性にまた向き直る。


「あなたの狙いは、カリソン家とシャルル。そのために、私が邪魔だった。私たちに不幸をもたらして、私たちを引き裂こうとして、テュエッラのもとを訪ねた。それで合っていますね?」


 話を整理してそう尋ねたけれど、返事はない。男性は床に座り込んだまま、打たれた右手をさすっていた。何もない宙を、忌々しそうな目で見つめたまま。


「……あいにくと、その願いはかなわないと思います。たとえ私がシャルルと別れ、遠くに行くことになったとしても、彼は必ず追いかけてきます。それこそ、カリソン家を捨ててでも」


 もし未来の危機を阻止できなければ、二人で遠くへ逃げよう。迷うことなくそう言い切っていたシャルルの顔がよみがえる。


「あなたがうまく立ち回れば、カリソン家を手にすることはできるのかもしれません。ですが、シャルルの心を手に入れることだけはできません」


 即座にそう断言できてしまうことが、嬉しくもありおかしくもあった。


 もし私たちが、前世の記憶を取り戻していなかったら。この状況で、私はただうろたえることしかできなかっただろう。


 シャルルの愛を疑い、自分の気持ちが分からずに、絶望してしまっていたかもしれない。さっきの私のように。


 でも今の私には分かっていた。シャルルは、アイザックだった頃からずっと私だけを思っている。自分の命さえ投げ出すほど、強く、激しく。結婚してからの日々で、私はそれを知った。


 そして私もまた、彼のそんな思いを受け入れていた。


 かつて私が抱いていた強すぎる憎しみは、今では私たちをつなぐ強い絆へと形を変えていた。皮肉にも、テュエッラのおかげで。彼女を探す旅の中で、私はそのことに気づいたのだ。


 部屋の隅にいるテュエッラをちらりと見る。彼女は、それは嬉しそうな顔で笑っていた。


「ですから、私たちから手を引いてください。私たちは今の幸せを守るためなら、死に物狂いであなたに逆らいます」


 きっぱりと、力強く言い切る。実のところ、彼が何者なのかいまだに分かっていない。今後、何を仕掛けてくるのかも分からない。


 でも、何が来ようと私たちはそれにあらがう。それだけは確かだった。


 銀の剣をしっかりと握り直し、男性を見下ろす。彼がたじろぐくらいに、まっすぐに。


 その時、大きな足音が廊下を駆けてくるのが聞こえた。

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