36.信じられない知らせ
いつまで経っても、三人目の依頼人らしき人物が見つからない。私の目の前に広がっているのは、ごく普通の、和やかな宴にしか見えない。
自然と焦りがつのってくる。シャルルはどうしているのだろう。アデールと共に姿を消した彼は、何か手掛かりをつかんだだろうか。
けれど宴が終わるまで、もうあまり時間が残っていない。こうなったらもう一度、隙を見せてみようか。そんなことしかできないのがもどかしい。
祈るような気持ちで、屋敷のはずれのほうに向かっていく。と、静かな声に呼び止められた。
「ディアーヌ殿、少しいいだろうか」
私に声をかけたのは、立派な風体の中年男性だった。他の招待客のような正装ではないけれど、彼が身にまとっているものは、みなとても質のいいものだ。
それはそうとして、彼は誰だったか。これだけ雰囲気のある人物なら、そうそう忘れることなんてないとは思うけれど。
ここに集まっているのは、主に私とシャルルの親類縁者と友人たち。そして私にとってシャルルの知り合いのほとんどは、過去に一、二回顔を合わせた程度の間柄でしかない。
特に今日はいっきにたくさんの人と会ったから、ちょっと頭がごちゃごちゃしている。失礼にならないように、相手の名前を思い出さないと。
品よくあいさつを返しながら、目の前の男性を観察する。
たたずまいにも品があるし、身なりもきっちりとしている。おそらく、上位の貴族だ。伯爵家であるカリソン家やメルヴェイユ家と同格か、あるいはもっと上か。
「君の耳に入れておきたい話があってな。……その、君の夫についてのことなのだ。どこか、他人に聞かれることなく話せる場所はないだろうか」
夫のこと。その言葉に、思わず身がこわばる。さっきまで私は、ずっとシャルルのことを考えて落ち込んでいた。そんな思いを、見透かされたような気がして。
それに男性の表情は、ひどく深刻なものだった。彼が話したいことというのは、そんなに重大なことなのだろうか。
普段とまるで違うさっきのシャルルの姿を思い出してしまって、すっと血の気が引く。とにかく今は、話を聞くしかない。これが手掛かりになるのかもしれないのだから。
こっそりと両手を握りしめて、できるだけ平静を装って答える。
「夫のこと、ですか?」
「ああ。君にとっては、あまりありがたくない話になるだろう。君の名誉のためにも、関係のない人間には聞かれたくないのだ」
「……分かりました。それでは、こちらにどうぞ」
できるならば聞きたくない。ふとそんな思いが頭をもたげてきて、あわてて押し込める。ひとまず、二人きりになれる場所に移動しないと。
けれど今私たちがいる一階は、どこもかしこも人間だらけになってしまっていた。宴も半ばを過ぎたことで、招待客たちがあちこち散策に出てしまっていたのだ。
この辺りで内緒話をするのは難しい。少し悩んで、彼を連れて二階に上がる。ちょっとしたお茶会やダンスパーティーなんかに使われる小ぶりの広間へ、彼を連れていった。
今はテーブルも椅子も片付けられた、がらんとした広い部屋。にぎやかで華やかな一階とはまるで違う、どことなくよそよそしい雰囲気を漂わせているその部屋に入ると、男性が慎重に扉を閉めた。
盗み聞きされるかもしれないし、万が一ということもあるから、扉は開けておきたかったのだけれど。
そんなことを考えてちらりと扉を見る私に、男性は重々しく言い放った。
「シャルル殿……君の伴侶たる彼だが、実は……彼は、浮気をしているのだ」
これっぽっちも予想していなかった言葉に、立ち尽くしたまま凍りつく。シャルルが、浮気? まさか、あり得ない。
「その表情からすると、君は知らなかったようだな。……先ほどの、幸せそのものの君を見て……忠告せずにはいられなかった。君の隣の男は、君を欺いているのだと知らせてやりたかった」
心底申し訳なさそうな顔で、男性は語る。シャルルが浮気なんてする訳ないから、この男性が勘違いしているのか、あるいは嘘をついているのか。
頭の中をよぎるシャルルとアデールの姿を無視して、落ち着いてもう一度問いかける。
「けれど夫は、いつも私のことを第一に考えてくれますし……何かの間違いでは、ないでしょうか」
「ああ、本当に君はけなげな、素敵な女性だ。あの男のことを、そこまで信じているとは」
私の指摘にも、男性の態度はちっとも揺るがない。そうして彼は、さらに信じがたいことを口にした。
「……シャルル殿の浮気相手は、私の娘なのだ」
誰、それ。まさか、アデール? 違うとは思うけれど、でもさっき、アデールとシャルルがとても仲睦まじくしていたし。
ふと、そんな疑問が浮かんできた。とたん、頭の中がもやもやした考えでいっぱいになる。
彼の言葉は嘘だと思いたい。でももし、本当だったら? その相手が、アデールだったら?
シャルルが今まで彼女の前で見せていたあの仏頂面は? もしかして、演技だったの?
そんな不安を押しやって、自分に言い聞かせる。
彼はいつも、私を愛していると言っていた。その言葉に、一度たりとも嘘はなかった。少なくとも私は、そう思っている。
それに、かつての柔和なシャルルなら、何かの拍子に誘惑に負けることも……あるかもしれない。
でも今の強いシャルルは、何がどうなろうと嫌なものは嫌だと言うに違いない。彼の意に背いて彼を動かすのは、まず無理だろう。
ああ、分からない。いったいどれが正しいのだろう。
混乱し切っている私に、男性はさらに追い打ちをかけてくる。
「こう言っては何だが、君たち夫婦は結婚直後、うまくいっていない時期があっただろう?」
どうして、この男性がそんなことを知っているのか。驚きすぎて、何も言えない。
確かに、私たちが前世の記憶を取り戻してしばらく、私とシャルルは一つ屋根の下で別居しているも同然だった。
でも私はそのことを家族にも友人にも言わなかったし、使用人たちにも口止めしていた。
だったら、シャルルが誰かに喋ったの? それこそあり得ない。
「その時期に、シャルル殿は娘のところに通っていた。妻のある男性に手を出すなどはしたないと、私も娘を叱ったのだが……」
男性は苦しげな顔で、ゆっくりとうつむいてしまう。
私たちが別居同然だったあの時期、私はシャルルが何をしているか知らなかった。こっそりよそに出向いていたとしても気づかなかっただろう。
「どうやら、シャルル殿のほうが本気のようなのだ。今のところ、彼は君を悲しませないように取りつくろってはいるようだが、いずれは破綻する」
この人は何を言っているのだろう。ご冗談を、そう言って笑い飛ばしたいのに、口が動かない。
「……君のような女性が破滅し、夫に捨てられた妻という汚名にまみれるのを見過ごしたくないと、私はそう思うのだ」
どうやら彼は、これだけ私を混乱させておいて、そのくせ私に同情しているらしい。ああもう、さっきから訳の分からないことばかりだ。
「私は君に、もっと良い道を示してやれる。ひとまず、私のもとに来るといい。この事態は、私にも責任がある。必ず、良い形に収めてみせよう」
そう言って、彼はこちらに手を差し伸べる。
「ディアーヌ殿、急ぎシャルル殿と離縁するのだ」
シャルルと離縁。そういえば、前にそんなことを主張したことがあった。
前世の記憶が戻ってすぐの頃、愛しいシャルルが憎いアイザックの生まれ変わりだということに耐えられなくて、彼のそばを離れようとした。
でもあの時の彼は、混乱して我を忘れている私を懸命に引き留め、根気強く自分の思いを伝えてくれた。私がそれ以上混乱しないように、ゆっくりと。
目の前の男性と、今まで時間を共にしてきたシャルル。そのどちらを信じるか。これは、それだけの話だ。ようやく、頭がすっきりした。
ゆっくりと息を吸って、落ち着いた声で答える。
「それでも、私はシャルルを信じています。彼が他の女性のところに通っていたというのなら、彼にも何か考えがあってのことなのでしょう」
今のシャルルは口下手だし、どうにも説明が足りない。でも、誠実であることは間違いない。
さっきアデールといたことだって、きっと何か理由があるに違いない。後で尋ねれば、きっときちんと話してくれる。
「シャルルは私を愛していると、そう言ってくれました。私も、彼のことを愛しています。この思いのせいで破滅するというのなら、本望です」
いつも、シャルルに思いを伝えるのに四苦八苦していた。照れてしまって口ごもったり、逆に意地を張ってしまったり。
それなのに今は、するりと彼への思いを口にできていた。晴れ晴れと笑って、男性に一礼する。
「忠告、ありがとうございました。後で、彼と話し合ってみようと思います。夫婦の絆を、さらに強いものにするために」
次の瞬間、何かがどんと体にぶつかってきた。驚きに目を見開くと、すぐ近くに光るものが見えた。
その澄み切った銀色は、やけに禍々しく、そのくせ美しいもののように思えた。




