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31.シャルルはもう悩まない

 シャルルは作業の手を止めて、ほうと息を吐きながら宙を見つめていた。要するに、彼はうっとりとしていたのだ。


 彼の頭の中には、先日のディアーヌの言葉がぐるぐると回っていた。


 夫を支えるのも妻の仕事。一息で言えてしまうそれだけの言葉を、彼女はつっかえつっかえ、ためらいながら口にしていた。


 彼女は、アイザックへの憎しみはもうなくなったと言っていた。だがシャルルは、それが嘘なのだと見破っていた。彼女自身すら気づいていない、そんな嘘だ。


 確かに、彼女は以前のようにはっきりと憎しみを態度に出すことはなくなっていた。


 けれど今でも、ディアーヌの美しい新緑の目には、時折憎しみの名残が火花のように散っていたのだ。


 もっともシャルルは、そのことをディアーヌに教えるつもりはなかった。


 彼女はとても真面目でまっすぐで、そして彼のことを夫として受け入れようとしている。


 そんな彼女にこんなことを教えてしまったら、きっと彼女は憎しみの最後のかけらをも抑え込もうとするだろう。


 それは嬉しくない。彼は、彼女の憎しみすら美しいと思い、愛おしく思っていたのだから。ディアーヌは彼のそんな一面に戸惑っているようだったから、最近では隠すようにしていたけれど。


 結局彼の中には、ローラがぶつけてくる憎しみに恋い焦がれたアイザックとしての人格が存在したままなのだ。


 アイザック、以前のシャルル、そして今のシャルル。彼らに共通するのはただ一つ、ローラへの、ディアーヌへの愛情だけだった。


「……思えば、ローラとディアーヌは似ているような気がする。ローラについては、あまり多くのことを知ることができなかったが……」


 恋する乙女のような表情で、シャルルはつぶやく。と、その顔に今度は苦笑が浮かんだ。


「俺は、まるで違う人間に生まれ変わったがな。そのせいで、ディアーヌには苦労させてしまった。……俺という存在が彼女を悩ませている、そのことはとても甘美で、そのくせ心苦しかった」


 青い目を細めて、彼はまた感嘆のため息をついた。


「でもようやく、心おきなくディアーヌと暮らせそうだ。あと一つ、三人目の依頼人の問題さえ片付けば」


 そこまで口にしたところで、彼は目の前の机に積み上がった仕事の数々を思い出したらしい。真剣な表情になって、近くに置かれた紙を一枚手にした。


「……今のところ、かなりの人数が参加を表明しているな。こちらとしても助かる」


 彼は今、『蜜月の宴』を開くための準備をしているところだった。


 彼の担当は、招待状書きとその返事の管理、当日の使用人たちの配置、警備の私兵の管理など。


 ディアーヌは、また別の作業を担当している。少しでも早く宴を開くために、二人は手分けして作業をこなしていたのだ。


「……警備の手が足りないな。事の流れによっては、少々荒っぽいことになるかもしれない……友人のところから、少し借りてくるか……?」


 かつてのアイザックには、友人という概念がなかった。彼には対等な存在など、一度もいなかった。


 彼をあなどり、見下してくるたくさんの人間を実力でねじふせ、ただ一人で高みに上る、そんな人生だったから。


「そういう意味では、記憶を取り戻す前のシャルルには感謝しておかなくてはな。どうも、あの軟弱な男が俺なのだと思うと、違和感しかないが」


 一方のシャルルには、多くの友人がいた。穏やかで優しい彼には、自然と人が惹きつけられていたのだ。


 もっとも、彼がディアーヌと結婚してからは、友人たちとも疎遠になっていた。


 前世の記憶を取り戻したことで、すっかり彼は変わってしまった。それ以上に、彼はただひたすらにディアーヌのことだけを見るようになってしまっていたから。


 しかしそれでも、友人たちは祝福のパーティーを開いてくれ、変わってしまったシャルルを好意的に受け止めていた。シャルルはそれが、不思議だった。


「持つべきものは友、か。前世では知らなかった感情だ」


 そんなことをつぶやきながら、シャルルはてきぱきと仕事を片付けていく。そうしていたら、ディアーヌがひょっこりと姿を現した。手に、数枚の紙を持って。


「ねえ、シャルル。今、いいかしら。相談したいことがあるの」


「お前からの相談なら、いつでも受け付ける」


 真顔で断言したシャルルに、ディアーヌはちょっぴりおかしそうな顔をしながら紙を差し出した。


「宴当日の私たちの衣装だけど、こういう感じにしようと思うの……」


 そう言って彼女は、一枚のスケッチをシャルルに見えてくる。そこには、一見普通の、しかしあれこれと工夫がされた衣装が描かれていた。


 今度の『蜜月の宴』は二人にとってただの宴ではない。自分たちに敵意を持つ者、三人目の依頼人をあぶり出すための罠だ。


 だから、美しく着飾るだけでは足りない。万が一のことがあってもいいように、動きやすさも備えたものがいい。できれば、ちょっとした武器の一つも忍ばせておきたい。


 シャルルの衣装は、それらの条件を簡単に満たすことができた。


 元々男性の正装は比較的動きやすいし、内ポケットに小ぶりのナイフくらいは入れておける。


 それに今、彼が護身用の武器として持っているのは繊細な彫刻が施された杖だった。これなら、宴の席にも堂々と持ち込める。


 しかしディアーヌのほうはそうもいかない。それなりにきちんとした、流行を押さえたドレスである必要があるからだ。


 胴体はぴったりと体に沿っていて、袖は優美な曲線を描き、そしてスカートはたっぷりと広がっている、そういうものだ。


 護身用の武器を隠すだけなら、それこそスカートの中にでもしまっておけばいい。でもそうすると、取り出すのが大変になる。それに、どうあがいてもドレスが動きにくいことに変わりはない。


 その辺のところをどうしたらいいのかについて、ディアーヌはシャルルに意見を聞きにきたのだ。


 もちろん、彼女なりに考えてはみたようだった。しかしどうにも、行き詰まってしまったらしい。


 状況が状況だけに、他の人間には相談できない。うっかり声をかけた相手が三人目の依頼人だという可能性もあるのだから。


「ふむ……そういうことなら、ここをこうしてはどうだろうか」


 渡された紙をじっくり眺めていたシャルルが、指でさっと絵を描きながらそう説明する。ディアーヌは彼のすぐ横に立って、その説明にじっと聞き入っていた。


 二人の腕がぴったりと触れ合っていたが、ディアーヌは集中していて気づかないようだった。


「……そうね、いい感じになりそう。あ、だったらここをさらにもう一工夫すれば」


「ならば、ここはこう……そして下にこれを……というのは?」


「あっ、それいいわね」


 目の前の小さな問題がようやっと片付きそうなことに安堵したのか、それともシャルルの提案がよほど気に入ったのか、ディアーヌは子供のように顔を輝かせている。


 いつも凛とした彼女の珍しい一面に、シャルルは無言で見入っていた。こうして彼女の隣にいられる幸せを噛みしめながら。


 そして同時に、煮えたぎるような怒りも感じていた。


 前世からずっと望み続け、一度は拒まれながらも辛抱強く待ち続け、ようやく手にしたこの幸せを、どこかの誰かが壊そうとしている。


 決して、許しはしない。二度とそんなことを考えられないよう、徹底的に叩きのめしてやりたい。シャルルの胸の内には、そんな思いが渦巻いていた。


 もちろん、相手にも何かしらの事情はあるのだろう。かつてのアイザックとは違い、今の彼にはそのことを考えるくらいの分別はあった。けれどその分別すらも、怒りに塗りつぶされつつあった。


 怒りを抑えきれなくなる前に、早く、見つけなければ。シャルルはいつもと同じ落ち着いた表情のまま、心の中でそう繰り返す。


 自分が怒りのままに行動すれば、ディアーヌを恐れさせてしまうかもしれない。身分にも今の生活にも未練はないシャルルだったが、ただ一つ、ディアーヌを失うことだけは耐えられなかった。


「……シャルル? どうしたの? 何だか上の空みたいだけれど……」


 いつの間にか考え込んでしまっていたシャルルの顔を、ディアーヌが心配そうにのぞき込む。その表情に、シャルルは胸がひときわ甘くうずくのを感じた。


「大丈夫だ。……必ず、見つけ出そう」


 そう言って彼は、ディアーヌの肩に手を置く。その肩は、不安になるほど華奢だった。


 彼女を守りたい。結局のところ、自分の中の思いは全てそこに行き着く。そう自覚したシャルルの口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。


「……ディアーヌ。全部終わったら……今度こそ、二人でゆっくり過ごそう」


 ええ、という吐息交じりのかすかな返事に、シャルルの笑みは深くなっていた。

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