3.彼のことが分からなくて
独りきり、自室の床に座り込む。背中を入り口の扉に預けたまま。
シャルルと離れたのに、少しも気持ちは落ち着かなかった。憎くて辛くて悲しくて、それなのに愛おしくて。
荒れ狂う感情の嵐に翻弄されながら、ただじっと座っていた。時間の感覚もなくなるくらいに。
そうこうしているうちに、ゆっくりと考えがまとまり始めていた。
愛おしいからこそ、彼とは一緒にいられない。
かつての彼、私に甘く愛をささやいて私の心を開かせてくれた彼の、あの優しい記憶をこの憎しみで塗りつぶしてしまいたくはない。
シャルルは変わってしまった。私も変わってしまった。もう以前の私たちではいられないのだから、せめて思い出くらいは守りたい。
もう、シャルルと共には暮らせない。でも彼は、私を離縁するつもりがないようだった。
だったら、ここを出よう。離縁してもらえなくてもいい。修道院に逃げ込んでしまえば、彼は私に近づけなくなる。それから先のことは、落ち着いてから考えればいい。
「とにかく、ここから離れないと……」
ぼんやりとしたままそうつぶやいて、大急ぎで荷造りを始める。
ただ悩むだけではなく、できることが見つかったのが嬉しかった。本当にこれでいいのだろうか、という思いが時折頭の中をかすめるけれど、あえて無視する。
最低限の着替えと身の回りの物を、大きな布袋に詰め込む。後は、シャルルに気づかれる前にこの屋敷を飛び出せばいい。馬を飛ばせば、十分に逃げ切れる。
ディアーヌとして生まれてから、一応令嬢のたしなみとして乗馬の練習もしていた。とはいえそれは、馬を上品に歩かせて、屋敷の近くをゆったりと散歩するくらいのものだった。
けれど幸い、前世の私、ローラは乗馬の達人だった。あちこちから攻めてくる敵を迎撃しているうちに、自然と上達していたのだ。
今の私は前世の私より筋力も体力も劣るけれど、荷物を背負ったまま馬に乗って最寄りの修道院に駆け込むくらいはできるだろう。
「……こんな形で、ここを去ることになるなんてね」
自虐混じりにつぶやいて、荷物を手に入り口に向かう。扉の取っ手に手をかけたその時、扉の下に何かが挟まっていることに気がついた。
「……手紙……?」
宛先も何も書かれていない、真っ白な封筒。封はされていなかったので、戸惑いながらも開けて中を見てみる。
『お前が今の俺をすんなりと受け入れられないのも当然だと思う。出ていきたいと考えるのも。だがもう少しだけ、ここに留まってくれないだろうか』
それはシャルルの筆跡だった。かつて、私に甘く優しく愛をささやいていた頃と全く同じ、繊細で美しい、女性のものと見まごう筆跡。
けれどその優美な文字が紡ぎ上げているのは、やはり淡々とした文章だった。前のシャルルとは似ても似つかない、そんな言葉……いや、少し雰囲気が変わった。
『……俺は、お前と離れたくない。どうか俺に、時間をくれ』
その文体は、やはりアイザックの口調に似ている。けれどその言葉には、文字には、焦りのようなものがにじんでいるように思えた。
昨夜からずっと落ち着き払っていたシャルルのそんな言葉に、立ち尽くす。
彼は、懸命に私を引き留めようとしている。きっとさっき居間から私が走り去ったから、心配になってこの手紙を書いたのだろう。
そのやり方は、以前のシャルルを思い出させるものだった。
彼は、細やかな気遣いができる人だった。
私が悩みを抱えていた時に『僕でよければ、いつでも相談に乗ります。直接話すのでも、あるいは手紙でも』という手紙をくれた。それだけのことで、心がすっと軽くなったのを覚えている。
でも今の彼には、少なからずアイザックの要素が混ざっているように見える。
あの無表情、あの淡々とした口調。それは、かつて何度も戦場で見たアイザックのものとよく似ていた。
アイザックが、わざわざ私を引き留めようとするだろうか。私が彼を敵と定めていたように、彼にとっても私は敵だ。
油断させておいてだまし討ちにするつもりなのだろうか。でもそれは、アイザックらしいやり方ではない。
アイザックはあくまで正々堂々と武力をもって、敵――すなわちそれは、私が率いる赤の国の兵士たちだ――を圧倒していたのだから。彼が計略のたぐいを使ったことなんて、知る限り一度もない。
「今の彼は、アイザックに見える。でもアイザックなら、私を引き留めはしない。シャルルにしては態度がおかしい。……今の彼は、どちら……誰なのかしら」
彼は自分のことをシャルルだと言い張っている。けれど同時に、彼にはアイザックとしての記憶もある。そして、彼は私を引き留めようとしている。
「……分からない……彼が何を考えているのかも、自分の気持ちも」
今逃げてしまえば、楽になれるかもしれない。
愛しい人と離れてしまうという胸の痛みは残るけれど、全く別の未来に向かって歩いていけるかもしれない。
もしここに残れば、私はこの混乱した気持ちを抱え続けることになる。
でもひょっとしたら、シャルルについて知ることができるかもしれない。彼が誰なのか、何を考えているのか。
そして何より、シャルルは私がここに残ることを望んでいる。
手紙をじっと見つめたまま、考えて考えて、考え続ける。
そうして、大きく息を吐いた。さっき荷造りを終えたばかりの荷物、その中身を、一つずつ元の場所に戻していく。
修道院に逃げ込むのは、もう少しだけ待ってみよう。きっと、まだここでやれることがある。苦しくても、耐えてみよう。そう思えた。
そうして、私たちの奇妙な同居生活が始まった。
私は、一日のほとんどを自室で過ごしていた。
今使っているのは、シャルルの私室からはできるだけ離れた部屋だった。最初用意されていた部屋よりはずっと質素な部屋ではあるけれど、それでもここが一番落ち着く。
未だに私は、シャルルが近くにいると動揺してしまうのだ。
けれど日に一時間くらい、意を決してシャルルの私室を訪ねる。彼と話して、少しずつでも彼の考えを探っていくために。
とはいえ、結婚前のような甘いお喋りは影も形もなかった。今のシャルル相手だと、そもそも話がろくに続かないのだ。
私が考えながらシャルルに質問を投げかけ、それに彼が短く答える。それの繰り返しだった。
会話というより、尋問をしているような気分だった。今の私に尋問の経験なんてないけれど、前世の私、ローラは尋問に立ち会ったこともある。
そうして今日もぎこちない会話を終えて、自分の部屋に戻っていく。寝台に腰かけて、ふうと息を吐いた。
「私、何をやっているのかしらね……本当なら今頃、幸せのただ中にいたはずなのに」
クッションを抱きしめて、頬を寄せた。上質な絹のさらりとした肌触りが心地いい。
「シャルルは、私の好きなようにさせてくれている……食事とお茶の時間以外ほとんど引きこもっているのに、何も言わないし……」
どうやら彼は、私がここに留まっていればそれで構わないようだった。少し拍子抜けするけれど、そっとしてもらえるのはありがたかった。
「それに一応、私の質問にも答えようとはしてくれているし……口数は少なくなってしまったけれど」
彼と顔を合わせれば合わせるほど、彼の中のアイザックを実感してしまう。そのたびに、前世の私が抱いていた憎しみがかきたてられる。
とはいえ、私もさすがにこの感情のあしらい方を覚えつつあった。相変わらず胸がちりちりと痛むけれど、もう以前のように取り乱すこともなくなっていた。
「……シャルルは本当に、私と離れたくないって思ってるみたいなのよね……」
クッションを抱きしめたまま、寝台にばたりと仰向けになる。美しい壁紙の張られた天井を見ていたら、涙がにじんできた。
私だって、シャルルと離れたくない。彼がアイザックでさえなければ、私はいくらでも彼を愛して、彼のそばにいるのに。
今のシャルルから、以前のシャルルの面影を時折感じ取ることがある。
そんな時私は、どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく悲しくなるのだ。彼をまっすぐに愛せない、そんな悔しさが胸に突き刺さって辛い。
クッションを顔に押し当てて、そのまま横を向く。誰にも聞こえない小さな声で、つぶやいた。
「どうして、こんなことになっちゃったのかしら……これから、どうなるのかしら……」
私のそんな泣き言を、クッションはしっかりと受け止めてくれていた。