29.手に手を取って、前へ
そうしてひとしきりお喋りをしてから、また私たちの屋敷に戻ってきた。
アデールとブランシュが乗った馬車を見送って、それから大急ぎでシャルルの部屋に駆け込む。彼もまた、私の隣をせかせかと早足で歩いていた。
ブランシュの話を聞いてからずっと、シャルルに話したいことがあった。屋敷に戻ってくるのが待ち遠しくてたまらなかった。
シャルルの部屋の鍵がかかったキャビネットの前に立ち、彼に呼びかける。
この中には、二人で作った『三人目の依頼人の容疑者リスト』とでも呼ぶべきあの紙束がしまわれているのだ。
「ねえ、シャルル。私、あの紙束に書いた人たちを、一度に集められる方法を思いついたのだけれど」
「俺もだ」
やはり、シャルルも私と同じことを思いついていたらしい。カフェで話していた時からずっと、彼がちらちらと目配せをしてきていたし。
うなずき合って、同時に口を開く。
「『蜜月の宴』ね」
「『蜜月の宴』だな」
私たちの言葉は、ぴったりそろっていた。そうして二人同時に、笑顔になった。行き詰まっていた問題がようやく前に進むかもしれないという安堵の思いに。
ブランシュが教えてくれたところによると、『蜜月の宴』はとにかくたくさんの人間が集まって陽気に騒ぐ、そんな集まりとなることがほとんどらしい。
要するに『私たち、結婚してこんなに幸せに暮らしています!』というのを思いっきり見せつけて、そして思いっきり祝ってもらうための宴なのだそうだ。
だから形式や作法なんて無視して、羽目を外して楽しめるものにしたほうがいいと、今まで宴を開いた人たちはそう考えたらしい。
「肩ひじ張らない、気軽な宴……それなら、私たちが自由に動いて、隙を見せることもできそうね。三人目の依頼人を誘い出すために」
「ああ。それに、俺がお前に心底惚れていたことはみなの知るところだ。そんな俺ならば、『蜜月の宴』をひときわ盛大に祝おうとしても、違和感がないだろう」
「つまり、あの紙束に記された人たちを、みんなまとめて招待できる……」
「……そこで俺たちの親密さを見せつけて、三人目の依頼人をあきらめさせるという手もある。むしろそちらのほうが、成功する可能性は高いように思えるが」
「それは……最後の手段にしておきたいような……恥ずかしいし」
「隙を見せることと親密さを見せつけることは、同時に成立させられる。お前はただ恥じらっていればいい。俺が何とかする」
交互にそんなことを言い合って、同時に微笑む。最近、やけに息が合うような気がするのは、たぶん気のせいではない。
「ようやく、動けそうね。ただ悩んでいるのって、性に合わなくて」
「ああ。やっと、前に進めるな……よかった。本当に」
そう答えたシャルルは、ちょっと大げさなくらいにほっとしているように見えた。そんな彼をじっと見つめて、眉間にしわを寄せ考える。
やはり彼は、どこか様子が変だ。このところやけに思い詰めているようだったし、妙に不安定だった。
かつてのふわふわとしたシャルルならまだしも、今のシャルルはいつもどっしりと落ち着いている。
私が前世の記憶に翻弄されて取り乱している時、彼は冷静に辛抱強く私を見守ってくれていた。気になることもたくさんあっただろうに、私がちゃんと話せるようになるまで待ってくれていた。
それに、道のない森の中を進んでいる間だって、彼はその辺の草原を歩いているのと同じくらい平然と、悠々と足を進めていた。その落ち着きぶりに、私は少なからず助けられてきた。
普段のそんな彼と、どことなくそわそわした目の前の彼。やっぱり、何かある。
「……ねえ、シャルル。さっきはああ言ったけれど……その、悩みがあるなら話して欲しいの」
意を決して、そう口にする。
アデールたちが訪ねてくる直前に、悩みがあるのなら聞くと言った。彼はうなずいただけで、何を思い悩んでいるのかは話してくれなかった。なぜかひたすらに、私の身を案じてくれただけで。
ただ、自分を最優先にしろ、というあの不思議なまでの念の押しようは、たぶん彼の悩みと関係あるだろうと、そんな気はしている。
「これから私たちは協力して一仕事するのだし……ええっと、不安材料は少ないほうがいいから」
彼のことが心配なのだと、その一言が出てこない。素直になれない自分が、どうにも歯がゆい。
「大丈夫だ。俺の個人的な悩みなど、取るに足らない」
しかしシャルルは顔色一つ変えずに、そう返してきた。その青い目が、かすかに揺らいでいる。それを見ていたら、今度は自然と言葉が出てきた。
「取るに足らない、なんてことないわ! 私、あなたが不安なままだと……嫌、なの」
「ディアーヌ……すまない。その、俺はそんなに……様子がおかしかったのだろうか。お前がそこまで食い下がりたくなるくらいに」
ふうと息を吐いて、シャルルがそうつぶやく。さっきまでの態度がただの強がりだったのだと一目で分かるくらいに、苦しげな表情だった。
「ええ。やけに弱気で、逃げ出すことをすぐに考えたり、歌劇に涙したり……アイザックの記憶が戻る前のあなたならともかく、今のあなたらしくない態度だなって、ずっとそう思ってたの」
具体的に一つ一つ挙げていくと、シャルルがどんどん難しい顔になっていく。
そのまま彼はしばらく黙りこくっていたけれど、やがてそっと口を開いた。いつになく、弱々しい声だった。
「……俺たちの前に立ちふさがるのが戦であれば、俺はお前を守ることができる。前世ほどの強さはないとはいえ、それでも俺は戦える」
彼は座ったままうつむいて、両手で頭を抱えた。さらりと流れる金髪が、彼の目元を覆い隠す。
「けれど今は、戦うべき相手がはっきりしない。もしかしたら、こうしている間にもそいつが忍び寄って、お前に害をなすかもしれない。そう考えると、怖かった。ここにいたくなかった」
彼が、泣いているように思えた。涙は見えなかったし、声もかすかに震えているだけだったけれど。
「……二人で今の地位と環境を捨てて、どこか遠く……それこそ、海の向こうにでも行ってしまえば、三人目の依頼人も手出しをあきらめるかもしれない。それが、お前を守るための一番の方法だと思った」
ここから逃げる。前にも彼は、そんなことを口にしていた。その口ぶりから、本気なのだろうとは思っていたけれど、彼はこんなにも真剣に、そのことを考えていたのか。
「だが、お前は逃げ出すことをよしとしなかった。俺は、お前の意志を尊重したいとも思っている。だからぎりぎりまで三人目の依頼人を探し出しつつ、いざという時に備えることにした」
金の髪をかき乱しているシャルルの手に、ぐっと力がこもった。
「そんな時にあの歌劇を見たものだから、つい……自分を重ねてしまった。あの物語の二人のように、俺たちの先に悲劇が待ち構えていたとしたら。そう考えたら、辛くなってしまった」
静かにそう告げるシャルルを見ていたら、不思議な感情が込み上げてきた。困惑でもなく、同情でもなく。……愛おしさ、かもしれない。
「ねえ、シャルル」
優しく呼びかけると、シャルルの肩がぴくりと震えた。
「私だって、守られてばかりのか弱い女性じゃないのよ。それはまあ、野宿なんかではまるで役に立たないし、あなたと比べたらずっと弱いけれど」
シャルルがのろのろと顔を上げる。途方に暮れたような、悲しげな青い目が私を見た。
「まだ、あきらめるには早いと思うの。私も頑張るから、もう少しだけ粘ってみましょう。その……夫を支えるのも、あの……つ、妻の、仕事なのだし」
勇気を出して、そう言ってみる。
もう、アイザックでもある彼のことを憎いとは思っていない。でも、彼に面と向かって夫婦だと言うのは、まだちょっと照れ臭い。というか、どんな顔をしていいのか分からない。
けれど私の勇気は、十分すぎるくらいに報われた。シャルルはふわんと微笑んで、機敏な動きで立ち上がると、そのまま私をぎゅっと抱きしめたのだ。
「……お前は、俺に触れられることを望んでいないと思う。だが俺は、お前に触れたい。少しだけ、こうさせてくれ」
「……その、別に、嫌ではないから……複雑な気分ってだけで……」
ごにょごにょとつぶやいて、そっと彼の背中に手を回した。見慣れているその背中は、思っていたよりずっと大きかった。




