21.野宿も悪くない
「……せめて、説明くらいして欲しかったわ……」
ぽつりと一人つぶやいて、焚火の前に座り込む。
シャルルがなんであんな指示を出したのか分からないけれど、少なくともこの森では、彼の言うことをきちんと聞いておいたほうがいい。
彼は野宿慣れしているけれど、私は全くの初心者なのだから。
それはそうとして、彼が何をしに、どこにいったのかさっぱり分からない。
彼のことだから戻ってこないなんてことはないだろうけれど、それでもいきなり置いていかれたのは、ちょっと……心細かった。
「一人だから心細いのか、シャルルがいなくて心細いのか……」
黙っていたら余計に落ち着かなくなりそうな気がして、ついつい独り言を口にしてしまう。どうせ誰も聞いていないのだし、別に構わないだろう。
「頼りになるし、私のことを気にかけてくれているし……彼の思いについては、疑っていない」
そして自然と、独り言はシャルルのことになっていた。
「……なんだかんだで、結構いい旦那様……なのかもしれないのよね」
旦那様。その言葉をつぶやいた時、違和感がむずむずと胸をくすぐった。
やっぱり、まだ慣れない。彼がアイザックであった、その事実は小さなとげのように、胸に刺さったままだ。
「あと一歩、あと少しだけ歩み寄れればなあって、思わなくもないのだけれど……」
ぱちぱちと燃える焚火を見つめ、ふうとため息をつく。座り直して膝を抱え、ぼんやりとシャルルの帰りを待っていた。
「……まだ、帰ってこない……何かあったのかしら……」
そうやって、どれくらい待っていたのだろう。上に見えている空は、ほんのりと夕焼けの色に染まり始めていた。
「夜になったら、獣が出るかもしれない……って言ってたわよね。ローラだった頃とは比べ物にならないけれど、私だって少しくらいは戦える……はず」
シャルルに贈られた銀の剣をぎゅっと握りしめて、周囲の森を見渡す。私がいる草地はまだ明るいのに、森の中はもう薄暗くなっていた。
どうしよう。怖い。でもそれを口にしてしまったら、もっともっと怖くなってしまう。だから銀の剣をお守りのように抱えて、一生懸命自分を奮い立たせる。
と、茂みが揺れるがさがさという音がした。反射的にそちらを向いて、身構える。あれはシャルルだろうか、獣だろうか。
息をのむ私の前に、シャルルがゆっくりと姿を現した。いつか逃げ出した私を迎えにきてくれた時のように、その顔は夕焼け色に染まっている。
……いや、よく見ると血もついている……?
「遅くなった。すまない」
「シャルル、あなた怪我をして」
あわてて駆け寄り、シャルルの頬に手を伸ばそうとする。彼はすっと半歩下がって、私の手を避けた。
「ただの返り血だ。お前の手が汚れる」
「返り、血……?」
彼は何を言っているのだろうと首をかしげたその時、彼の後ろにあるものに気がついた。
小ぶりの羊くらいある、肉付きのいいイノシシ。しかも絶命している。
「……っ、きゃああああ!!」
我ながらあきれるくらい、大きな悲鳴が出てしまった。それを聞いたシャルルは、おかしそうな笑みを口元に薄く浮かべていた。
「まったくもう、食料調達だなんて……一言くらい説明して欲しかったわ」
「すまない。だがここに来る途中、イノシシの新しい足跡を見たのを急に思い出した。明るいうちに狩っておきたかった」
シャルルに背を向けて、腕組みしながら話す。彼は今、草地のそばにある小川のほとりでイノシシの解体中だ。
こうして離れていても、ほんのりと血の臭いが漂ってくる。昔さんざん戦場でかいだ、ほろ苦い記憶をかき立てる臭いだ。
シャルルも、同じように感じているのだろうか。それとも前世の記憶がよみがえる前の彼がたびたび口にしていた、血への嫌悪感が勝っているのだろうか。
アイザックの記憶がよみがえる前の彼、とにかく優しかった彼には、イノシシを倒すなんて芸当は無理だった。まして、解体だなんて。
小川のさらさらという音に交じって、肉を切る音が聞こえてくる。
その音から判断すると、おそらく彼の手際はとても良い。時々手やナイフを川の水で洗いながら、迷うことなく肉を切り分けている。
「もういいぞ、終わった」
そんな声に、そろそろと振り向いた。もしかしたら後ろは、血塗られた大惨事になっているのかもしれないな、と覚悟を決めて。
ところが意外にも、小川のほとりはきれいなものだった。血の跡もほとんどない。シャルルが何かを詰めた袋を手に、こちらに向かってくる。
「……その袋の中身、何? 頭とか内臓とか、そういうのは……」
「いや、肉の部分だけだ。内臓もきちんと処理すれば食べられるが、これからの旅路ではそこまでの余裕はない」
「それなら、よかったけれど……」
「だから、そこの草むらには近づくな。他の部位が隠してある。後で穴を掘って埋めるから」
シャルルの返事にほっとしかけて、すぐに身震いした。それを見た彼が、おかしそうに笑う。
「初日に、脂の乗ったいいイノシシに出会えたのは幸運だった。これで、持ってきた食料をかなり節約できる。それに何より、新鮮な肉は力をつけてくれるからな」
「……ご機嫌みたいね?」
「ああ。俺だけなら、保存食だけでも、野の草を食べてでも進める。だがお前には、少しでもいいものを食べてもらいたい」
「そ、そう。……その、感謝するわ」
まっすぐな言葉に胸がいっぱいになって、うまく言葉が出てこない。
照れ隠しのようなぎこちない返事に、それでもシャルルはまた幸せそうに微笑んでいた。
そうして、日も暮れた頃。私たちは焚火を囲んで、焼いた肉を頬張っていた。
「しっかり食べておけ、ディアーヌ。……もしかして、口に合わなかったのだろうか?」
「……いいえ、おいしいわ。ただ……森に入ってからずっとあなたに頼りきりなのが、ちょっと気になってしまって」
イノシシを狩ってきたのも、解体したのも、そして調理したのもシャルルだったのだ。
彼はイノシシの肉をこぶし大に切り分けて、塩と香草をまぶした。それから木を削った串に通して、焚火でじっくりと焼いたのだ。
ちなみに怪我をしたら大変だと言って、私には手伝わせてくれなかった。本当に過保護だ。
「気にせず頼れ。俺は嬉しい」
複雑な気分ではあったけれど、ひとまずその言葉に甘えることにした。森の中を歩いてきたせいか、すっかりお腹が空いてしまっていたし。
イノシシの肉はおいしかった。疲れた体に力を与えてくれるような、全身に染み渡るような素敵な味がした。
せっせと肉を食べているうちに、自然と笑顔になっていたらしい。シャルルがほんの少し目元をほころばせ、食べる手を止めてつぶやいた。
「……気に入ったようで、よかった」
その優しいまなざしに動揺してしまい、うまく返事ができない。焦ったあげく、口から出たのは全く別のことだった。
「そ、それより、イノシシを狩るなんて大変じゃないの? あなた、大した武器は持っていないのに」
「この大きさなら、杖で十分だ。……前世の俺なら素手でも倒せたんだが、さすがに今は無理だ」
思わず、在りし日のアイザックの姿を思い出す。あれだけ大きくて重たいハルバードを軽々と振り回していた彼なら、素手でイノシシを倒すくらい余裕な気もする。
そうして、また一口肉を食べる。甘い肉の脂にほうとため息をついて、決意を固めた。
「……その……あなたのおかげで、おいしい食事にありつけたわ。……ありがとう、シャルル」
次の瞬間、彼が浮かべた笑顔の見事なことと言ったら。
大輪の白いバラのつぼみがほころぶ様は、きっとこんな感じに違いない。とっさにそんなことを考えてしまうほどに美しかった。
テュエッラには言ってやりたいことが山ほどあるし、問いただしたいこともたくさんある。
けれど、彼女のおかげでこんな時間が持てたと、そう言えなくもないのかもしれない。
焚火の中で枝がはぜる音を聞きながら、ぼんやりとそんなことを考えた。




