2.私たちの最初の朝は
次の日の朝、私は重い頭を抱えながら食堂に向かっていた。そこでは、既にシャルルが私を待っていた。昨夜と同じ、悠然とした態度で。
彼は私の様子を一目見るなり、静かに言った。
「……眠れなかったようだな。それも当然か」
「その口調、やはりあなたはアイザックなのね……悪い夢であってほしかった」
実は、ちょっとだけ期待していた。朝になったら、全部なかったことになってはいないか、と。
もしかしたら、いたずら心を出したシャルルが演技をしていたとか、そんなことを白状してくれるかもしれない、と。
もちろん、そんなはずはないと分かってはいた。だって私には、やはりローラの記憶がある。
昨夜眠れずに天井を眺めていたら、次々と記憶がよみがえってきたのだ。ローラが子供の時のことから、戦場に立つようになったいきさつまで、色々なことが。
ただ、アイザックとのあの一騎討ちから先のことは、何も思い出せなかったけれど。
ああ、ささやかな最後の希望も打ち砕かれてしまった。私はこの現実と向き合わなくてはならない。落胆をのみ込んで、シャルルから目をそらす。
目の端で、シャルルがゆったりと首を横に振るのが見えた。
「アイザックとしての記憶はある。だが今の俺は、シャルル・カリソンだ」
「シャルルは『俺』なんて言わないわ。そんな冷たい目もしない」
「……冷たかっただろうか」
「ええ。気の弱い女性なら、一目でおびえてしまうくらいに」
少しだけためらって、もう一言付け加えた。
「アイザックは、それはもう恐れられていた。私は味方の兵士を鼓舞するのに、いつも四苦八苦していた。あの時の苦労を思い出したわ」
そのまま、じっと見つめ合う。
昨夜の、前世の記憶が戻る前のものとはまるで違う、甘さのかけらもない空気。それに悲しさを覚えながらも、ぐっと奥歯を噛みしめてこらえる。
シャルルの青い目が、ふっと揺らいだ。冷ややかで静かな目に、何かの感情がひらめいている。
それが何なのか突き止める前に、今度はシャルルが視線をそらす。
「……ともかく、朝食にしよう。空腹では頭も体もろくに動かない」
ええ、とだけ答えて、席に着いた。
シャルルが合図をすると、メイドたちが料理を運んできた。私たちの間に漂う微妙な空気を感じ取っているのか、彼女たちもどことなく落ち着きがない。
そうして、この上なく気まずい朝食が始まった。
礼儀正しく食事をとりながら、ちらちらと向かいのシャルルを見る。
最愛の人で、でも最悪の敵で。二つの記憶の中の、そっくりなのにまるで違う二人の姿が、交互に浮かんでは消える。
以前よりはずっと堅苦しくなってしまった彼は、ゆったりとした動きで料理を口に運んでいた。
それはかつてのシャルルの面影を確かに残した、優雅で優美な仕草だった。けれど同時に、アイザックの力強さをも備えていた。
ああ、どんどん分からなくなっていく。彼は誰なのか。アイザックに憎しみを抱く私は、ローラなのか、ディアーヌなのか。
「……シャルル?」
「ああ」
恐る恐る呼びかけると、返ってきたのは短い声。以前の彼とはまるで違う、ぶっきらぼうな低い声。やっぱり、違う。シャルルじゃない。
眉間にしわを寄せて、さらに声をかけた。
「……アイザック?」
「かつてはそうだったが、もう違う」
私はアイザックについて、そこまでたくさんのことを知っている訳ではない。
彼と戦場以外で出くわすことなんてなかったし、あの一騎討ちの時まで、彼と言葉を交わしたこともなかった。
でも、今の彼はアイザックに近いように思える。この表情、この声。
不安を押し殺すようにして、さらに質問を続ける。
「だったら、どうしてそんな口調なの?」
「……どうしても、記憶に引っ張られてしまう。俺も、昨夜アイザックとしての記憶がよみがえったばかりだ」
そうして彼は、まっすぐに私を見た。甘さはないけれど冷ややかでもない、不思議に透明な視線だった。
「お前が望むなら、以前の優しい口調に戻すよう努力するが」
その様を想像して、ぶるりと震えた。
シャルルであるアイザックである彼が、以前のシャルルのように甘く優しくふるまっている姿。それはどうにも、ふさわしくないもののように思えてならなかったのだ。
「いえ、結構よ。あなたがアイザックだったって気づいてしまったから、今さら前の口調に戻されても、気持ちが悪いだけ」
「分かった」
私のちくりととげのある物言いにも、シャルルは気を悪くした様子はない。やはり淡々と食事をとり続けている。
ただよく見ていると、時々口元がほころんでいる。彼の、つまりシャルルの好物を口にした時だ。そのかすかな表情に、やっぱり彼はシャルルなのかなと思えてしまう。
そんな姿を目の当たりにしていると、どうにも調子が狂ってしまう。
戦場にいたアイザックは異様に落ち着き払っていて、表情一つ変えずに赤の国の兵士たちを次々と葬り去っていた。
一方で先日までのシャルルは、いつも甘い笑みを絶やさず、戦うどころか真剣を握ることすら嫌がる人物だった。木剣の手合わせも嫌いだった。
アイザックとシャルル、同じ顔だというのに、まるで逆だ。
目の前にいる彼は、どちらかというとアイザックに近い気もする。私が愛した男性ではなく、憎んだ男性に。
彼にとってローラは、戦いの中で出会った敵、それだけのものだと思うけれど。
「……冷めるぞ。美味なうちに、食べておけ」
私の手が止まっていることに気づいたのか、シャルルが短く言う。その口ぶりからして、彼は本当に朝食が冷めることを心配しているようだった。
とたん、悔しさがこみ上げてくる。
最愛の人が前世の最悪の敵で、その二つの記憶に挟まれて、私はどうしていいのか分からない。腹立たしい、苦しい、憎い、でも愛おしい。
それなのにシャルルときたら、まず気にすることが朝食だなんて。
急に腹が立ってきて、返事もせずにフォークで料理をぱくりと食べた。皿に残っていた炒り卵、シャルルの好物の一つを。
まだほんのりと温かい炒り卵は、バターの豊かな香りとほどよい柔らかさで、とてもおいしかった。
そしてそのことが、余計に私の悔しさをかき立てていた。
そうして、ろくに会話もないまま朝食が済んだ。
二人で居間へ移ると、メイドが食後のお茶の支度をして、しずしずと去っていった。彼女たちの顔に浮かんだ困惑は、さらに色濃くなっていた。
ティーカップを手に、時々シャルルの様子をうかがう。
結婚する前、よくこうやって一緒にお茶を飲んだ。
その時のシャルルは、お茶が冷めてしまうのも構わずに、ずっと私を見つめていた。君のどんな表情も、見逃したくないんです。そう言って。
でも今、シャルルはこちらを見ることなく物憂げに目を伏せていた。
いつもと違うその表情が、妙に絵になってしまっている。そう思えるのが、何だか悔しい。
そう思って視線をそらした時、ふとある考えが頭をよぎる。
私は彼の妻だ。つまり私は、これからの一生を彼と共に過ごさなくてはならない。
私は、シャルルを愛していた。彼がくれた山のような愛を受け取って、私の中の愛も育っていった。だから、彼の妻となりたいと、素直にそう言えた。
でも今目の前にいる彼は、あのシャルルとは違う。以前のシャルルとは違うとことばかりが目について、アイザックにしか見えないところが目についてしまう。
こんな彼と、やっていけるのだろうか。これから、何十年も。前世の記憶がもたらす憎しみを抱いたまま。
「……シャルル。私を、離縁してちょうだい」
気づけば、そんな言葉をつぶやいていた。シャルルが顔を上げて、私を見据える。
「なぜだ」
私がどんな思いでいるか、彼に想像がつかないはずはない。
少なくとも前世の記憶を取り戻す以前のシャルルは、とても思慮深く、他者の思いをよく感じ取れる人だった。それなのに。
分かってもらえなかったいら立ちが、胸の中の憎しみに火をつける。
「なぜって、決まってるでしょう!? 私は前世の、ローラとしての記憶を取り戻してしまったのよ!!」
いったん大きな声を出してしまったら、もう止まれなかった。
「ローラだった私は、あなたを、アイザックを殺さなくてはと、ずっとそう思っていた。今のあなたを見ていると、憎しみが、怒りが、消えないの!!」
最後のほうは、もう悲鳴のようになっていた。荒削りの思いを叩きつけて肩で息をする私を、シャルルは不思議なくらい落ち着いた目で見ていた。
やがてその唇が、ゆったりと言葉を紡ぎ出す。私の叫び声とはまるで違う、淡々とした声。
「……シャルル・カリソンとディアーヌ・メルヴェイユは、昨日正式に夫婦となった。それは動かしようのない事実だ」
「だから、離縁して! あなたから離れられれば、この憎しみも苦しさも、感じなくて済むから! お願い!」
どこまでも冷静な彼に、もう一度『離縁』の一言を投げつける。その拍子に、胸がちくりと痛んだ。
憎しみから、苦しみから逃れようとして口にした言葉が、さらに自分を傷つけている。どちらに向かっても、苦しみしかないのかもしれない。
「……嫌だ」
そんな私のためらいが移ったかのように、シャルルが低くつぶやく。気のせいか、どことなく苦しそうだ。
それでも、引き下がる訳にはいかない。このままここにいたら、きっと私は壊れてしまう。
「あなたにだって分かっているでしょう。私たちはかつて、軍を率いて戦っていた。互いの命を狙い合っていた。それぞれの祖国のために」
私は赤の国の騎士団長、アイザックは青の国の将軍。それぞれ、軍の頂点に立っていた。それぞれの思いなど関係なしに、殺し合うべき立場にあった。
「……そんな記憶を抱えたまま夫婦として共にあるなんて、そもそも無理なのよ」
「違う。かつて戦ったのはアイザックとローラだ。しかし今の俺たちはシャルルとディアーヌだ。……そもそも、俺はお前に憎しみを抱いたことなどない」
「でも、私の中の憎しみは消えないの!!」
いら立ちをこらえ切れずに、テーブルをばんと両手で叩く。カップとソーサーががちゃんと鋭い音を立てた。
その音に、戦場を思い出してしまった。
ローラであった私が、幾度となくアイザックである彼を見かけていたあの場所。金属がぶつかり合う音と血の匂いに満ちた、あの地獄のような場所。
とうとう耐えきれなくなって立ち上がり、何も言わずに居間から走り去る。
今はとにかく、一人になりたかった。彼に怒りをぶつければぶつけるほど、苦しみと混乱が増してしまう、そんな気がしてならなかった。
シャルルは追いかけてこなかった。そのことにほっとすると同時に、奇妙な空白感を覚えてしまった。
もしかして私は、追いかけてきて欲しかったのだろうか。まさか、そんな。
途方に暮れながら、そのまま自室に駆け込んで鍵をかけた。
手が震えているのは怒りのせいだろうか、戸惑いのせいだろうか、それとも……悲しみのせいだろうか。
いくら考えても、答えは分かりそうになかった。扉に背をつけたまま、ずるずると座り込む。
「……本当に、どうして、こんなことに……」
力ない私のつぶやきを、耳にする者は誰もいなかった。