16.ぎこちない二人の歩み寄り
その日、屋敷の中にピアノの音が響いていた。少し速めの、軽やかな旋律。
のびのびと歌うようなその音をたどり、シャルルが廊下をゆったりと突き進む。時折足を止めて目を閉じ、うっとりと聞き入りながら。
それから彼は、一室の扉をゆっくりと開ける。音を立てないように、慎重に。
その部屋では、ディアーヌがピアノを奏でていた。長い栗色の髪が、動きに合わせてさらさらと揺れている。シャルルはその様を、幸せそうに目を細めて見守っていた。
やがて、曲が終わる。美しい音の余韻に浸っていたシャルルに、ためらいがちな声がかけられた。
「……シャルル。そんなところで立ち聞きしていないで、中に入ったらどう?」
「お前が構わないのなら、ぜひそうさせてもらう」
いつも通りの淡々とした口調に、けれどひどく嬉しそうな響きが混ざっている。シャルルは部屋に入ると、ピアノから少し離れた椅子に腰を下ろした。
「結婚前にも何度か聞かせてもらったが、お前のピアノはとても美しいな。凛として強い、お前そのものを表すような音色だ」
「……そう褒められると、どう言葉を返していいのか分からなくなるのだけれど……」
「気にするな。俺の素直な感想だ」
少しも照れることなく真顔で言い切ったシャルルから目をそらして、ディアーヌは小さくため息をつく。
「……私ね、前世でもピアノが好きだったの。そのせいかしら、ディアーヌとして生まれて、初めてピアノに触れた時……ひどく心が高鳴った」
ぽろん、ぽろろん。ディアーヌは物思いにふけりながら、右手だけで鍵盤を気まぐれに叩いている。
「でも前世の私がピアノに触れたのは、子供の時だけだった。赤の国は周囲の国々との戦いで、どんどん貧しくなっていったから」
そう言いながら、彼女は左手を鍵盤に触れさせる。気まぐれな旋律に、伴奏が加わった。
「音楽も美術も、贅沢なものとして自粛されるようになった。私の屋敷にあったピアノは、埃をかぶったまま忘れられていた。ろくに手入れもされないまま」
少しずつ、彼女の手は動きを増していく。ほっそりとした指が素早く動き、鍵盤を力強く叩き始めた。
「それに騎士となってからは、もうピアノどころではなかった。こんな風にただ指を動かす暇があったら剣術の稽古をしたかった。死なないために、死なせないために」
じゃあん、と両手を叩きつけるようにして、彼女はひときわ大きな音を立てる。即興のそんな曲は、彼女のためらいと苦悩を表現しているようだった。
「そう考えると、今は平和ね。余計な考え事ができてしまうくらいに、暇」
そう言い放って、ディアーヌは別の曲を弾き始める。ピアノを弾くというよりも鍵盤に手を叩きつけているといったほうが正しいような、激しく情熱的な曲だ。
その姿に、その音に、シャルルは自然とローラの姿を思い出していた。今聞いている曲は、今のディアーヌよりもむしろローラに似合うと、彼はそう感じていた。
上品で美しく、けれど内側からほとばしる情熱と、その奥ににじむ一筋の怒り。それら全てを従え、乗り越えていくような強い意志。
シャルルは椅子の背にゆったりともたれかかり、あふれ出る音の波を全身で受け止める。
やがて曲が終わり、ディアーヌが深々と息を吐いた。そんな彼女に、シャルルはわずかにためらってから声をかけた。
「いいものを聞かせてもらった。……俺からも、一つ返礼がしたい。いいだろうか」
ええ、とディアーヌがうなずくと、シャルルはすぐに立ち上がり、隣の部屋に置かれていたものを手に戻ってきた。
「ヴァイオリン……? 結婚前に、何回か聞かせてもらったけれど……半分アイザックのあなたに、弾けるの?」
「問題ない」
自信たっぷりにそう言って、シャルルはヴァイオリンを構える。すぐに、甘やかな音色がゆったりとしたメロディを紡ぎ始めた。
何の曲だろうと考え込んでいたディアーヌが、不意にぴたりと動きを止める。明るい緑のその目が、大きく見開かれた。
「これって……昔の、民謡……」
彼女の震える唇から、かすかにそんな言葉がもれる。
泣きそうな顔で両手をきつく握りしめるディアーヌと、目を伏せたままヴァイオリンを弾き続けるシャルル。そんな二人を、どことなく哀愁を帯びた旋律が包み込んでいく。
曲が終わっても、二人は微動だにしなかった。ディアーヌは祈るように両手を組んだまま、シャルルはヴァイオリンの弓を構えたまま。
「……気に入らなかっただろうか」
すっと弓を下ろして、シャルルがつぶやく。ディアーヌは彼のほうを見ることなく、呆然とつぶやいた。
「どうして……あなたが、その曲を知っているの? だってそれは、赤の国で古くから知られている歌で……」
「青の国の平民たちも、この曲を知っていた。二つの国の王や貴族たちは敵対し合っていたが、平民たちの間には交流があった。俺は子供の頃、この曲をよく聞いた」
「そう……だったの」
ディアーヌは戸惑っていた。前世の自分が刺し違えてでも倒そうとした男の事情を、二つの国の事情を、次々と知ることになって。
かつての彼女は、祖国を侵略した青の国を、その将軍であるアイザックをひたすらに憎んでいた。
けれど当時の彼女の生きる意味そのものだった憎しみは、もう薄れ始めていた。今の彼女が、様々な事情を知ったことによって。
彼女はもう、アイザックを憎み切れていない。かと言って、以前のように純粋に愛しているとも言い切れない。
嫌いではない、むしろ好きなのに素直に歩み寄れない。彼女はそんな思いの中で揺れていた。
「お前が嫌だというのなら、もう二度とこの曲は演奏しない」
そしてシャルルは顔色一つ変えることなく、そう言い切った。はっとした顔で何か言いかけたディアーヌを置いて、部屋から出ていってしまう。
「……どうして私、素直に言えないのかしら……そうじゃなかったのに……」
ディアーヌがしょんぼりとため息をつく。そうやって一人うつむいていた彼女の耳に、足音が聞こえてきた。
「……改めて、礼になりそうなものを持ってきた。今度こそ、気に入るといいのだが」
そんな言葉と共に、シャルルがまた顔を出した。ヴァイオリンは既にどこかに片付けられていて、その手には小さなカップが一つ。
ディアーヌは差し出されたカップを受け取り、立ち昇る湯気に目を丸くする。それから恐る恐る口をつけた。
「温かいミルク……蜂蜜と、あと何か入っているの? 不思議な香りがするわ」
「薬草を酒に浸けたものだ。水で割ってもいいし、こうやって他の飲み物に加えてもいい」
「そうなの。……悪くはないと思うわ」
小声でつぶやいてから、ディアーヌがしまったという顔になる。また素直ではない物言いをしてしまった。彼女は明らかに、そのことを後悔していた。
また一口ミルクを飲んで、ディアーヌがばっと顔を上げる。意を決したように、口を開いた。
「あの、これ……おいしいわ。それと……さっきの曲、別に嫌じゃないから。だから……また気が向いた時にでも、聞かせてもらえるかしら……?」
ぎこちないその言葉に、シャルルは目を丸くした。それからふっと、柔らかく微笑む。ディアーヌが思わず見とれるほどに、見事な笑みだった。
「ああ。お前の望む時に、いつでも」
短いその答えには、この上ない喜びの響きがあった。ディアーヌはまた戸惑いつつも、小さくうなずく。
そんな彼女を、シャルルは穏やかな目で見守っていた。