14.シャルルは過去を振り返る
「俺は、幸せ者だ」
シャルルは一人、自室でつぶやく。とても満足そうな笑みが、その口元に薄く浮いていた。
彼はディアーヌと結婚してから、こうやって一人物思いに浸る癖がついてしまっていた。もはや、毎晩の日課と呼んでもいいかもしれない。
彼はいつものように、窓の外の夜空を眺めながら物思いにふける。彼の頭をよぎるのは、これまでのこと、そして前世からのあれこれ。
前世の彼であるアイザック、戦い以外何もなかった彼は、灰色の戦場でローラと出会った。
つややかな栗色をした彼女の髪がなびく様が、自分をまっすぐに見つめる明るい緑の目が、この上なく美しく思えた。そのことを、彼は今でも覚えている。
そして、彼女が自分に向けてくる純粋な敵意。恐れも戸惑いもない、ただ自分を倒すのだという鋭い決意。それもまた、彼の心をびりびりと震わせていた。
彼女にとって、自分は特別な存在なのだろう。それが悪い意味であったとしても、彼は嬉しくてたまらなかった。生まれて初めて、彼は執着という思いを知った。
それから幾度となく戦場で彼女と出会い、刃を交えた。できることなら、いつまでもこうしていたい。彼は、そう思わずにはいられなかった。
けれど、そんな日々はじきに終わりを告げた。いよいよ赤の国が滅亡の危機に瀕した時、ローラが予想外の行動に出たのだ。
彼女は騎士を数名連れて戦場を大きく回り込み、アイザックを背後から急襲したのだ。
それは戦い慣れしている彼をして驚嘆させるような、見事な立ち回りだった。もっとも、騎士団長たる彼女がそんな真似をしなくてはならないほど、赤の国は追い詰められていたのだが。
そうして、彼とローラとの一騎討ちが始まった。彼は喜びに打ち震えながら、それでも全力でハルバードを振るった。
ローラは命をかけてここまでたどり着いた。その全身全霊をもって、自分を討とうとしている。ならば手加減などしては失礼だ。最期の一瞬まで、持てる力の全てで彼女に向き合おう。
ただローラだけを見つめていられる、至福の時間。勝手に加勢しようとした味方の兵を斬り捨てて、なおもアイザックは戦う。彼は今までで一番、身も心も満たされているのを感じていた。
力では、アイザックのほうが遥かに優れていた。けれどローラはその小柄な体格を生かし、俊敏に動き回っていた。そして何より、気迫が違っていた。
祖国のため、絶対に目の前の男を討つのだという、そんな思いが、彼女の体から立ち昇っていた。それが彼女に、アイザックと互角に戦う力を与えていたのだった。
けれどアイザックの幸せな時間は、そう長くは続かなかった。
どれだけ打ち合っただろうか。ローラのサーベルが彼の体を貫き、同時に彼のハルバードがローラの体を砕いた。
そうして、二人同時に崩れ落ちていく。周囲の人間たちが何やら騒いでいるようだったが、彼にとってそんなことはどうでもよかった。
最後の力を振り絞って、ローラを抱き寄せる。薄く開いた彼女の目には、もう何も映っていないようだった。
「……かなうなら、またお前に会いたい。ずっと、一緒に……」
そう言って、アイザックは目を閉じた。動かなくなったローラを、しっかりと抱きしめたまま。
「まさか、その願いがかなうとはな」
そうしてシャルルは、おかしそうに笑う。
アイザックとしての記憶を一切持っていなかった彼は、ローラの生まれ変わりであるディアーヌと出会い一目で恋に落ちた。
どうにもつれないディアーヌのもとに、シャルルは毎日のように通うようになっていた。心からの笑みを浮かべ、たくさんの贈り物を携えて。甘い口説き文句を、毎回たっぷりと添えて。
「……改めて考えてみれば、以前の俺がしたことはアデールのやり方とそう変わりはしないのかもしれない。だがディアーヌは、最終的に俺の思いを受け入れてくれた」
夢のような結婚式、そして二人で迎える初めての夜。けれどここで、思いもかけない事態が二人を襲った。
幸せそうに笑っていたディアーヌが、突然顔色を変えて自分を突き飛ばした。その目には混乱と、憎しみが浮かんでいた。
その憎しみの色が、シャルルの眠れる記憶を呼び起こした。前世の、アイザックの記憶を。
ディアーヌが、ローラだった。その事実に、彼は感動していた。これこそ運命ではないかと、喜びに打ち震えた。
けれど当のディアーヌはかわいそうなくらいに混乱し切っていて、そして彼を拒み続けていた。
それも無理はないだろう。ディアーヌはローラと似たところが多かったが、以前の自分とアイザックとではまるで違う。
だから彼はいったん彼女を一人にして、落ち着きを取り戻すのを待ったのだ。
「……そうして落ち着いたとたん、離縁してくれと叫ぶとは思わなかったが」
その時のことを思い出しているのだろう、シャルルが切なげに肩を落とす。普段ディアーヌに見せているものとはまるで違う、感情豊かな仕草だった。
先日ディアーヌに話した通り、最近の彼は意図的にアイザックらしくふるまっているのだった。
彼はその気になれば、アイザックらしいところを一切見せずに、以前のシャルルとしてふるまうことも可能だった。少々、気恥ずかしくはあったが。
けれどそうすれば、きっとディアーヌはさらに混乱する。
甘く優しい彼女の夫は、それでも確かにアイザックなのだ。彼女はもう、そのことに気づいてしまっているから。彼がどれだけ優しくしても、彼女の中の違和感は消えることはない。
ならばいっそ、自分の中のアイザックに慣れてもらったほうがいい。そうして、少しずつ自分の思いを伝えていったほうがいい。シャルルとアイザック、二人分の愛を。
あれから色々あったし、薄氷を踏むような思いもした。ディアーヌが突然屋敷を飛び出していったと知った時は、彼女を失う恐怖に崩れ落ちそうになった。
でも無事に彼女と再会することができたし、ようやくディアーヌも自分のことを受け入れつつあるようだった。
ぎこちないながらも他愛のない話をし、手合わせに誘ってくる。そんなディアーヌが微笑ましく、そして涙が出るくらいに愛おしかった。
体を動かすのは、楽しかった。それも、彼女との手合わせなのだから。傷つけないようにするのは大変だったけれど。
もっとも、自分はもう二度とハルバードを手にすることはない。彼はそう決めていた。
自分が最後に斬ったのは、ローラだった。そういう意味でも、彼女は特別だった。他の人間を手にかけて、その特別さを損ないたくはない。
とはいえ、身を守るものがないというのも落ち着かない。体術の心得もあるけれど、それだけでは少々足りないように思える。
今の自分は、前世の自分とは比べ物にならないくらい弱い。今から鍛えたところで、前世の自分に追いつけるとも思えない。
しかしいざという時ディアーヌを守るためには、もう少し強くなっておいたほうがいい。
何か、手頃な武器を探したほうがいいだろうか。刃がなく、常に持ち歩けて、手加減も容易なものがいい。
シャルルがそんなことを考えていたその時、控えめなノックの音がした。
彼はそそくさと立ち上がり、扉に向かう。扉の向こうには、ちょっと戸惑った様子のディアーヌが立っていた。
「あ、シャルル……その、お茶の準備ができたみたいだけど……今、空いてる?」
「お前の誘いを断ることなどない」
きっぱりとそう言って、シャルルは所在なげにしているディアーヌをまっすぐに見つめる。
生まれて初めて心奪われた人、たった一人愛する人で、そして自分の妻。
彼女の明るい緑の目には、今でもかつての憎しみの名残が時折きらめいている。けれどそんな感情さえ、彼にはこの上なく美しいもののように思えていた。
それに彼女は、それでも自分に歩み寄ろうとしてくれている。そのことがとても嬉しいと、シャルルはそう感じていた。
彼女がもう一度自分に笑いかけてくれるように、愛しいと言ってくれるように。
シャルルでありアイザックである自分の自然な姿を、少しずつ彼女に見せていこう。そうして、心からの愛を告げよう。
そう決意しながら、シャルルは部屋を出る。
前を行くディアーヌには見えなかったし、彼自身も気づいていなかったけれど、彼はとても優しい、甘い笑みを浮かべていた。




