13.アデールの宣戦布告
「さて、ここまで来ればシャルル様にも聞こえませんわね」
建物の中に入ってしばらく進み、アデールはふんと鼻を鳴らす。それから、偉そうな態度でディアーヌに向き直った。
さっきまでシャルルに見せていた顔とはまるで違う、他者を見下すことに慣れた高慢な顔だった。
「ねえ、ディアーヌ。どうしてあなたは、離縁していないんですの?」
いきなりそんなことを言われたディアーヌは、ただ黙り込むことしかできなかった。
先日のパーティーでの自分たちを見ていれば、離縁なんて言葉は出てこないはずだ。少なくともあの場にいた人間たちは、自分たちのことをいい夫婦だと褒めていたのだから。
けれど自分が、かつて離縁を望んだことも事実だ。ずっとシャルルを避けて、別居同然の暮らしを続けていたことも。でもそれを、アデールが知るはずもない。
ディアーヌが動揺していることを見て取ったのか、アデールは満足そうに大きく笑う。
「驚きまして? ……実はわたくし、知っておりますのよ? あなたとシャルル様が、結婚……されてからのことを」
結婚、という言葉を口にした時のアデールは、恐ろしく険しい顔になってしまっていた。シャルルを取られたことを絶対に認めてなるものか、そう言わんばかりの表情だった。
「結婚直後、シャルル様は人が変わったように冷ややかな雰囲気になってしまわれた。あなたたち夫婦はほとんど行動を共にせず、ましてや寝床を共にすることもなかった」
得意げなアデールの言葉に、ディアーヌはさらに動揺する。それを見て、アデールはふふと笑った。
「さらに、あなたは一人でこの屋敷を逃げ出してしまったこともあったとか? シャルル様が必死に探されたんですってね……うらやましいですわ、悔しいですわ」
アデールの笑みが、深くなった。勝ち誇ったような、そんな笑顔だ。
「つまり、あなたたち夫婦は、実はもう破綻している。どう、合っているのではなくて? シャルル様がお優しいから、表ざたになっていないだけで」
「破綻……は、していない……かも」
悩みに悩んで、ディアーヌはそんな言葉を返した。今までのことを思い出しながら。
彼女は、アイザックでもある彼をずっと拒んできた。離縁してくれと叫んだこともあるし、屋敷を飛び出したこともある。
しかしシャルルはそんな彼女を引き留め、根気強く待っていた。前世の彼女に向けた思いと、今の彼女への愛情の二つを抱いて。
彼女がこうしてここに留まっているのは、シャルルの努力のたまものだった。彼のひたむきな愛情に裏付けられた、根気強い努力の。
そんなことを思い出しているうちに、ディアーヌの表情がゆっくりと和らいでいく。さっきまでの戸惑いと不安に満ちたものから、落ち着いた穏やかなものに。
それを見たアデールの顔から、さっきまでの優雅な余裕が消えた。ぎりりと奥歯を噛みしめて、彼女はさらに言いつのる。
「あらそうですの? 強がらなくっても結構でしてよ。言ったでしょう、わたくしは知っておりますのよ、と」
「……どうやって、そんなことを知ったの……?」
「馬鹿正直に、あなたに教えるとでも思いました? あなたはわたくしにとって恋敵ですもの」
「恋敵も何も、私はシャルルの妻なのだけれど……」
困惑しながら、ディアーヌがつぶやく。
アデールがシャルルに焦がれていることは分かった。しかし思い人が結婚したなら、普通は潔くあきらめるものではないのか。そんな疑問を、大きく顔に浮かべて。
それを見て取ったアデールが、また顔をこわばらせる。
「今は、そうですわね。あくまでも、今は」
そうして彼女は、ディアーヌに歩み寄った。吐息がかかるほど近くまで。そうして、鋭い目できっとディアーヌを見据える。
「覚悟しておきなさい、いつかきっと、あなたたちの間を絶対に引き裂いてやりますから!」
少し前のディアーヌなら、彼女がシャルルを奪ってくれたほうがいいかもしれないと考えたかもしれない。そうなれば、自分が直面したとんでもない問題から逃げることができるから。
けれど今の彼女は、違っていた。
もう少し、シャルルのそばにいたい。彼を見ていたい。自分の胸に芽生えているほのかな思いを、見定めてみたい。そんな風に考えるようになっていたのだ。
決してアデールには告げられないそんな思いを押し隠して、ディアーヌはただあいまいに微笑んでいた。
そうしてようやっと、アデールが帰っていった。シャルルは居間の椅子に腰かけて、疲れた様子で眉間を押さえている。
「……ディアーヌ。お前の慈悲の心は、美しいと思う。だが、できれば時と場所と相手を考えてもらえると、助かる」
「気をつけるわ。……さすがに私も、今日はちょっと疲れたし……」
深々とため息をついたディアーヌが、ふと何かに気づいたような顔でシャルルに向き直る。
「そういえば、あなたとアデールっていつからの知り合いなの? 私があなたと出会うより前だってことは、うっすらと聞いているけれど」
シャルルがディアーヌと出会ったのは、一年ほど前のことだった。
それから結婚までの間、彼女はシャルルからの猛烈な求愛を受け止めるのに忙しくて、彼自身のことはともかく、その周囲の人間についてはほとんど知らないままだったのだ。
「……確かあれは、五年ほど前のことだったか? あいつが一方的に押しかけてきた。なんでも、俺に一目惚れしたとか言って」
シャルルの眉間に、また深々としわが刻まれる。
「俺はあいつに興味が持てなかったから、適当にあしらっていた。そうしたら、あいつの親が出てきた」
「親?」
「ああ。アルロー侯爵だ。娘と結婚しろと、圧力をかけてきた」
「……アルロー侯爵……あなたのカリソン家や私のメルヴェイユ家よりも、格上じゃないの。よく逃げ切れたわね?」
「『私たちの』カリソン家だ」
律儀にそう修正して、彼は続ける。
「以前の俺、記憶を取り戻す前の俺は、のらりくらりと逃げ回るのがうまかったからな」
ディアーヌの脳裏を、穏やかで物腰柔らかで、マシュマロのようにふわふわだったかつての彼の笑顔がよぎる。おっとりとしていた割に、意外と押しが強かったことも。
「アルロー侯爵の命令を完全に拒絶すれば、彼がさらにでしゃばってくる可能性もあった。だから俺は、適当にかわして距離を置いていたんだ。おかげで、突進してくるのはアデールだけで済んだ」
そこまで語ったところで、シャルルはげんなりした顔になった。以前の彼なら、絶対に見せなかった表情だ。
「俺がお前と結婚して、あいつもいい加減にあきらめるかと思ったんだが……もうしばらく、逃げ回るしかないようだな」
「そうね。でも彼女が私に文句を言っている時間の分、あなたに構いつける時間は減るでしょうから。ちょうど、今日のように」
ディアーヌがさらりとそう答えると、シャルルはふっと優しく笑った。
「……お前は、強いな。俺が二度も惚れ込むだけのことはある」
その言葉に、ディアーヌの胸が突然高鳴る。彼女は妙な照れ臭さを覚えて、ありがと、と小声でつぶやいて視線をそらした。
彼女の白くつややかな頬は、ほのかな赤い色に染まっていた。




