11.憎き宿敵の事情
「……本当にやるのか」
「ええ、もちろんよ。体がなまっているのはお互い様だし、いいじゃない」
私とシャルルは、屋敷のすぐ外の草原にいた。動きやすい乗馬服に着替え、訓練用の木剣を手にして。
距離を取って向かい合い、構える。かけ声と共に駆け出して、木剣を振るった。かつん、という軽い音が、屋敷の壁に跳ね返って草原に広がっていく。
私たちは今、手合わせをしているのだった。こんなことになったのは、やはり前世の記憶のせいだった。
前世の私、ローラは貴族の娘ではあったけれど、祖国を守るために騎士となった。血のにじむような努力をして。
毎日体を鍛え、剣の練習をして、手合わせをして。そして、戦場に出向いて。貴族の出とは思えないほど、毎日忙しく動き回っていた。
そんな記憶がよみがえってしまったからか、私は体を動かしたいと思うようになってしまったのだ。
それもできるなら、思い切り剣を振るいたい。久しぶりに。
でも今まではシャルルとアイザックのことで悩むので手いっぱいで、運動どころではなかった。
だからそんなそわそわした気持ちも、すっかり忘れてしまっていた。
けれど混乱し戸惑い、逃げようとする私を、彼はシャルルとアイザック、二人分の愛情で引き留めてくれた。
そのおかげか、私も少しずつ彼を受け入れられそうな気がしてきた。
少なくとも、憎しみがこらえ切れないとか、逃げ出したくてたまらないとか、そういったことはなくなっていた。
そうやって平常心を取り戻してくると、忘れていた衝動がまた頭をもたげてしまったのだ。
そして私は、またしても問題にぶち当たってしまっていた。
戦続きだった前世と違い、平和な今では、貴族の女性が剣を取ることなどまずあり得ない。手合わせに付き合ってくれそうな相手に、ろくに心当たりがなかったのだ。シャルルを除いて。
悩んで悩んで、結局シャルルに打ち明けた。お願い、ちょっと手合わせに付き合って、と。
快く付き合ってくれるかと思いきや、シャルルは苦虫をかみつぶしたような顔で「嫌だ」と短く言った。
アイザックでもある彼がそんな風に答えたことに驚きつつ、お願いと脅しを織り交ぜて説得にかかる。かれこれ一時間ほど粘って、「……少しだけなら」という言葉を引き出すことに成功した。
そうして、久しぶりの手合わせが始まった。前世の一騎討ちとはまるで違う、平和そのものの手合わせが。
しばらく打ち合って、近くの木陰で休憩する。
前世では何時間も戦場に立っていたのに、三十分もせずに息が上がってしまったのだ。
シャルルは顔色一つ変えていない。男女の体力差のせいだと分かっていても、何だか悔しい。
ハンカチで汗を拭いながら、息を整える。ほてった体に、風が心地良い。
「ふう、いい運動になったわ。生まれ変わってからこっち、運動なんてダンスと乗馬だけだったから……動き方は分かっているのに、体がついていかなくてもどかしかった」
「俺もだ」
「あれだけ機敏に動いておいて、よく言うわね?」
「以前の半分、いや四分の一も動けていない」
「前世のあなたって、本当にとんでもなかったのね。あんなに大きなハルバードを軽々と振り回していたし」
木陰でアイザックと二人、こんなことを話している。ローラがこんな状況に置かれたらどんな顔をするだろうか。答えは簡単だ。嫌悪。
かつて私の中にもあったその感情は、もうだいぶ薄れているように思えた。
というより、過去の感情は過去のものとして、割り切ることができるようになってきたというか。
そしてアイザック、というかシャルルは、いつになく暗い顔をしていた。思わず、どうしたの、と聞かずにはいられないくらいに。
「……もう、あれを手にするつもりはない」
「そうなの? 確かに、あれは当時でも異様な武器だったし……だったら普通の剣ならどう?」
「……普通の武器は全て、嫌だ。これ以上、殺したくはない。俺は最期に、ローラを殺した。これ以上誰かを殺したら、ローラが特別ではなくなってしまう」
「……分かるような、分かりたくないような……ともかく、いかにも人を殺せそうな武器は嫌なのね?」
「ああ。この練習用の木剣でも、少し不満だ。さっきの手合わせも、お前に余計な傷を与えはしないかと冷や冷やしていた」
「もしかしてそれで、手合わせを拒んでいたの?」
「そうだ」
きっぱりと答えたシャルルに、ふと以前の彼のことを思い出す。
かつてシャルルは、儀礼用のものであっても真剣を帯びるのを嫌がっていた。誰かを傷つけるのは嫌だ、血を見るのは嫌だと言って。
だから彼の前世がアイザックなのだと知った時、大いに驚いたものだ。
でも今のシャルルも、やはり真剣は拒否している。理由はまるで違うけれど。
「……アイザックの口から、こんな言葉を聞くことになるなんてね。彼のこと、血も涙もない、人間かどうかすら怪しいと思っていたのよ」
ふとつぶやいたそんな言葉に、シャルルの様子が変わる。彼は目を伏せて、考え込むような表情をしたのだ。
どうしたのだろう、と首をかしげていたら、やがて彼は静かに言った。
「……アイザックは、孤児だった」
そうして、彼は語った。前世の彼の、悲しい生い立ちを。
青の国は、積極的に周囲の国を攻め落とし、のみ込んでいた。常にどこかと戦争をしている、そんな国だった。
戦が続けば、兵士が死ぬ。父親を失った家庭は崩壊して、後にはたくさんの孤児たちが残された。
あっという間に、孤児院は孤児たちであふれかえった。結果、孤児院の環境はどんどん悪化していった。アイザックが放り込まれた孤児院も、ひどいところだったらしい。
こんなところにはいたくないと考えたアイザックは、自ら志願して十の歳で兵士となった。青の国では常に兵士不足に悩んでいたから、子供であれ兵士となることはできた。
無口で無表情の彼は気味悪がられていたものの、戦いにおいてはとても役に立っていた。
その腕を見出され、彼はどんどん出世していった。周囲の人々は彼の力に頼り、彼を利用しようとはしたけれど、彼と親しくなろうとはしなかった。
気味が悪いほど強く、人間味のかけらも見せないアイザックを、みな遠巻きにしていた。うっかり逆鱗に触れでもしたら大変だと、そう思っていたらしい。
アイザックはさらに強くなり、将軍にまで上り詰めた。けれど、人の温かな感情を知る機会には恵まれなかった。
そのせいで、彼はさらに恐れられた。敵からも、味方からも。
「俺には、戦うことしかなかった。人としてのまともな感覚をどこかに捨ててきたのだろう。どれだけ殺そうが、何も感じなかった。人はいずれ死ぬ。それだけのことだと、そう思っていた」
そう言って、彼は目を細めた。かつてのそんな自分を、憐れんでいるような表情だった。
「生きているのか死んでいるのかも分からない、ひたすらに空虚な日々だった。……お前に、出会うまでは」
シャルルのサファイアの目が、私をとらえた。その表情が、泣きそうな笑顔に変わる。
「俺と同じ、戦うために戦場に立つ者。けれどお前は俺とは違い、生気に満ちていた。何も考えず、何も感じることなく戦う俺とは違い、お前は俺にまっすぐな憎しみをぶつけてきた」
彼の表情が、また変わった。幸せそのものといった、かつてのシャルルによく似た笑み。
「これほど美しいものを、初めて見た。そう思った。強い感情を向けられたのも、初めてだった」
何も言えずにいる私に、彼はそっと微笑みかける。この上なく、優しく。
「また彼女に会いたい。その一心で、俺は戦場に立ち続けた」
彼の心は、戦場にあった。そこで出会う、私……ローラの上だけに。アイザックのことを全て許せた訳ではないけれど、彼に少し同情してしまった。
「そうして、俺の命は終わった。ずっと空虚だった俺の胸は、ひどく満たされていた」
そこまで語り終えて、シャルルはふうと息を吐いた。満足そうな、でも少し疲れたような顔だ。
「……こうして生まれ変わり、かつての自分の行いを振り返り……もう、あんな生き方はしたくないと思った。こんな風に感じるようになったのも、きっとお前のおかげだと思う」
「私、大したことはしていないわ」
「お前は、ただそこにいてくれるだけでいい。お前は俺の灰色の世界を鮮やかに照らす、ただ一つの太陽なのだから」
「……結構、恥ずかしいことを言ってない?」
突然くすぐったいことを言われてしまって、どうにも落ち着かない。そう指摘したら、シャルルもくすぐったそうに笑った。
「……かもしれない。だが、本心だ」
その表情に、目が吸い寄せられる。どことなく無邪気なほどに純粋で、そしてどうしようもなく一途で。
アイザックとかつてのシャルルは、本質的には似かよっているのかもしれない。ただ、アイザックはあまりにも不幸な星のもとに生まれてしまっただけで。
もしアイザックが、今のこの平和な時代に生まれていたらどうなっていただろう。案外、かつてのシャルルのような穏やかな人物になっていたかもしれない。
ああ、どうしよう。これではもう、アイザックを憎めない。……そもそも、もう憎んでいなかったのかもしれないけれど。
「何を考えている?」
気づくと、すぐ目の前にシャルルの顔があった。不思議そうな表情で、私の顔をのぞき込んでいる。
「な、なんでもないわ!」
そう言って離れようとしたけれど、動けない。あれ、どうしたのだろう。
「ってちょっと、勝手に腰を抱かないで!」
「……俺はお前の夫だ。たまに触れるくらい、いいだろう」
「そうだけど! 私があなたのことをどう思っているか、分かっているでしょう!?」
「だから、ここで止まった。これ以上近づくつもりはない。……今は」
やけに意味ありげに、シャルルは堂々と答えた。その余裕が、少々憎らしい。
そっぽを向いてむくれていたら、ふっという小さな声がした。今のって、笑い声?
正面を向くと、おかしそうに笑っているシャルルと目が合った。かすかな笑い声が、その喉からもれている。
彼に笑われるのは、複雑な気分だ。でも、彼がそうやって笑っていられるのは、いいことのような気がする。
仕方なく、そのままじっとしていた。腰に回された彼の腕の、温もりを感じながら。




