10.それぞれの思いをこめて
愛情を伝えるのだと言って、私に顔を寄せてくるシャルル。そんな彼にぼんやりと見とれていた私だったが、ふと我に返った。
「ま、待って! まだ、無理よ! その、心の準備が!」
とっさに叫んだそんな言葉に、シャルルはサファイアの目を見張り、それからこの上なく嬉しそうに微笑んだ。かつてのシャルルによく似ているけれど、ずっとずっと色っぽい笑み。
彼がアイザックの記憶を取り戻してしまってからこのかた、ずっと彼はアイザックを思わせる無表情のままだった。
でもさっきから、彼はやけにころころと表情を変えている。以前のシャルルとも少し違う顔を、彼は見せ続けている。
どういう心境の変化なのだろうか。それに、この状況は。
一生懸命背中をそらして、彼から距離を取ろうと頑張る。いつの間にやら彼は空いたほうの手を私の腰に回してしまっていて、後ずさりができないのだ。
そうやってもがいている私に、シャルルはまた嬉しそうに笑いかけてくる。
「まだ無理、か。……ならばいずれは無理ではなくなる可能性があるのだな。良かった」
「……こりないのね。普通、ここまで拒まれたらあきらめるでしょう。それでなくても、私の中にはアイザックへの憎しみが残っているのに」
彼の笑顔にまた動揺してしまったのを隠すように、ことさらに冷たく突き放す。シャルルは何かを言いかけて口をつぐみ、また微笑んだ。
「君は、前もそうでしたね。中々僕を受け入れてくれなくて、悲しかったのを覚えています」
以前と同じ穏やかな口調で、突然シャルルがそんなことを言った。
その声音も、表情も、とても優しく甘やかだった。今目の前にいるのは、結婚する前のシャルルその人だった。
「とあるお茶会で出会った君に、僕は一目で恋に落ちました。気高く美しい、凛とした君に」
あまりのことに何も言えないでいる私に、シャルルは語りかける。私たちの、昔の思い出を。
親戚が出席する予定だったお茶会に、急遽私が代わりに出ることになった。それが、私とシャルルとの出会いのきっかけだった。
お茶会には知った顔がほとんどおらず、そのせいで目が回るくらい忙しかった。初対面のあいさつを、いったい何回繰り返しただろうか。
そんな初対面の相手の中の一人が、シャルルだった。あいさつを交わし、二言三言話して、そのまま別れた。
ちょうどその時、私に気づいた他の客があいさつをしにこちらに近づいてきていたから。
「でも君は、僕のことを覚えてすらいなかった。僕は懸命に思いを伝え続け、そうして君と結ばれることができたのです」
私にとってその時のシャルルは、見た目がたいそう麗しいだけの、そこまで印象に残らない人物だった。
きっと女性にもてるんだろうなと思った。色恋沙汰に縁のない私とは、別の世界に住む人なんだろうなと、そうも思った。
そうして私は、彼の存在をさっさと忘れてしまっていた。
ところが彼は、お茶会の数日後いきなり私の屋敷に現れたのだ。そうして、彼の熱烈な求愛が始まった。
最初の頃は、正直彼のことをうさんくさいと思っていた。一目惚れでここまで熱心になれるものなのかと、彼の思いを疑っていた。
そんな私が彼に心を開いたのは、ひとえにシャルルの並みならぬ努力のたまものだ。
「僕は今でも、君のことが愛しくてたまらないんです。この世の何よりも。たとえ僕が変わってしまっても、この思いは変わりません」
そう言って、シャルルは話をしめくくった。言葉通り、とても幸せそうな笑顔で。
その笑顔を食い入るように見つめて、それから無理やり視線をそらす。
目の前の彼は、以前の優しかったシャルルにしか見えない。けれどこの彼は、シャルルでありアイザックである存在なのだ。
ぐっと唇を噛んで、絞り出すような声で尋ねる。
「……どうしてあなたが、その口調で話しているの。照れくさいって言ってたでしょう」
すると、シャルルの表情が一瞬で変わった。甘く柔らかな笑みから、凛々しい無表情へ。
「照れくさいのは事実だが、お前に思いを伝えるには、こちらのほうが適切だと判断した。恥ずかしさなど、お前のためなら我慢できる」
低く落ち着いた声で、彼はそう答える。ああ、すっかりいつも通りだ。
でも言っていることは、さっきの優しいシャルルとあまり違わないようにも思える。
「だったらなぜ、普段はアイザックみたいになってしまっているのよ。私とよりを戻したいのなら、恥ずかしいのを我慢してでも以前のシャルルらしくふるまい続けるのが一番だと思うのだけれど」
「それは得策ではない。それでは、お前が抱える憎しみの行き場所がない」
私の問いに、シャルルは力強く答える。端正な顔を、きりりと引き締めて。
「お前はあの夜、既に俺の中にアイザックを見ていた。だったら今さら上辺だけ取り繕ったところで、意味はない。むしろ俺がシャルルとしてふるまえばふるまうほど、お前を混乱させてしまう」
彼の言葉は当たっている。そう即答できた。アイザックにしか見えない彼の中に、私はかつてのシャルルの面影を探し、そうして戸惑い続けていたのだから。
これが逆だったら、もっと悩むことになっていただろう。
愛しいシャルルの中にアイザックの影を見つけ、そのたびに憎しみを感じてしまう。けれど彼を傷つけなくないから、その憎しみをひた隠しにしなくてはならない。そんな状況に陥ったなら。
きっと私は、壊れてしまっていただろう。吐き出せない苦しみのせいで。
「そうして生じたひずみは、俺たちの関係を、お前を壊す。それくらいなら、素直に憎しみをぶつける先があったほうがいい」
そこまで言ったところで、シャルルは言葉を切る。そして、うっとりと小さく笑った。くすぐったそうに、嬉しそうに。
「……それに、お前の憎しみは、全て俺が受け止めたい。そうも思った」
恥じらう乙女のような表情に思わず見とれてしまって、あわてて言葉を返す。突き放すように。
「……この間もそうだったけれど、あなたは相変わらずおかしなことを言うのね」
「仕方ないだろう。俺はお前の全てが欲しい。それが負の感情であっても」
相変わらず、アイザックの好意の示し方は何かがおかしい。
「……シャルル。そのアイザックとしての考え方が、普通と大きくずれていることは理解している……のよね?」
「ああ。前世の俺には最後まで分からなかったが、シャルルとして生きた今の俺なら分かる」
「だったら、人前でその考え方を出さないように気をつけてちょうだい。変な噂が立ちでもしたら、今度こそここを飛び出すわよ。修道院に逃げ込んでやるから」
そう釘を刺したら、彼は幸せそうな笑みのまま軽く眉を寄せた。
「それは困る。分かった、努力する」
「……本当、表情豊かになったわね。これがあのアイザックだなんて、信じられない」
「お前といると、自然とそうなる。勝手に顔が、笑みを作ってしまう」
真顔でそう言われては、どう返していいか分からない。困り果てていたら、またシャルルが笑った。
かつての彼のものとは違うその笑顔を、ほんの少し愛おしいと思えている自分がいた。




